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人新世に批評は可能か――サイボーグと「能動的な静止」



本稿は、一つの綻びから始まる。
その綻びは、矛盾として現れることもあれば、自明性として隠されていることもある。意味や情念による覆いは、しばしば対象の構造を隠蔽する。
しかしテクストは、その綻びにおいて自らの構造を露呈する。
以下、その構造を観察する。



人類の活動が地球の地質や生態系にまで不可逆的な影響を与える時代を、ジェレミー・デイヴィスは「人新世(Anthropocene)」と呼んだ。
この地質学的な危機のただ中で、私たちはもはや、世界を安全な「外部」から観察し、評価を加える特権的な立場にはいられない。気候変動や巨大な情報ネットワークといった対象は、すでに私たちの身体の境界を越え、物事を認識する回路の深層にまで入り込んでいる。このように世界と私たちが複雑に絡み合い、従来の認識の枠組みが限界を迎えた状況において、そもそも「批評」という営みはいかにして可能なのだろうか。

それは、自立した主体を中心とする英雄的な「抵抗」ではなく、人間以外の存在(非人間的対象)と互いに影響を与え合う「生成的共犯」という態度へと転回することを私たちに求めている。
私たちは完全に独立した個人であるという前提をいったん手放し、環境やテクノロジーと分かち難く結びついた一つの認知システムとして、システム全体が引き起こす自律的な「構造的誤作動」を引き受ける必要がある。

意味を性急に生産することを思いとどまり、安易な解決を無限に遅延させる「能動的な静止」としての批評
本稿は、人間中心主義が限界を迎えた「我々なき世界」に向けて、批評という行為を新たな倫理的実践として捉え直す試みである。

粘着する環境とサイボーグの「無過失責任」

批評的距離の喪失
近代の美学、とりわけカントの『判断力批判』以降の批評理論は、一つの強力な前提の上に立ってきた。それは、批評する主体が対象(作品や世界)から一定の「批評的距離」を保ち、特権的な位置から客観的に価値判断を下せるという前提である。
しかし、人間の活動が地質を動かすほどの力を持った現代において、自然と人間、あるいは主体と客体をはっきりと切り離す近代的な二項対立は、すでにその根本的な基盤を失っている。

ティモシー・モートンが提起した「ハイパーオブジェクト(巨大対象)」――たとえば気候変動やグローバル資本主義、あるいはインターネット空間など――は、時間的にも空間的にもあまりに広大に分布しているため、人間がその全体像を客観的に把握することを拒絶する。
私たちは常にすでに、批評すべき対象の「内部」に完全に包み込まれている。モートンはこの事態を、対象が私たちの身体や思考、そして言葉にまで浸透し、べったりと絡みついている「粘着性」という言葉で表現した。
批評家はもはや、対象を外側から観察するのではない。この逃れようのない環境の粘着性のなかで、自己と世界との境界線が溶けていくプロセスそのものを引き受けなければならないのである。

拡張認知と法的責任の反転
この「粘着」は、単なる文学的な比喩ではない。アンディ・クラークらが提唱する「拡張認知」の理論が明らかにしているように、人間の思考のプロセスは、個人の頭蓋骨の内側だけで完結しているわけではない。
私たちの思考は、スマートフォンやデジタルデバイス、さらには「いま批評しようとしているテキスト」といった外部の環境と、絶えず情報をやり取りするループを形成することで初めて成り立っている。

現代における知的生産活動は、デジタルなエージェントやアルゴリズムと不可分に結びついた「拡張された認知システム」による営みである。この点について、J. A. カーターとS. オレスティス・パレルモスは、拡張された認知へのサイバー攻撃をユーザーに対する直接的な暴行や権利侵害と見なし、サイボーグ化された人間の権利保護を訴えた。

しかし本稿は、この法的な論理をあえて反転させてみたい。もし私たちの権利が身体の外部にあるデバイスやシステムにまで拡張されると仮定するならば、外部のシステムが引き起こした自律的なエラー(構造的誤作動)に対しても、私たちは製造物責任に似た「無過失責任(自分に故意や過失がなくても負わされる責任)」を負う論理的な必然性が生じるはずだ。
批評家とは、自らの脳の限界を超えた巨大なシステムが弾き出す結果に対して、根源的で構造的な倫理的責任を背負わされる結節点として、新たに定義し直されるのである。

遭遇による思考の強制
では、この拡張されたネットワークのなかで、思考はどのようにして立ち上がるのだろうか。真の思考とは、自発的な意志から生まれるのではなく、常に外部からの不可逆的な「遭遇」によって強制的に触発されるものである。ハイパーオブジェクトとしての世界から投げかけられる記号は、私たちが慣れ親しんだ認識の枠組みからはみ出す異物として到来し、拡張された認知システムに対して情報的なショック(摂動)を与える。

