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「それ、何の関係があるの?」が、未来を消している。

南方熊楠『十二支考』と南方マンダラから考える、「脱線」の知性

会議中、誰かが少し話を横に逸らす。

すると、こう言われる。

「それは、今の議題と関係がありますか?」

子どもが、忙しい時に突然、不思議なことを聞いてくる。

「どうして月は、ずっとついてくるの?」

「どうして大人は、嫌な仕事を辞めないの?」

けれど大人は、つい答える。

「今はその話じゃないから」

高齢の親が、何度も同じ昔話をする。

パートナーが、結論の見えない話を始める。

部下が、企画とは直接関係のなさそうな違和感を口にする。

自分の中にも、仕事には役立ちそうにない関心や、説明できない引っかかりが浮かんでくる。

けれど現代社会は、話を本筋へ戻すことを「優秀さ」だと考える。

要点をまとめる。

結論を先に言う。

無関係な情報を削る。

最短距離で答えに着く。

AIは、これを驚くほど上手にやってくれる。

しかし、ふと思う。

「関係ない」とは、本当に関係がないのだろうか。
まだ、自分たちが関係を見つけていないだけではないのだろうか。

そのことを、100年以上前から、途方もない規模で考え続けた人がいる。

南方熊楠である。


十二支を調べたはずなのに、世界中の話になってしまう

南方熊楠の代表作に『十二支考』がある。

虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪、鼠。

十二支という名前なのに、丑を欠く全11篇しかない。

しかも、内容は干支の動物を説明する図鑑ではない。

虎の話から、人間と動物の友情、インドの説話、中国の古典、ギリシャ神話、南米の伝承、猫の心理、人間中心主義への疑問へと進んでいく。

馬の話をしていたと思えば、龍、トンボ、聖人、悪魔、ルーマニアの伝承、英語の語源、日本の植林技術、シェイクスピアにまで飛んでいく。

話は、どこまでも横道に逸れる。

普通の編集者なら、「話を戻してください」と言いたくなるかもしれない。

しかし熊楠にとって、これは脱線ではない。

むしろ、そこにこそ本題があった。

虎について詳しく知ることが目的なのではない。

一頭の虎を入口にして、人間が動物をどう見てきたか、異なる文明が恐怖や恩をどう物語にしてきたか、遠く離れた地域の伝承がなぜ似るのかを探っている。

熊楠は、虎を調べていたのではない。

虎から、世界のどこまで行けるかを調べていた。

のだと思う。

一つの対象を、狭く、深く掘る。

すると、その穴は世界の裏側へ通じている。

熊楠にとって、あらゆるものは、世界全体へ入るための小さな入口だった。

『十二支考』は青空文庫でも読むことができる。


「関係ない話」とは、関係が生まれる前夜である

現代社会では、情報を二つに分けようとする。

役に立つか、役に立たないか。

関係があるか、関係がないか。

正しいか、間違っているか。

仕事か、私生活か。

専門か、素人か。

科学か、迷信か。

けれど熊楠は、すぐには分けなかった。

科学的な観察。

古代の文献。

土地に残る伝説。

自分自身の体験。

人から聞いた噂。

宗教的な世界観。

動物の行動。

言葉の由来。

それらを、いったん同じ机の上に置いた。

もちろん、すべてを同じ意味で「正しい」と考えたわけではない。

科学的な事実と昔話は、証拠としての性質が違う。

しかし、事実ではないからといって、昔話に価値がないわけではない。

蛇の伝説には、土地の災害記憶や、水への畏れ、人間と自然の境界についての感覚が残っているかもしれない。

動物が恩返しをする物語には、人間が動物にも心があると感じてきた歴史が残っているかもしれない。

