嘘
モモの木で作られた小さな小舟に乗って、夜の川を下る仕事をしている男がいた。
男の名前はニコ。ニコの仕事は、川面にぷかぷか浮かんでいる「誰かのちいさな嘘」をすくい上げ、きれいに洗って、星の数ほどある夜空のどこかへ打ち上げてあげることだった。
この川に流れてくる嘘は、どれも悪意のないものばかりだった。
「ううん、全然悲しくないよ」と笑顔で言ったときの、唇の裏側にこびりついていた小さなトゲ。
「これ、君にあげる」と本当は自分が一番欲しかったものを差し出したときの、少しだけ切ない甘い香り。
人々が誰かを傷つけないために、あるいは自分自身の心をこれ以上すり減らさないために飲み込んだ、小さな小さなガラス玉のような嘘が、夜になると静かに川面を流れてくるのだ。
ニコは櫂を静かに漕ぎながら、網ですくったガラス玉を指先でそっと転がした。
「さて、今夜はどんな秘密が流れてきているのかな」
ふと、水面の一際明るい場所で、ほんのりピンク色に光るまぁるい玉を見つけた。
いつもなら、どんな嘘も水で洗い流せば透明な星の泡になって夜空へ消えていくのに、その玉だけは何度洗っても、ちっとも色が落ちなかった。それどころか、まるで生き物のように、ニコの手の中でトクトクと心音のようなリズムを刻んでいる。
「……なんだこれ? 嘘じゃないのか?」
首をかしげたニコは、その玉を自分の胸元にあててみた。
その瞬間、頭の中に、どこかの知らない部屋の光景がなだれ込んできた。
窓の外では、細やかな雪が音もなく降っている。
古びた木製のベッドの上で、小さな女の子が毛布をぎゅっと握りしめていた。女の子の目はもうほとんど見えておらず、息をするのもやっとの様子だった。
その枕元に寄り添うように座っていたのは、すっかり白髪交じりになった初老の男だった。男の目は真っ赤に腫れ上がり、必死に声を振るわせて笑顔を作っていた。
『ねえ、お父さん。私、病気が治ったら、あの遠い海の向こうにある、お星様が一番よく見える丘へ連れて行ってくれるって約束、覚えてる?』
女の子が弱々しい声で尋ねる。
男は、自分の胸が引き裂かれそうになるのを必死にこらえ、震える手で女の子の小さな頭をなでた。
そして、かすれた、でも世界で一番優しい声でこう言ったのだ。
『ああ、もちろん覚えているとも。来週にはすっかり良くなるから、そしたら二人で、あの光る丘へ出かけよう。だから、もう少しだけ、お休み……』
それは、あまりにも優しくて、あまりにも残酷な嘘だった。
男は知っていた。医者からは「もう今夜が峠だ」と告げられていたからだ。海の向こうの丘になんて行けない。明日になれば、この小さな温もりは永遠に消えてしまう。
それでも男は、最後に女の子の恐怖や絶望をすべて引き受けるため、この「明日が来る」という真っ赤な嘘を紡ぎ出し、心の底から信じ込ませたのだ。
――あのとき、お父さんはどんな気持ちで、この嘘を飲み込んだんだろう。
ニコは、手の中の光る玉をしっかりと握りしめた。
それは嘘なんかじゃなかった。痛いくらいの、あまりにも巨大な「愛」そのものだった。
そのとき、川の向こうから、波の音に混じって、しずかな足音が聞こえてきた。
顔を上げると、川岸の古い桟橋に、一人の老人がぽつんと立っていた。白髪交じりの髪に、すり減ったコート。その瞳は、長い旅路を終えたように、どこまでも静かで、そして少しだけ寂しそうだった。
老人はニコの小舟を見つめ、ゆっくりと言った。
「……おい、若い人。そこにあるのは、わしが昔、一番大切な人に置いてきてしまった『最後の嘘』じゃないか」
ニコは櫂を止め、小舟をそっと桟橋に寄せた。
「そうだったんですね。ずっと、消えない理由がわかりました」
老人はゆっくりと小舟に乗り込み、ニコの隣に腰を下ろした。そして、ニコの手のひらからそのピンク色の光を受け取ると、愛おしそうに両手で包み込んだ。
「あのときね、あの子はね、私の嘘を信じたまま、すごく安心した顔で眠りについたんだ。怖くないよ、明日また遊ぼうねって、そう笑いながら……。わしは、その笑顔を守るために、自分の未来のすべてをその嘘に差し出したのさ」

老人は目を細め、夜空に浮かぶ無数の星を見上げた。
「嘘をつくたびに、自分の胸に穴が空いていくような気がしていた。あんな優しい嘘をつかなければ、もっと違う未来があったんじゃないかって、ずっと後悔していたんだよ」
老人の目から、一筋の涙がこぼれ落ち、手の中の光る玉に落ちた。
その瞬間、玉を包んでいた硬い殻が、ふわりと音もなくひび割れた。
中からあふれ出たのは、嘘や悲しみではなく、温かく柔らかい無数の光の粉だった。
その光は夜空へ昇っていき、まるでオーロラのように街の空を優しく染め上げた。暗かった川の水面も、まるで鏡のようにキラキラと輝き始める。
老人は胸に手を当て、深く、そして長い息を吐き出した。
「……あぁ。やっと、息ができるようになった」
ニコは静かに微笑み、櫂をもう一度水に浸した。
「嘘は、人を騙すためだけにあるんじゃないんですね」
「ああ。誰かを愛しすぎて、自分の身を焦がすような優しさも、この世にはちゃんと形として残るのさ」
光に満ちた川の上を、小舟はゆっくりと進んでいく。
二人の背中を見送るように、夜風が優しく吹き抜け、世界はどこまでも静かで、あたたかな余韻に包まれていった。