このショックこそが、批評という営みを発生させる最大の原動力として機能する。批評とは、外部から深く入り込んできた異質なコードに対して、認知システムが予測不可能な形で展開していくことであり、自己を維持するために必死に行う再適応のプロセスとして位置づけられる。

接触ゾーンにおける代理因果と形式の解体

退隠する実在と代理因果
このように拡張されたシステムにおいて、批評家は作品とどのように関係を結ぶのだろうか。この問いに対し、グレアム・ハーマンの「オブジェクト指向存在論」は重要な示唆を与えてくれる。
ハーマンによれば、あらゆる対象(オブジェクト)は「実在的な核」を持っており、それは他者と直接触れ合うことから永遠に身を引いている(退隠している)という。

つまり、批評家がどれほど精緻に作品を分析したとしても、作品の本当の「実在」そのものには決して手が届かない。しかし、実在同士が直接触れ合わないとしても、それらが持つ「感覚的な性質」、あるいは翻訳された表層同士は互いに激しく干渉し合う。
ハーマンが「代理因果」と呼んだこの間接的な接触こそが、批評が行われる現場を形作っている。批評における解釈とは、対象の真実に直接到達することではない。対象が身を引くことによって生まれた空白の地帯で、翻訳された表象同士がぶつかり合い、新たな認識の展開を生み出していくプロセスなのである。

端末としての場所への没入
このように対象の核心には触れられないとしても、批評家は常に具体的な文脈のなかに存在している。美術史家のミーウォン・クォンが論じた「サイト・スペシフィシティ(場所固有性)」の議論を広げて考えてみよう。作品はそれ単体で自律して存在するのではなく、それを取り囲む物理的・社会的な環境、すなわち「場所」との関係性のなかで思考を媒介していく。

ハイパーオブジェクトは特定の場所に収まりきるものではない。しかし批評家は、特定の具体的な場所に深く入り込む(没入する)ことによって、逆説的に、どこにも属さない全体へとアクセスすることができる。
私たちがスマートフォンという一つの端末を通じてインターネット全体に接続するように、特定の場所が抱える歴史の地層や生態系のネットワークという「インターフェース」に自らを埋め込むことで、初めて巨大な対象との回路を開くことが可能になる。

翻訳という名の感性的代謝
この没入状態において、ドナ・ハラウェイが提唱した「接触ゾーン」は、物理的な身体が触れ合う場ではなく、代理因果によって互いの「形式」を変容させる場として立ち現れる。

実在の核心には触れられないとしても、ハラウェイ的な意味での「接触」は可能である。なぜなら、ハラウェイの言う他者との「共食」とは、対象の実在に触れることではなく、対象を自分自身のシステムへと取り込み、別の形へと作り変えていく「感性的代謝」を意味するからだ。
接触とは単に相手を理解することではなく、高度な翻訳の実践である。批評家は作品の実在には届かないが、完全には翻訳しきれない対象を、自分の認識の枠組みへと無理やり当てはめようとするプロセスにおいて、自分自身の思考の形式を後戻りできない形で変容させてしまう。
これは主体的な分析というよりは、翻訳不可能性が引き起こすカテゴリーの溶解、すなわち「形式の解体と再編」として理解されるべき事態である。

構造的誤作動としての生成的共犯

環境としての先行者
このように自らの形を変容させられる主体に対して、世界は圧倒的な「先行者」として立ちはだかる。文学批評家のハロルド・ブルームは、過去の偉大な詩人と後継者との間の葛藤を「影響の不安」として描き出したが、現代においてこの葛藤は、「環境としてのハイパーオブジェクト」と個々の人間との間の非対称な緊張関係へと拡大して捉えることができる。

批評家が語ろうとする言葉も、体制を批判する身振りでさえも、すでに広大な環境システムによって先回りされ、規定されてしまっている。主体は対象の実在そのものには決して届かず、常に何かを媒介にして関係を築くほかないのである。

構造的誤作動としての共犯
このような逃げ場のない構造のなかで、批評はいかにして独自の領域を確保できるのだろうか。ここで、哲学者のレザ・ネガレスタニが用いた「共犯」という概念が、重要な理論的転回をもたらす。ただし、これを人間が意図的に仕掛ける戦略としてだけ解釈するのは適切ではない。