熊楠は、正しいかどうかを判断する前に、

なぜ、その話が、そこに残ったのか。

を考えた。

ここに、熊楠から学びたい大切な姿勢がある。

「関係ない」と切り捨てるのは簡単だ。

しかし、関係を見つける前に捨ててしまえば、その情報は二度と未来へ参加できない。

だから、

「関係ない話」とは、無価値な話ではない。
関係が生まれる前夜にいる話なのだ。

と思う。


南方マンダラは、世界の地図ではない

熊楠は1903年、高野山の僧・土宜法龍に宛てた手紙の中に、不思議な図を描いた。

後に「南方マンダラ」と呼ばれる図である。

そこには、無数の線が入り乱れ、いくつもの交点が描かれている。

熊楠は、この世界を、前後左右上下に無数の因果が走る立体的なものとして捉えていた。

人の人生にも、物にも、土地にも、動物にも、それぞれの原因と結果がある。

それらの線が交わると、そこに新しい出来事が生まれる。

熊楠は、世界に存在する不思議を、物不思議、心不思議、事不思議、理不思議、大不思議に分けた。

物不思議は、物質や自然現象の不思議。

心不思議は、意識や感情や夢の不思議。

事不思議は、物と心が交わることで起きる出来事の不思議。

理不思議は、複数の出来事の奥にある原理。

大不思議は、そのすべてを包みながら、人間には説明し尽くせない宇宙の真理である。

熊楠が特に探究したかったのは、「事不思議」だった。

物だけでもない。

心だけでもない。

異なるものが出会った時に、初めて起きること。

つまり熊楠が知りたかったのは、世界を構成する部品ではなく、

出会うはずのなかったものが出会った時、世界に何が生まれるか。

だったのだと思う。

南方熊楠顕彰館には、土宜法龍宛書簡と南方マンダラの詳しい解説がある。


まっすぐな道は、すでに分かっている場所にしか着かない

目的地が決まっているなら、最短距離は便利だ。

駅へ行く。

書類を提出する。

商品を届ける。

計算の答えを出す。

しかし、まだ存在していない未来へ行く時、最短距離は存在しない。

新しい事業。

新しい生き方。

新しい家族の形。

新しい地域。

新しい人間とAIの関係。

これらには、まだ地図がない。

地図がない場所へ、最短距離で行くことはできない。

むしろ、

  • 途中で出会った人

  • 計画外の失敗

  • 関係のない本

  • 子どもの質問

  • 身体が感じた違和感

  • 他分野の知恵

  • 仕事にならなかった経験

  • 何度も思い出す言葉

によって、初めて目的地そのものが見えてくる。

まっすぐな道は、すでに分かっている場所へ行くには強い。
しかし、まだ存在していない場所を発見するには、弱い。

熊楠の思考は、最短距離で正解へ行く思考ではない。

歩きながら、目的地を発見する思考だった。


現代社会は、人生の「脱線」を消しすぎている

履歴書には、一般的に「何を達成したか」を書く。

どの会社にいたか。

どんな役職だったか。

どんな資格を持っているか。

いくら売り上げたか。

何人を動かしたか。

けれど、一人の人間を本当につくっているのは、それだけではない。

子どもを育てる中で身につけた観察力。

親の介護をしながら覚えた、制度をまたぐ調整力。

病気になって初めて分かった、身体と時間の関係。

離婚や転職を通じて知った、人が壊れる前の小さな兆候。

近所の人とのやり取りで覚えた、言葉にならない不安の読み取り方。

趣味を続ける中で出会った、会社とは違う価値観。

それらは履歴書では「空白」や「私事」として扱われやすい。

特に、子育て、家事、介護などを多く担ってきた人は、そこで膨大な知恵を獲得しているにもかかわらず、仕事の場へ戻る時には、その経験を「仕事とは関係がないもの」として消すことを求められてきた。

