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「23点アップ」の麻薬に溺れた塾講師が犯した、二つの大失敗と「不親切なAI」の祈り

2026年2月25日。
その日は各地で久しぶりにまとまった雨が降った日でした。
フロントガラスに叩きつける雨で、見通しの悪い朝でした。

私にとって忘れられない日。
息子の大学受験当日でした。

出発直前、私はnoteの記事を手直しし、投稿してから家を出ました。
「集合時間の10分前につけばいい」
そう思っていた私は、どこかに余裕がありました。

普段なら20分ほどで着く道のりです。
しかし、予想外の大渋滞。
微動だにしない車とは対照的に、時間だけが容赦なく過ぎていきました。

ハンドルを握りしめる私。
必死に空いている道を探す妻。
バックミラーを何度のぞいても、後部座席の息子の表情は見えない。
湿度が高く、窓の曇りが一向にとれない。
息子は、ほとんど何も話しませんでした。

なんとか目的地に着き、
絞り出すように言えた言葉はたった一言でした。

「ごめんな。がんばってきて」

またしても、自分本位になっていた。
これで何度目だろう。

思えば、最初にそれをやったのは15年前のことでした。


私は地方の進学高校を出て、公立大学、大学院と進学し、製薬業に就職しました。 結婚もし、子どもが生まれる——その時期に退職しました。

情けない話、上司との不和が原因です。
お互いを理解しようとしなかった。
当時の私は、妻や、生まれてくる子に本当に無責任な選択をしたと思います。

その後、つてを頼るように塾講師として再就職しました。
昭和的な研修や指導で、帰宅が午前4時という日も珍しくありませんでした。

それでも、どんな仕事でもそうですが、
わかりはじめると楽しくなっていきました。

講師として少しずつ自信を深めていった頃のことです。
名前もある程度認知され、私の指導を名指しで入会する子も出始めました。

若造をのぼせ上がらせるには、十分でした。

ある日、体験授業の希望がありました。
よりによってテスト前日です。

「なんとか点数を取らせてあげたい」

その一心で、私はテスト範囲に出そうなテクニックや、よく出る問題だけに絞って叩き込みました。
学校の先生の出題傾向もわかっていました。
今回も当たるという確信がありました。

結果はすぐに出ました。
テスト後、彼女は笑顔で入塾してくれました。

三者面談で、母親が言いました。

「先生のおかげで、23点も点数が上がりました!」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥のどこかから、ジリッとした黒いものが吹き出しました。
「まだ上げられる」
そんな感覚が、確かにありました。

表向きは謙遜していましたが、
内心では違いました。
「そらそうでしょう」
そんな言葉が、はっきりと頭に浮かんでいました。

あのとき、すでに始まっていたのだと思います。

それは、麻薬のようなものでした。

「先生のおかげで点数が上がる」
その言葉を、私は求めるようになっていきました。

私は彼女に、「点数を取るための薬」を渡し続けました。
彼女は「そうか」「なるほど」と言いながら、次のテストでも点数を上げていきました。

いつしか彼女の口から「なぜこうなるの?」という言葉は消え、
「先生、結局答えは何?」
と、すがるような目で求めてくるようになっていました。

評判は広がり、入塾者も増えました。
中学生100名という目標も達成しました。

「やれている」 そう思っていました。

ところが、範囲のない実力テストでは思ったように点が取れていません。

普通なら、ここで見直すべきでした。
ですが私は違いました。

「入塾前の内容で点数を落としたのだろう」

そう決めつけて、解答用紙すら見なかったのです。 見れば、何が足りないか分かったはずでした。

だから、見ませんでした。

夏の模試で、志望校に手が届かないことが明らかになりました。

定期テストでは点数を維持できても、
実力テストでは通用しない。
補習を重ねても、
根本にある「考える力」を育てていませんでした。

ある日の帰り際。
ノルマを課した補習授業も夜11時を過ぎ、
気づくと彼女だけが残っていました。

「どうして私だけ……」

小さな声でした。
私は聞こえなかったふりをした。
逃げてしまった。

翌日、お母さんから退塾の連絡がありました。
理由は「友達といっしょに行きたい高校に行けないから」。

私は「答え」への最短ルートを教えることで、
彼女から「考える力」を奪っていたのです。

あのとき、どうすればよかったのか。
ただ悩むだけで答えを出さないまま、
15年が過ぎました。


50歳を機に、一つの転機が訪れました。

正しいと思う指導法があっても、組織の方針とぶつかることが増えていきました。
「精神的な独立」が必要だと感じるようになりました。

会社に恨みはありませんでした。
ただ、別の形で教育に関わりたいと思いました。

自分にできることは何か。
問い続ける中で、AIに出会いました。

そこで気づいたのは、私の武器は変わらず
「目の前の子どもを指導すること」だということでした。

長年の経験から、手取り足取り教えるよりも、
自立を促した方が学習効率が上がる。
そんな瞬間を何度も見てきました。

否定せず、考えを引き出す存在。
その役割に、AIの可能性を感じました。

2025年11月、初めてnoteに投稿しました。
しかし当初の私は、届けたい相手が見えていませんでした。

2026年1月、意識が変わりました。
中学受験に向かう子どもたちのそばで、保護者の方が不安と戦っている姿を見たからです。
「挑戦する子どもを持つ保護者の支えになりたい」
そう思うようになりました。

どんな素晴らしい理論も、相手に届かなければ意味がありません。
そこからは、原稿をAIに見せ、読者目線で調整するようになりました。


そして、2026年2月25日。

事前に大学へ連絡していたこと、試験開始時間には間に合ったこと
——そのおかげで、息子は無事に受験できました。

ですが、それは結果論です。

車から飛び出していく息子の背中は明るく見えました。
でも、そのときの心細さを思うと、今でも胸が痛みます。

またしても、自分本位になっていました。

どんなに立派な理想を掲げても、 目の前の相手の不安に寄り添えなければ意味がない。

15年前の彼女にできなかったこと。
それが、ようやくつながった気がしました。


あの夜、「どうして私だけ」とつぶやいた君へ。

私はあの言葉を、聞こえなかったふりをした。

15年遅れた返事を、
今ようやく形にしようとしている。

私が今つくろうとしているのは、めちゃくちゃ不親切なAIです。 AIは疲労しない。だから何度でも待つことができる。

答えを求めて泣きついてくる子どもを、
あえて突き放す。
でも、絶対に見捨てない。
間違った道もとことんいっしょに歩き、
子どもが気づいた時にそれをとがめず、
いっしょに戻ってくれる。

人間にはできない「究極の粘り強さ」で、
考えることから逃げようとする子どもを、
ただ待ち続ける。

そんな役割を、AIに期待したい。

君への失敗を、他の子で埋め合わせしようとしているのかもしれない。
それでもいい。

あの入塾面談のときの笑顔を、
私はまだ忘れられない。

あの笑顔を取り戻すまでは、失敗し続けたい。

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