映画『ちいかわ』における『永遠の命』の永遠性のなさ
こんにちは。塾講師の石井です。
先日、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観ました。
私の担当生徒や同僚の先生方から、「ぜひ観て感想を聞かせてほしい」という声をたびたびいただいていたので、かねてから気になっていた映画です。ようやく観ることができて、私自身、とてもうれしい思いです。
映画を通して、やはり印象に残ったのは「永遠の命」です。
そこで本記事では、『ちいかわ』が描き出す「永遠の命」のありかたについて、私の解釈をご紹介します。
(1)冒頭に描かれる三人称視点
この映画は、いきなり魅力的な始まり方をします。冒頭、海や草原、くつろぐ登場人物たち、といったように、次々と視点が変わっていきます。私は、「ポケモンの映画もこんな始まり方だよな」なんてことを思ったりしていました。
もちろん、ポケモンの映画に似ているから「魅力的」と言っているわけではありません。次々と視点が変わっていくことこそが魅力的なのです。
小説や映画において、物語を誰が、どの位置から語るのかは重要な問題です。
本作では、特定の登場人物だけに寄り添うのではなく、場面ごとに異なる人物や場所へと視点が移っていきます。海を映し、草原を映し、そこにいる登場人物たちを映す。物語の始まりにおいて、観客はまだ誰か一人の視点に固定されていません。
ここに、私は三人称の語り手に近いものを感じました。
三人称の語り手は、物語世界を外側から眺めながら、ときに特定の人物へ近づき、ときに別の人物へと視点を移します。その移動によって、読者は一人の人物だけでは捉えられない物語世界の広がりを知ることになります。
『ちいかわ』の冒頭もまた、登場人物たちを一人ずつ紹介するのではありません。むしろ、世界の中をカメラが歩き回るようにして、それぞれの存在を観客の前に置いていきます。
(2)三人称視点により描き出される主要な登場人物の役割
恥ずかしながら、キャラクターの顔と名前が一致しないほど無知の状態で『ちいかわ』を観に行きました。
本映画では、三人称的な語りにより、『ちいかわ』のキャラクターたちの役割は丁寧に描き出されていきます。おかげで私も主要なキャラクターたちの役割を把握することができました。
中でも印象的なのが、ちいかわ、ハチワレ、うさぎの三人です。
冒頭、ちいかわとハチワレは二人でりんごを食べているところに、うさぎがチラシを見せに来ます。三人のうち意味のある言葉を話すことができるのは、ハチワレだけであるということが早々にわかります。
ハチワレは「話せる」という特徴を存分に発揮し、話すことができないちいかわの思いを代わりに言葉にしていきます。ハチワレは、感情などを社会的な言葉に変換する役割を持つと考えられます。
ちいかわは、意味のある言葉を話すことはほとんどありません。しかしなぜかちいかわのそばには、いつもハチワレをはじめとした仲間がいます。いつもおどおどしているけれどなぜか目が離せない、そんな魅力を感じさせるキャラクターであることがわかります。人を惹きつける中心人物としての役割を持っていると考えられるのです。
さいごにうさぎです。うさぎも意味のある言葉を発さないキャラクターですが、ちいかわよりも活発に動き回ります。しかも、なぜかなんでもこなせてしまうのです。
実際、映画では船のよくわからないところを登っていたりしました。剣さばきも見事なものでした。
うさぎはいうなれば、行動力と突破力を持ったキャラクターということができるでしょう。
人を惹きつける人、言葉にしてまとめる人、とりあえず動く人、という絶妙なバランスの三人が揃っているからこそ、物語が展開していく、という構造が『ちいかわ』という物語の基本的な構造の一つではないか、と私は解釈しました。
(3)「永遠の命」の正体
ちいかわたちが人魚の島についてからは、人魚と島民たちの摩擦が徐々に描かれていきます。
その中で私たち鑑賞者は、
・人魚を食べると「永遠の命」を得られるという伝説がある
・人魚を食べたら体に「何か」ができる
・以前は人魚と島民たちは仲良くしていた
・次第に人魚が好き勝手にし始めた
・その一方で、人魚のおかげで島民が助かっていることもある
ことなどを知っていきます。
人魚は、
伝説を信じる島民の誰かに仲間を食べられた
という被害者意識を持っています。それが動機となり、島民を少しずつ食べていくのです。
一方、ちいかわはというと、お世話になっていた島民のお尻のあたりに、電池の挿入口を見つけます。
このあたりで、私たち鑑賞者も、人魚を食べたら体にできる「何か」とは、「電池」のことであるということを理解します。
それと同時に、人魚を食べたのはその島民であるということをちいかわとともに悟るのです。これらのことから、「永遠の命」の正体が「電池」であったことが示唆されます。
ここで、「永遠の命」とされていたものが、電池であったことに着目したいと思います。