しかし、本当にそうだろうか。

複数の人の体調、予定、感情、食事、学校、仕事を同時に見ながら、一日を崩壊させずに動かす力は、かなり高度な運営能力ではないだろうか。

言葉にできない子どもの変化に気づく力は、顧客の潜在的なニーズを見つける力と無関係だろうか。

介護で身につけた、小さな変化を見逃さない感覚は、組織の危機管理と本当に関係がないのだろうか。

人生の脇道には、本線では得られなかった感覚器官が育っている。

遠回りによって、人は遅れるのではない。
遠回りによって、それまで見えなかったものが見える身体になる。

熊楠的に考えるなら、人生の価値は、一本の経歴がどこまで伸びたかでは測れない。

何本の異なる線を自分の中に持ち、それらをどこで交差させられるかで決まる。


村には、本題と脱線の境界があまりない

自分が35年以上関わってきたバリ島の村では、暮らしが、会社の部署のようには分かれていない。

水の話は、農業だけの話ではない。

寺院や祭り、家族同士の関係、季節、仕事、子どもたちの役割、村の将来につながっていく。

一人の体調の話が、家族の問題になり、仕事の問題になり、食事の問題になり、村の役割分担の問題にもなる。

近代的な制度は、問題を分けることで高度に発達してきた。

病気は病院。

教育は学校。

子育ては家庭。

高齢者は介護。

仕事は会社。

自然は環境部門。

文化は文化振興課。

効率的で、専門性も高い。

けれど人間の暮らしは、本来、そんなふうに分かれていない。

一つの問題は、いつも複数の問題である。

一人の人生は、いくつもの制度を横断している。

村の知恵とは、人間関係が濃いことだけではない。

一つの出来事から、周囲の文脈を切り落とさないこと。

なのだと思う。

現代社会は、専門性を高めることには成功した。

これから必要なのは、分けたものを雑に一つへ戻すことではない。

専門性を保ちながら、その間を再び行き来できる人と仕組みを増やすことだ。


小さな神社を「一つの機能」として見なかった

南方熊楠が神社合祀反対運動に身を投じたことはよく知られている。

明治政府は、一つの町村に一つの神社を標準とする統廃合を進めた。

行政から見れば、小さな神社をまとめることは合理化だった。

管理しやすい。

費用も減る。

制度も統一できる。

しかし熊楠は、小さな神社を単なる宗教施設として見なかった。

神社林には、希少な植物や菌類が生きている。

地域の伝承が残っている。

祭りが行われる。

人が集まる。

子どもが土地の歴史を知る。

住民同士の自治や信頼が育つ。

一つの小さな神社に、生態系、文化、記憶、景観、教育、信仰、自治が重なっていた。

神社を「宗教施設」という一つの分類でしか見なければ、それ以外の価値は見えなくなる。

そして、見えない価値は、合理化の中で簡単に失われる。

和歌山県と三重県では、1906年末に5,819社あった神社が、1908年末には1,922社まで激減したとされる。

南方熊楠記念館「神社合祀反対運動とエコロジー」

これは、昔の神社だけの話ではない。

小さな商店。

地域の喫茶店。

近所の公園。

学校の保健室。

会社の雑談。

家族の食卓。

誰かが何となく立ち寄れる場所。

一つの機能だけで評価すれば、非効率に見える。

けれど、そこで複数の線が交差しているなら、その場所は社会の「事不思議」を生み出す装置である。

社会から未来が生まれなくなるのは、才能が不足した時だけではない。

異なるものが偶然出会える、小さな交差点を失った時である。


熊楠から受け取りたい、5つのプリンシプル

1.対象を「答え」ではなく、「入口」として見る

熊楠にとって、虎は虎の説明で終わらなかった。

目の前にあるものに対して、

「これは何か」

だけでなく、

「これは、どこへつながっているか」

と考える。

一杯のコーヒーから、農業、気候、働き方、植民地の歴史、人との時間へ行ける。

子どもの一つの質問から、教育、社会、家族、大人の生き方へ行ける。

小さな違和感を、世界への入口として扱う。

2.異質なものを、すぐに同じ結論へまとめない

数字。

経験。

伝説。

感情。

身体感覚。

他人の話。

それぞれは、証拠としての強さも性質も違う。

だから、混同してはいけない。

しかし、違うからといって、同じ机に置いてはいけないわけではない。

「観察」「伝聞」「仮説」「比喩」「願い」とラベルをつけながら、一緒に眺める。

異なるものを雑に同一視しない。

同時に、違いを理由に出会わせないこともしない。

3.答えより先に、交点を探す

問題に対して、すぐ解決策を出そうとしない。

この問題は、別のどんな問題とつながっているか。

誰の人生の、どの線と交わっているか。

一見、無関係に見えるものを横に置く。

新しい答えは、古い問いを深く考えるだけでなく、二つの問いを交差させることで生まれる。

4.小さな交差点を、効率だけで消さない

利用者が少ない。

売り上げが小さい。

成果を説明しにくい。

だからといって、価値がないとは限らない。

その場所を消した時に、人、記憶、自然、相談、偶然の出会いのうち、何が一緒に失われるかを確認する。

一つの機能ではなく、交差している線の数を見る。

5.説明し尽くせない部分を残す

熊楠は、物、心、事、理の先に「大不思議」を置いた。

人間には、どうしても説明し尽くせないものがある。

人の心。

生命。

運。

縁。

未来。

分からないからといって、価値がないわけではない。

AI時代には、すべてをデータ化し、予測し、最適化したくなる。

しかし、人間を完全に説明できると考えた瞬間、その人の未来を、過去のデータの中へ閉じ込めてしまう。

理解する努力と、理解し尽くしたと思わない謙虚さを、同時に持つ。


今日から始められる「脱線の知性」

1.一日一つ、「関係ないメモ」を残す

役立つ情報ではなく、なぜか引っかかったものを書く。

子どもの一言。

