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侠客という概念

 孫文は『三十三年の夢』の序文に、「隋の昔、東海の侠客にして、虯髯きゅうぜん公と号する者が現れて唐朝建国の大業を助けた。宮崎君は虯髯を超える侠客である」という趣旨のことを書いている。虯髯公とは、 みずちのような髯を生やした人という意味だそうだ。孫文の記述は『唐代伝奇』の中の『虯髯客伝』に基づいている。この小説には、虯髯公が仇敵の心臓を食べたりしている描写があったりするから、まともな人物ではなく、確かに一種の無頼漢なのであろう。虯髯公を主人公にする演劇もあるそうで、結構中国では知られた人物らしい。しかし、『虯髯客伝』では侠客という言葉は使われていない。どうして孫文のような教養人が滔天について「侠客」というようなやくざ者の美名と思しき言葉を使ったのか、関心を持ったのでちよつと調べてみた。

 日本で言う侠客は「弱きを助ける遊び人」という程度の概念であって、正史にまで登場するような大きな役割は演じない。遊んでいて食えるわけもないから、日本版侠客の場合、「遊び人」というのは実は「ばくち」が生活の糧であるということを内包している。一方、中国における侠客の歴史は驚くほど古い。『史記 列伝』中の『遊侠列伝』は「儒は文の知識によって法を乱し、侠は武の暴力を用いて禁を破る」という『韓非子』の言葉の引用から始まるから、侠客に関する一番古い文献は『韓非子』ではなかろうか。この文言が含まれる『五』篇では侠者は「徒党を組み、節義を売り物にし、剣を帯びてのしまわって名を高め、国の禁制を踏みにじるもの」であるとされている。「五蠧」というのは、国を食い物にする五種類の害虫という意味で、その五つとは「学者、遊説家、侠客、商工者、労役の忌避者」である。こうした者たちが人を惑わし、法に疑いを抱かしめ、法を破り、あるいは不当な利益を得て、国家を滅ぼすのである」というのが韓非子の主張である。何と戦国時代には遊侠の徒は儒家• 墨家に並んで、国家の害虫とされるほど大きな勢力を誇っていたのである。

 さて、司馬遷は『遊侠列伝』の序文で、遊侠を

 遊侠とは、その行為が世の正義とは一致しないこともあるが、言ったこと   は絶対に守り、成そうとしたことは絶対にやりとげ、 いったん引き受けたことは絶対に実行し、自分の身を擲って、他人の苦難のために奔走し、存と亡、 死と生の境目を渡った後でも、おのれの能力におごらず、おのれの徳行を自慢することを恥とする、そういった重んずべきところを有している者である。

と定義する。そしてこうした勇者たちの伝記が残されていないのはきわめて残念であるとし、自分の時代の遊侠の徒について書き止めるのであると言う。そして、孟嘗君や春申君など個別に『列伝』で取り上げた人物については、いずれも王族であり、富裕で名声もあったため、実像以上に名声があるのに対し、民間の裏町に住む侠客について言えば、おのれの行いの結果、評判が広がったものであるから貴重であるとする。侠客の定義として「陋巷に住む者」という補則を付けたと言える。

 中国の侠客に関する歴史を知るには、井波律子『中国侠客列伝』( 講談社) という本がある。この本は「壮士 ーたび去ってまた還らず」の詩で有名な秦代の刺客荊軻(始皇帝を刺殺しようとする場面の描写は白眉である)の昔から現代に至るまでの史上、および物語に登場した侠客をセカセカとあわただしいが、ひととおり紹介している便利な本である。かくして孫文が滔天を侠客と呼んだのは、単なる「やくざものの好漢」といった意味を超えた、中国人ならではの思い入れがあることを知るのである。

 日本の侠客について三田村鳶魚が語っていることから察すると、日本の侠客は史書に残さねばならないような存在ではない。中国史を彩る遊侠の徒に比べるとスケールは著しく小さい。

 ときに、八九三はヤクザを指す隠語かと思っていたが、これが本当の名称らしい。三田村鳶魚の『鳶魚江戸文庫』第14巻「目明しと囚人• 浪人と侠客の話』によると、江戸中期の儒者新井白蛾(1715-1792) の『牛馬問』に「オイチョカブで八九三は( 和が二十だから)ブタになるので役に立たない。そこで、彼らのうちでは役に立たぬことをヤクザ、ヤクザと言い始めた」と書いてあるそうだ。真にこれが語源かどうかはわからぬが、少なくとも江戸時代すでに八九三で通っていたということは確かである。ヤクザを表す漢字はないから八九三が正式表記ということになる。

 役に立たぬ人間ということで博徒はとても礼儀正しく、人を立て、すべてに遠慮勝ちだったものだと鳶魚は書いている。仁義も元は辞儀とか時宜などと書いたもので、仁だ、義だと言い、任侠、男伊達と言われ始めたのは天保時代( 1930-1844) 以降のことだという。小粒ながらも、このほうが中国史の侠客のイメージに合っている。国定忠治は泥棒上がりであるため、博徒の間では軽蔑されていて、子分たちも顔付が悪くて、八王子でも甲州でも縄張りに入れてもらえなかったという話も出ている。