確かに、電池は長持ちします。しかしそれを「永遠」と呼んでよいのでしょうか。私はそこに本当の意味での「永遠性」はないと考えています。
まず、この「永遠の命」は「電池が切れるまで」という条件付きのもとで成り立ちます。つまり、いくら長持ちするとは言っても、電池が切れればそれで命は終わってしまうのです。このような条件付きでの永遠性を「永遠の命」と言い切るには無理があると考えています。
このように言うと、
電池なら、誰かが新しいのに変えたら復活するではないか
という反論が出てくると予想されます。
確かに、映画にも電池を交換するシーンは描かれていました。
しかし、それこそが問題なのです。
なぜなら、逆に考えれば、
電池を交換してくれる人がいなければ、電池が切れたまま倒れてしまう
ということだからです。
この「永遠の命」は、自分一人だけで完結するものではありません。
電池が切れたとき、新しい電池に交換してくれる存在が必要になるからです。
もちろん、長い時間を生き続けること自体はできるのでしょう。しかし、それは他者の存在を前提とした永遠です。
そして、他者の存在を前提とする以上、そこには常に不確実性が残ります。
電池を交換してくれる人がいるかもしれない。一方で、誰も交換してくれないかもしれない。
さらには、誰かが意図的に電池を抜いてしまう可能性すらあります。
つまり、この「永遠の命」は時間からは自由になったとしても、人為的な影響から自由になったわけではないのです。
「永遠の命」の条件としては、
・老化
・病気
・時間
といったものを克服することがまっさきに挙げられるでしょう。
「電池」はそのすべてを克服する手立てとして最高といってよいでしょう。
しかし、その「電池」をもってしても、他者の悪意や気まぐれまでは克服できないのです。
(4)犯人の動機とその皮肉
先に示した通り、人魚の仲間を食べた犯人は、ちいかわたちがお世話になっていた島民二人組であったことがわかります。
海でゆっくりしていたところ、同じく遊んでいた人魚にのしかかられ、その拍子に彼らのうちの一人が大けがを負ってしまいます。
その時の表情は、人魚に向けた恨みを抱いているように思えました。寝たきりになった仲間を見て、人魚の伝説を信じ、食べるという決断に至ったのです。
人魚を食べた動機は、単なる「永遠の命を得たい」という願望だけではなく、もっと身近で、個人的な感情が挙げられるのです。
人魚は島民が「永遠の命」を求めるために仲間を食べたと思っていますが、実際には、その外側にある負の感情が島民を突き動かしている可能性が考えられるのです。
誰にとっても魅力的に見えるような価値の象徴としての「永遠の命」は、その外側にある感情により簡単に失われる可能性があるのです。
私はここに、現代社会にも通ずる皮肉のようなものを感じました。
「永遠の命」は、人間にとって究極的な価値の象徴です。
しかし、その価値を求める者だけが人を傷つけるわけではありません。
むしろ、人間はもっと個人的で、感情的な理由によって他者を傷つけることがあります。
永遠の命を手に入れるためではない。ただ恨みを晴らすために。
そのような感情によって、「永遠の命」という究極的な価値さえも簡単に失われてしまう可能性があるのです。
(5)おわりに
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』において描かれる「永遠の命」は、決して完全なものではありません。
電池が切れれば動けなくなり、新しい電池に交換してくれる存在がいなければ、その状態から抜け出すこともできません。さらに、誰かの悪意によって電池を抜かれてしまえば、それまで長く生き続けていたとしても、その命は簡単に失われてしまいます。
時間や老化、病気を克服したとしても、他者の存在までは克服できない。
私は、『ちいかわ』が描いた「永遠の命」の面白さは、ここにあるのではないかと考えています。
さらに皮肉なのは、その「永遠の命」を失わせるきっかけとなった人物が、「永遠の命」の外側にある、個人的な感情を多分に含んで行動をしたということです。
人間は、ときに壮大な欲望だけで行動するわけではありません。もっと個人的な怒りや恨み、気まぐれによって行動します。そして、そのような感情が、誰にとっても価値があると思われるものを簡単に壊してしまうことがあります。
「永遠の命」を描いた作品でありながら、本作が描いているのは、むしろ永遠ではない人間の感情の強さなのかもしれません。
もちろん、これはあくまで私個人の解釈です。『ちいかわ』に詳しい方からすれば、「いや、そこじゃない」と思われる部分もあるかもしれません。
それでも、キャラクターの名前すらほとんど知らない状態で観た私だからこそ、このような読み方ができたのかもしれないとも思っています。
みなさんは、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』をどのように解釈しましたか?
それではまた!
