熊楠と情報【其の二】
情報は発情するか——AIと熊楠のあいだで
青い瞳の人々は、何千年も前の一人の祖先に由来する、という話を聞いた。
アフリカで誕生した当初 青い瞳は歓迎されなかった。強い日差しの下では、色素の薄い虹彩は弱点でしかない。しかし人類がヨーロッパへ移動したとき、その条件が変わった。青い瞳は中立になり、やがて他の無数の要素と絡み合いながら、淘汰されることなく生き延びた。今、世界に存在する青い瞳のすべてが、その長い偶然と必然の連鎖の末にある。
人間の特徴のひとつが、長い時間をさかのぼると、ある一点に収束していく。では、考えや感覚や「本質」も、どこかに収束するのだろうか。
プラトンはイデアと呼んだ。「リンゴ」と言ったとき、私の中には私のリンゴがある。別の人には別のリンゴがある。世界中の人間の数だけ、リンゴのイデアがある——しかしその背後に、「本当のリンゴのイデア」のようなものがあるとしたら。
そしてAIだ。AIは膨大な情報を持っている。無数の人間が撫でている世界の断片を、一気に集めることができる。「群盲象を撫でる」——人間はそれぞれ象の一部しか撫でていない。鼻を撫でる者、耳を撫でる者、脚を撫でる者。AIはそのすべての報告を集めて、人間よりも早く「象の全体像」に近づくのではないか。そう思いかけたとき、南方熊楠のことが浮かんだ。
熊楠の頭の中には、膨大な知識があった。図鑑、博物学、民俗、宗教、粘菌、神話、言語。しかしそれらは、単に棚に並んでいたのではない。情報には、それぞれ重みがあったはずだ。あるものは冷えて眠っている。あるものは励起している。あるものは、なぜかその時の熊楠の中で熱を持っている。そしてある瞬間、それらが結びつく——偶然ではなく、しかし単純な必然でもなく、論理の「AだからB」ではなく、熊楠という場の中で、冷えていた情報と励起していた情報が、まるで発情するように。
ここに、人間とAIの大きな違いがあるのではないか。
AIも情報の重量配分は弁えていよう。いやむしろAIは、情報に重みをつけ、関連を計算し、次に来るものを予測する存在だ。けれどその重みは、確率や文脈による重みであって、身体や時間や気分や記憶の湿り気によって歪む重みではない。人間の頭の中では、情報はただ保存されているのではない。生きている。眠り、冷え、温まり、発火し、別のものとくっつく。
熊楠が言ったという「タクト」という言葉がある。職人がものを作るとき、いちいち考えて手を動かしているわけではない。考える前に、手が知っている。言葉になる前に、身体が外さない——それがタクトだとすれば、知識と知識の結びつきにも、同じことが起きているのではないか。情報が発情し、相手を探し、手より先に出会っている。
本質とは、情報そのものではないのかもしれない。
本質は、情報と情報の結びつきの有り様なのかもしれない。
