見出し画像

映画『左利きの少女』感想 小さな手が繋ぐ新しい家族

 「子役がとにかく可愛い映画」の中でもかなりの上位作品。映画『左利きの少女』感想です。

 借金を背負ったシングルマザーのシューフェン(ジャネル・ツァイ)は、ティーンの娘・イーアン(マー・シーユエン)と、まだ4歳のイージン(ニーナ・イエ)を連れて、生活を立て直すために実家近くの台北に戻って来た。夜市で麺料理の屋台を始めたシューフェンだが、別れた前夫が亡くなり葬儀代を出したことで生活は逼迫し始める。イーアンはそんな母に腹を立て、衝突を繰り返しながらも、イージンの送り迎えをしながら、自身もタバコ屋の売り子で働く日々を過ごしていた。大人たちの苛立ちをよそに、イージンは夜市をはしゃいで歩き回る。ある日、祖父から利き手である左手は「悪魔の手」と咎められてから、イージンは不慣れな右手を使うようになる。だが「悪魔の手の仕業」と言い聞かせながら、イージンは左手で夜市の品物を盗むようになっていく…という物語。

 『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』『ANORAアノーラ』で知られるショーン・ベイカー監督作品にプロデューサーで参加していたツォウ・シーチンが、初の長編監督を務めた台湾作品。脚本・編集も、ツォウ・シーチンとショーン・ベイカーが共同で手掛けているそうです。

 一見してすぐにショーン・ベイカー風味を感じさせる作りになっています。『フロリダ・プロジェクト』の台湾版のような物語もそうですが、台湾夜市のネオンで彩られたカラフルな画面も、ショーン・ベイカー作品ぽいんですよね。そしてその彩りの裏に、血反吐を吐くような生活を強いられている貧困層(主に女性)がいるというのも、ベイカー作品と共通するものになっています。
 ただ、それと同時に、台湾の風土や風習も巧い形で脚本に盛り込まれており、この辺りはツォウ・シーチン監督、及び台湾で撮影した作品という特色もきちんと出ています。
 
 今作の肝は、やはり何といってもイージンを演じた子役のニーナ・イエちゃんの可愛さでしょう。あれだけ苛立つ大人に囲まれているのに、あれだけ家庭環境が最悪な状況であるはずなのに、純真さと愛らしさを損なわずにいられるのはかなりファンタジーな印象もあるんですけど、もうそのままでいてくれと観客が願わずにはいられなくなってしまうんですよね。その可愛らしさだけで、シビアな状況を中和させているという脚本のバランス感覚も凄いし、ニーナちゃんが持つ炸裂するような5歳児力も素晴らしいものがあります。
 
 その愛らしさと対比になっているのが、シューフェンとイーアンの女性への抑圧、そこからくる苛立ち、怒りというものになっています。特にイーアンを演じたマー・シーユエンの演技も印象的です。10~20代の小娘特有の生意気さ、怒りを表現しているようで、その裏にある女性性へのこれ以上ない抑圧が明かされていくというのも、残酷ではあるけれども巧みな脚本になっています。
 
 そして残酷さだけでなく、台湾風土の温かさも感じる描き方にもなっています。その象徴として隣で商いをするジョニー(ホアン・デンフィ)の存在があります。『フロリダ・プロジェクト』におけるウィレム・デフォーや、『アノーラ』のイゴール的な役割を持っているといえます。あんなに人の好い男性が都合よく独身なわけないという感想も見かけましたが、なかなかどうして、ああいう不器用でままならない人生をおくる男性も少なくないと思うんですよね(実感)。
 
 女性が苦しい生活を続ける、女性性が抑圧されているというテーマではベイカー監督作品と共通していますが、やはり舞台が台湾、台湾の人々を描いているというだけで、その源泉が大きく違うものになっています。
 今作で彼女たちを苦しめているのは、完全に「家父長制」というものになっています。別れた前夫に身よりがないからシューフェンが葬儀を出さねばならないのもそうだし(彼女自身の情によるものという印象もありますが)、シューフェンの母親と娘の関係性にもそこがありありと出ています。娘に金を貸すのは断るのに、長男への出資は惜しみなく出すという、家族制度、風習による、社会制度とは別の女性抑圧であり、祖父がイージンの左利きを矯正しようとするのも、そのものとして描かれています。
 
 胸糞悪い家父長制は台湾(のみならず中華文化)特有のものではありますが、先述したジョニーを始めとする人々の温かさというのも台湾特有のものに思えます。イージンの万引きが露見し、イーアンに連れられて謝罪と返却の行脚をするシーンですが、いかにイージンがこの地域の人々に愛されていたか、ちゃんとわかるものになっています(そりゃ、あんなにも可愛いんだもの)。この場面がホッとする共に、その真っ当さに涙出そうになるくらい感動してしまいます。
 
 そして、この場面でイーアンがどういう想いでイージンを諭していたかというのが、クライマックスで判明する事実によって、さらに味わい深くしています。
 この事実自体が露見するのは、正直かなり残酷な展開ではあるんですけど、自爆的ではあるものの、それがあの一族の家父長制を台無しにするというある種の痛快さをもたらしてくれるものにもなっています。1つの家族が壊れるという展開ではありますが、その家族は旧来の時代のものという解釈も出来るように思えます。
 
 だからこそ、エピローグの場面は新たな家族の始まりとして描いているように感じられたんですよね。ジョニーが撮影するイージンの愛らしいダンス、イージンの「ママ、見て」という声に振り向くその人の姿は、地獄のような生活、暴露の後で、新しい生活の再生という未来を感じさせるものになっています。皿洗いしながら踊ってしまうシューフェンの背中には、もう生活の疲れや重さは感じさせないものでした。
 
 子供は未来の象徴そのものというのがよく伝わる素敵なラストシーンになっています。人生の苦しさへの解決にはなっていないという展開はショーン・ベイカー作品と同じであるのに、ツォウ・シーチン監督による本作は、もう少し優しく、この家族はきっと大丈夫というメッセージが込められているように感じられました。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集