 「旅人たびにん」というと、時代劇では渡世人を指すが、元は渡りの杜氏• 髪結• 土方、とりわけ旅の雲水を指したそうである。どの宗旨でだれの弟子で、といったことをこまごま一言一句間違えずに言えぬと旅先の寺で泊めてもらえない掟だったそうで、雲水坊主から他の職人たちの世界に伝播していったという。口上は雲水のが一番厳しく、いわゆる「旅人さん」のは一番崩れているそうである。中期以降どうしてバクチ打ちが増え、 無頼化していったかについては鳶魚の本に詳しい。

 私が江戸時代に興味を持つようになったのは三十代の初めころ、木下素夫さんに勧められて勝小吉の『無酔独言』を読んだことがきっかけだった。当時の下級武士の生活を活写していてとてもおもしろい本である。侠気というものが町人( 町奴) ばかりではなく、下級武士 ( 旗本奴) によっても、あるいはかれらの対立抗争によって、 育まれたものだということがわかる。

 浪花節や講談では幡随院長兵衛、一心太助といった江戸の侠客が登場する。しかし、三田村鳶魚の『江戸の豪侠 人さまざま』( 『鳶魚江戸文庫』第
24巻) を読む限りでは、実像がほとんどわからない。あるいは実態がない。たいていは講談などにおける創作と思われる。

 江戸時代の侠客の実態について知るには、 勝小吉の『夢酔独言』を読むのが手つ取り早い。小吉は勝海舟の父親であるが、 放蕩三味、暴れ放題のこれぞ「豪侠一代」という痛快極まりない半生記である。「男たるもの決してオレが真似をばするなよ」などと勝手なことをほざいているが、要するに自慢話である。町奴と旗本奴の間の対立抗争が楽しそうに活写されている。

 今の世から想像をたくましくして書いた、嘘くさい、賢しらげな時代小説と違って、本物の匂いが各ページから沸き立っている。勝海舟のような人格がどのようにして形成されたか、その背景を知るという意味でも貴重な本だと思う。

 ところで、おもしろいことに滔天自らも侠客をもって任じていた。事典類には「志士」と書かれているが、「侠客」のほうが無頼的雰囲気の滔天に似合っている。「親分、頼む頼むの声さえかけりや、人の難儀をよそに見ぬちょう男伊達」という浪花節的侠客なのではあるが、滔天には滔天の言い分があって、『侠客と江戸ッ児と浪花節』という著作をものしている。その要点を述べると次のようになる。

 1.武士には代々の食禄があって子々孫々食うに困らない。君主のために忠勤を尽すのは、約束事の結果であって、褒めるに値するようなことではない。
 2.侠客にはかくせねばならぬという義理があるのではなく、あくまで人の難儀を黙って見過ごせない情に発するもので、一種の発狂であり、これが男伊達である。
 3.侠気が源で、その気を受けて江戸つ子という概念ができあがり、浪花節は侠客を謡って江戸つ子に侠気を吹き込むものである。

 中国革命を援けるという志が挫折した滔天は1902年、自ら浪花節語りとなって全国を回り、経済的自立を図るとともに、自由民権連動を草の根から盛り立てようとしたのであったが、これも失敗に帰する。『三十三年の夢』が刊行されたのはこの同じ1902年のことである。しかし瓢箪から駒が出たと言うべきか、同書は中国語に翻訳されて、中国で孫文の名前が知られるようになるきっかけとなったのだそうである。

 一方、 中国革命のほうは、もはや滔天の出る幕のない滔々とした大河の流れとなって行き、滔天自身は孫文たち志士の尊敬をかちえても、それはあくまで過去の貢献によるもので、失意のうちに鬱屈し、内向していく。滔天の一生は失意に始まり、失意で終わる、失意の連続のままということになるだろう。家産をなくし、まわりにも迷惑をかけ続けたという意味では確かに失敗者である。晩年は新興宗教に凝ったそうだが、それとともに、死の床で大声を発して飛び出して行こうとして、家族に抱き止められ、 そのまま息絶えたという逸話は、滔天の無念の気持を表しているように思えて、ファンの私には痛ましい限りである。

 自由民権運動自体が「国権派」と「民権派」に分裂し、前者は全体主義へ、後者は社会主義へと変質していく。自由民権という初心がこんな歪んだ形へ姿を変えていく中では、滔天のような侠客、 つまり義侠心に駆られた単騎型の革命家は落ちこぼれていくよりなかったのだろう。私自身、人とともに行動することの出来ないタイプの人間なので、滔天の中に「自分もかくのごとき快男児でありたい」という願望の投影を見る結果だろうが、自由民権運動 の真の姿は滔天が具現していると思っている。

             ー『数学から社会へ+社会から数学へ』所収

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