街で見た光景。

妙に気になった広告。

夢。

失敗。

身体の違和感。

今すぐ意味をつけなくていい。

一週間後に見返し、別の何かとつながっていないかを見る。

2.「それは関係ある?」を「なぜ今、それを思った?」に変える

会議でも、家庭でも、相手の話が逸れた時に、すぐ戻さない。

「なぜ今、そのことを思い出したの?」

と一度聞いてみる。

本人も気づいていなかった関係が、そこから現れることがある。

3.10分間だけ、自分の「腹稿」をつくる

熊楠は『十二支考』を書く前に、思いついた項目を紙面いっぱいに配置する「腹稿」を作った。

紙の中央に、いま考えている問題を書く。

その周囲に、人、場所、記憶、数字、感情、別分野の知識を、順番を考えず置いていく。

似ているものではなく、なぜか気になるもの同士を線で結ぶ。

きれいに整理することより、意外な交差点を見つける。

4.会議に「議題外の3分」をつくる

会議の最後に、

「今日の議題外だけれど、気になっていることはありますか」

と聞く。

すぐに答えや担当者を決めない。

記録だけ残す。

数か月後の大きな問題や新規事業の種が、そこに含まれていることがある。

5.子どもの問いを、答えずに集める

子どもの質問に、すぐ正しい答えを与えなくてもいい。

家族で「不思議ノート」をつくる。

月に一つだけ選び、一緒に調べる。

正解を教えることより、問いがどこへつながるかを楽しむ。

大人が答えを持っていない姿は、子どもにとって「分からないことを怖がらなくていい」という学びになる。

6.人生の遠回りを、「失った時間」ではなく「増えた感覚」で書き直す

休職。

転職。

子育て。

介護。

病気。

移住。

失敗した事業。

続かなかった関係。

その経験で何を達成したかではなく、

「以前は見えなかった何が、見えるようになったか」

を書き出す。

人生の脱線には、本線では手に入らなかった感覚器官が育っている。


AI時代、人間の仕事は「関係を発見すること」になる

AIは、膨大な情報から、すでに存在する関係を見つけることができる。

要約する。

分類する。

比較する。

最適化する。

答えを出す。

これらは、ますます速く、安くなっていく。

だからこそ、人間に残る価値は、AIより速く答えることではない。

社会がまだ関係ないと思っている二つのものを、同じ机に置くこと。

技術と祈り。

介護と経営。

子どもの問いと都市設計。

森と会計。

地域の祭りとBCP。

個人の記憶とAI。

一つの会社と、遠く離れた地域。

そこで、まだ名前のない問いを見つける。

AIが正解を出す時代には、「何を答えさせるか」を決める問いの質が、これまで以上に大切になる。

そして新しい問いは、同じ分野を深く掘るだけでは生まれない。

遠く離れた二つの線が交わった時に生まれる。

未来は、情報の中心ではなく、分野と分野の境界、仕事と生活の境界、正しさと違和感の境界から現れる。

だから、専門から外れた経験を持つ人。

いくつもの役割を行き来してきた人。

人生で遠回りをした人。

一つの世界に馴染めなかった人。

仕事とは関係ない好奇心を捨てられなかった人。

そうした人たちは、AI時代に遅れた存在ではない。

まだ交わっていない線を、すでに自分の中に持っている。

遠回りの多い人生は、非効率な人生ではない。
世界へ入る入口を、たくさん持っている人生である。


未来は、遠くにあるのではなく、今日の横に置かれている

未来というと、前へ進んだ先にあるものだと思いやすい。

新しい技術。

大きな発明。

革新的な制度。

壮大なビジョン。

けれど熊楠のマンダラから見える未来は、少し違う。

未来は、前方にだけあるのではない。

今日、自分たちが「関係ない」と横へ退けたものの中にもある。

途中で諦めた関心。

仕事にならなかった経験。

子どもの奇妙な質問。

誰にも理解されなかった違和感。

地域に残る小さな場所。

説明できないけれど、なぜか気になること。

それらは、役に立たないのではない。

まだ、出会う相手を見つけていない。

まだ、線が引かれていない。

まだ、「事」が起きていない。

希望とは、すべての答えを持つことではない。

まだつながっていないものの間に、これから線を引けると知ること。

なのだと思う。

世界には、資源も、人も、技術も、願いも、すでにたくさんある。

足りないのは、答えではないのかもしれない。

「関係ない」とされてきたもの同士を、出会わせる人なのかもしれない。


「関係ない」を、未来の企画に変える仲間へ

自分は、企業、地域、AI、教育、家族、自然、コミュニティなど、これまで別々に扱われてきたものの間に線を引き、そこから新しい事業や社会の仕組みをつくる活動をしている。

優れた技術はあるが、暮らしとの接点が見つからない。

地域には資源があるが、事業としてつながっていない。

個人的な原体験を、社会へ届く形にしたい。

仕事とは関係ないと思ってきた経験を、未来へ活かしたい。

AIを、人間を効率化するだけでなく、世界の新しい関係を発見するために使いたい。

まだ、うまく説明できなくても大丈夫です。

完成した企画書がなくても大丈夫です。

むしろ、「これは関係があるのか分からないけれど、なぜか気になる」という段階から、一緒に考えたい。

この記事を読んで、何かが自分の中でつながった方。

一緒に実験してみたい方。

事業、地域、暮らしの中に散らばっているものを、未来のマンダラにしたい方。

ぜひ、声をかけてください。

コメントだけでなく、直接ご連絡いただけたら嬉しいです。

未来は、一人の頭の中で完成するものではない。

異なる人生を歩いてきた人たちの線が交わった時、初めて、この世界になかった「事」が生まれる。

その交点を、これから一緒につくっていきたいと思います。

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