拡張された認知システムのなかで、批評家は情報の通り道(結節点)として機能している。接続が過剰になり、流れ込む情報が一定の限界を超えたとき、システムは必然的に構造的なエラー(誤作動)を起こす。
この誤作動こそが、ネガレスタニの論じる共犯の正体であると考えられる。システム自身が、批評家という脆弱な結節点において矛盾を露呈し、構造的な機能不全を始めるのだ。
批評家は、このシステムが自律的に再編されていくプロセスに巻き込まれ、その変化を促す触媒として機能するという意味において、共犯的な立場に立たされる。

クリナメンと門を開く行為
この誤作動の結果として生じるのが、システムのエラーによる意図せざる軌道のズレ、すなわち「クリナメン(偏差)」である。この小さなズレは、作品や場所の奥底に眠っている人間以外の論理を表面に引きずり出し、それを人間社会の言葉の体系へと接続する契機となる。

これは、硬直した社会のシステムを認識の根底から揺さぶる役割を果たすが、誰かが悪意を持って破壊しようとした結果というよりは、システムに負荷がかかりすぎたことによる必然的な出来事である。
批評とは、この認識論的なエラーをなかったことにせず、むしろ正確に記述してその展開を促すことによって、私たちが当たり前だと思っている価値の体系を相対化する実践として位置づけられる。

黒い照明の下での記述と「能動的な静止」

コズミック・ペシミズムと我々なき世界
こうした構造的誤作動が展開した果てに立ち現れるのは、ユージーン・サッカーが論じる「我々なき世界」である。拡張された認知主体が接続を試みた先には、人間の幸福や正義といった物差しでは決して測ることのできない、非人間的で自律的な惑星の現実が広がっている。
拡張された知性は、人間が万物の頂点に立つという特権的な地位を相対化し、環境や他者とのネットワークの内部に人間を適切に再配置する。これは単なる虚無主義(ニヒリズム)というよりは、より広い意味での「環境正義」を実践することとして理解されるべきだ。

黒い照明と無限の遅延
かつての啓蒙主義的な批評が、わからない対象に理性の光を当てて「解明」することを目指したとするならば、本稿の立場はそれとは異なる方向を目指す。啓蒙的な「解決」とは、対象を人間に役立つ意味へと還元することであり、それは巨大な対象を人間側の都合に合わせて無理やり同化させることに他ならない。
これに対して、本稿における批評とは、作品がいかにして人間的な理解を拒絶しているか、その「わからなさ」の輪郭を「黒い光」によって逆照射する試みである。

この記述の実践は、原理的に終わりを迎えることがない。批評家は、結論に到達することを無限に先延ばしにし、ただひたすらに人間以外のノイズを記録し続けるメディアとしての役割を担うことになる。
先述のジェレミー・デイヴィスの議論を参照するならば、人間中心主義的な「解決(ソリューション)」を急ぐ態度こそが、逆説的に環境破壊を押し進めてきた要因となっている側面が指摘できる。
したがって、「解決を保留すること」、すなわち意味を決定してしまうことを遅延させ、対象の不可知性(わからないという状態)をそのまま保全することこそが、対象を一元的な支配から守るための確実な手段となる。

能動的な静止と根源的ケア
このような遅延の運動は、開発や同化が猛烈なスピードで進行する現代社会において、そのプロセスに対する「能動的な静止」として作用する。
それは、ただ立ち止まっているだけではない、高度な緊張関係を伴う静止状態である。虚無主義に陥るのではなく、対象を対象のまま守り抜く「根源的ケア」としての倫理的な実践の姿を提示するものなのだ。

存在論的な開口部と「信と疑」の動態均衡

批評とは、人新世というかつてない状況下において、拡張された認知主体が異なる存在と激しく干渉し合い、自分自身の形を可塑的に変容させていく実践である。
それは、システムの構造的誤作動に巻き込まれながら関与し、人間中心主義的な解決を遅延させることで対象の自律性を守り抜くという、きわめて逆説的なケアのアプローチとして位置づけられる。

この困難な実践の根底を支えているのは、「信じること(肯定)」と「疑うこと(懐疑)」の激しいバランス、すなわち動態均衡である。

自らが外部の環境と深く接続されているという事実を受け入れることは、対象への無条件の「信」を要求する。
この前提がなければ、巨大な対象との関係は単なる同化や汚染に留まり、何かを新しく生み出すような相互作用は構築できない。
しかし一方で、既存の認識の枠組みを相対化し、世界が提示してくる分かりやすい意味づけを退けるためには、根源的な「疑い」が不可欠となる。

批評主体とは、この「信」と「疑」という真逆のベクトルが互いに引っ張り合う、力学的な境界線(界面)そのものである。
この動的なバランスが維持される限りにおいてのみ、批評は教条主義的な盲信に陥ることも、虚無的な冷笑主義に逃げることもなく、「我々なき世界」へ向けて開かれた存在論的な窓(開口部)として、確かに機能し続けるのである。


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