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庄の国|19話:俺は、あの匂いに勝たされていた

すべてが終わり、一人になった。

体の奥に、静かな達成感だけが残っていた。
興奮はない。終わった、という感触だけがある。

告発状の原本を手に取った。

これが全ての始まりだった。差出人不明の封筒も残っていた。しばらく、それだけを見ていた。

引き出しを開けた。

赤海の手紙が、そこにあった。

二枚が、机の上に並んだ。乱雑に書かれた封筒の宛名と、赤海の手紙の筆跡が、視界に入った。

手が、止まった。
どこかで見た文字の癖だった。

いや、違う。
そんなはずはない。

もう一度、見た。

──同じだ。

筆跡が、重なっていた。

どのくらいそうしていたか、わからなかった。
二枚の紙を、見つめ続けた。
何も、言えなかった。

今は早み。
曲がったものは、まっすぐに戻る。


──違う。

言葉にならないまま、その感触だけが残った。

全て終わった後で、もう一度この言葉を思い出してください──赤海はそう書いた。

まだ終わっていない。
その感触だけが、はっきりしていた。​​​​​​​​​​​​​​​​


一週間後、俺は玄水会の幹部会に呼び出された。

幹部会が始まる少し前、赤海が資料を手に部屋の隅に立っていた。他の幹部はまだ揃っていなかった。

声をかけようとした。しかし足が止まった。
この男に何を聞くのか。聞いてどうするのか。答えが返ってきたとして、何かが変わるのか。

それでも足が動いた。

「少し、よろしいですか」

赤海が顔を上げた。
表情は変わらなかった。

一枚の書類を差し出した。

「会社のところに届いた告発状です。ご存知ないですか」

赤海が、表情を変えずに書類に目を通した。

「これは告発状ですか?物騒なことが書かれていますね。私には何のことかよくわかりませんが」

しらばっくれている。そう思った。
思いながら、封筒と手紙を取り出した。

「これは、あなたからの手紙です」

二枚を、赤海の前に並べた。

「封筒の宛名と、あなたの手紙です。ここの筆跡が、同じです」

赤海が二枚を見た。長くは見なかった。
一瞬だけ見て、顔を上げた。
窓の外に、目を向けた。

「そうですか。多少、筆跡をかえたつもりでしたが、よく気づきましたね」

感心しているのか、それとも想定内だったのか。その言葉のどこにも、動揺がなかった。

最初から、ここに辿り着くことを知っていた。
──そういう目をしていた。

「告発状を会社に送ったのは、あなたですか」

「そうです」
──ほんのわずかに、口元が緩んだ気がした。

あっさりと認めた。
用意していた言葉が、崩れた。

「なぜですか」

「花城さんのためです。あなたには、輝く未来を歩いていただきたい。あの雨池という男は、あなたにとって邪魔な存在だと思ったもので」

「私はそんなこと頼んだことはない。勝手なことをしないでもらいたい」

「では、聞きます。私が告発状を送らなかったら、あの雨池を追い出すことができましたか?秋谷くんを助けることができましたか?私は、きっかけを作っただけです。動いたのは──あなたでしょう」

「では、あなたの手紙の意味はなんですか?あれは、早く動けという意味だったのですか」

少し間があった。
赤海が初めて、わずかに目を細めた。

「そうかもしれませんね」

答えをもらった感触がなかった。
その空白が、体の中に残った。

もう一度聞こうとした。
しかし赤海が先に言った。

「花城さん、畦地先生からあなたが取締役会でどう動いたかを聞きました。我々が手に入れた証拠を持って雨池専務が失脚させた経緯もね。さすがだと思いました」

褒められた。
しかし体が、素直に受け取らなかった。

「庄の民の血というのは、本物ですね。追い詰められた時に、本来の力が出る。古文書にも、そう書かれているそうです。首長の血を引く者は、窮地において覚醒する。花城さんを見ていると、その言葉が本当だとわかります」

また、遺伝子の話が来た。
赤海は、俺から目を離さなかった。

木枯の言葉が、よぎった。
「あの人は、人の弱さを瞬時に感じることができるのです。それを匂いというものかもしれません」

匂いが漏れないように、必死に隠した。

「そんな力はありません。買いかぶりすぎです」

「そうは思いません」

赤海は静かに言った。感情がなかった。
ただ、事実を述べているだけの声だった。
それが余計に怖かった。

「花城さん。告発状の件は、あなたの会社の話です。しかし今日からは、玄水会の話になります。我々はあなたのお願いを叶えました。こんどは、我々のお願いを聞いてもらう番です。わかりましたね」 

わかりましたね、という言葉が、会話を閉じた。
静かに、完全に。

たしかに、雨池は依願退職で会社を去った。
牛島も、地方の関連会社へ出向となった。

そのために、俺は毒を飲んだ。
何も感じなかった毒の匂いが、胸を刺してくる。

他の幹部が入ってきた。
赤海が資料を持って席に戻った。

その背中を見ていた。この男が何を考えているのか、まだわからなかった。わからないまま、この男の隣で理事長になる。

腹の底に、沈んだままだった。

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