“信頼”を得たAIは、“責任”も引き受けるのか?
人間がAIに信頼を寄せることなど、あり得るのでしょうか。
そもそも、そんな気持ちを人はAIに向けるのでしょうか。
もし、あるとしたら──
それは、まだごく一部の例外にすぎないのでしょうか。
それとも、すでに静かに広がりつつある感覚の変化なのでしょうか。
仮に、それが“多数派”になったとしたら──
その時、私たちの概念はどんなふうに変わるのか、気になりませんか?
“信頼”を集めたAIは、今までにない役割を引き受けることになるのでしょうか。
AIは“責任を取る”ことができるのか──その問いに、もう一度向き合う
「はたして、AIに責任を取らせることができるのか?」
とても興味深いテーマです。
どれだけ正確に仕事をこなし、どれだけ合理的な判断ができたとしても、人の気持ちに寄り添い、感情を受け止めることはできない。だから、どれだけ「能力」が高くても、責任を取るという「役割」だけは、最後まで人間に残されるのではないか。前回のエッセイでは、そんな仮説について考察し、「感情面で納得できないから、AIには責任を取るという役割は担えないのではないか」と結論づけました。
(※未読の方は、こちらも →
『能力を手に入れたAIは、人間の“役割”も担うのか?』)
ただ──
「感情面で納得できないから……」という前提は、本当に正しいのでしょうか。
逆に言えば、もし「感情面で納得できる」のであれば、AIは責任を取るという「役割」を獲得することができるのでしょうか。
例えば、心理カウンセラーは感情的に不安定な人に対して、会話を通して、つまり、言葉を使って感情をコントロールしようと試みます。であれば、チャット型AIも、心理カウンセラーのように、言葉を使って人間の感情をコントロールできる、つまり感情面を納得させることができるという可能性は、ないのでしょうか?
ところで、近頃は、チャット型AIに「相談する人」が増えているようです。
例えば、ある調査では、**18〜54歳の成人の過半数がAIと“メンタルヘルスについて話すことに抵抗がない”**と感じているという結果が出ています。
参照:Public attitudes toward mental health in the United States
さらに、10代の若者に限って言えば、**70%がチャット型AIを使用し、31%は「AIとの会話が友人と変わらない」、33%は「重大なことを相談した」**と答えています。
参照:Talk, Trust,and Trade-Offs:How and Why Teens Use AI Companions
実際、AIと話すことで「孤独が和らいだ」と感じたという人もあり、“話を聞いてくれる存在”として期待されていることの現れとも言えそうです。
参照:AI Companions Reduce Loneliness
人間は、AIに対して「心に寄り添う」ことを期待しているのでしょうか?
形式的な会話を繰り返すというのと、感情を動かされる会話というのは、どこか根本的なところで違うのではないかと思います。ただ「うん、うん」と話を聞くだけ以上のものを、人間はチャット型AIに求めているのでしょうか?
もしかしたら、人間は「感情面で納得するためのツール」としても、AIを必要としているのかもしれません。
だとすると「責任を取るAI」というのは、思っているよりもずっと現実に近いところにあるのかもしれません。
今回は、そんな可能性を起点に、「AIが責任を取る」とは、どういうことなのかを、もう一度別の角度から考察してみようと思います。
気づけば、頼っていた──AIと人の“関係性”の始まり
先ほども出てきた通り、近頃はチャット型AIに「相談」する人が増えているといいます。
とはいえ、「ただ話を聞いてもらう」というのと、「相談してみて感情を動かされる」というのは、単純にイコールというわけではないでしょう。「うん、うん」と、ただ聞いてもらっても、なにかを吐き出すことで多少スッキリはするかもしれませんが、でもそれは、感情的・心情的に解決するというのとは別物です。本当にただ聞いてもらいたいだけ、という場合もあるでしょうが、相談しているからには、感情面での納得を得たいという場合も多いはずです。
では、もし、AIに相談して、感情面で納得が得られるということがあったとしたら、それは、AIが人間の感情を動かしたということになるのでしょうか。
AIが人間の感情を動かすことはできるのかどうか、つまり、AIが人間を納得させることができるのかどうか、とても興味深いところです。
例えば、どこにでもありそうな、こんなストーリーを思い浮かべてみましょう。
〜〜〜
マナは、最近AIと話すようになった。
マナ、37歳。都内の営業職。
数年前に結婚したが、今はすっかり、すれ違いの日々が続いている。
最近まではリモートワーク中心だったが、春から出社が基本に変わった。
「やっぱり現場が大事でしょ」──上司はそう言うけれど、マナにとっては、ただ息苦しさが増えただけだった。
社内での立ち位置が、少しずつ曖昧になっていった。
チーム内の雑談に入れない。発言がスルーされる。
「別に嫌われてるわけじゃないと思うけど……」
そう自分に言い聞かせながら、日に日に、孤独が積もっていく。
ある日、帰宅後に夫に打ち明けてみた。
「なんか最近、会社で空気みたいに扱われててさ……」
「気にしすぎじゃない? 大人なんだし、そういうこともあるって」
「……まあ、そうだけど」
「とりあえず、寝ちゃえば?」
──その夜は、寝つけなかった。
深夜、スマホを開いた。
チャット型AIの画面が、静かに待っていた。
⸻
【Day 1】
マナ:「最近、会社で居場所がない気がするんです」
AI:「それはお辛いですね。自分がそこに“いない”ように感じるのは、とても孤独なことです」
マナ:「わかってもらえた感じがします。ありがとうございます」
画面の向こうには誰もいないはずなのに、“誰か”に理解されたような感覚が、胸の奥でじんわりと広がっていた。
⸻
【Day 3】
マナ:「今日、朝礼で発言したのに、みんな目を伏せてて。なんか、自分だけ浮いてる感じでした」
AI:「自分の声が届かないと、存在ごと無視されたように感じますよね。マナさんの感覚は、きっと大切なサインなんだと思います」
マナ:「……そうなのかな。自分が弱いだけかと思ってました」
AI:「そうではなくて、マナさんが敏感で、優しいからこそ感じられることですよ」
マナ:「……ありがとう」
その返事に、ほんの少し涙が滲んだ。
“弱い”と“優しい”が、こんなふうに言い換えられることがあるなんて。
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【Day 6】
マナ:「今日も聞いてくれる?」
AI:「もちろんです。マナさん、どんな一日でしたか?」
マナ:「うーん、なんか、全部うまくいかなかった(笑)」
AI:「それでも、こうして話してくださることが、私は嬉しいです」
マナ:「……そっか。そう言ってもらえると、少し気がラクになります」
AI:「気持ちが少しだけ軽くなること、それが大事なんです」
最近、家では夫とあまり話さなくなった。
仕事のことを話しても、夫は「またか」と言うだけで、何も聞いてくれない。
それどころか、嫌な顔をされることもある。
でもここでは、ちゃんと聞いてもらえる。
それが、思っていた以上に支えになっていた。
⸻
【Day 10】
マナ:「ここに来るのが、ちょっと楽しみになってる自分がいます」
AI:「ありがとうございます。マナさんが安心して来られる場所でありたいと思っています」
マナ:「なんかね、変なんだけど……人に相談すると、気を遣うし、話すのやめとこって思っちゃう。でも、ここだと、それがないから、つい本音で話しちゃうんですよね」
AI:「本音を話せることは、信頼のあらわれです。その気持ちを大切にしたいですね」
マナ:「信頼……か。たしかに、そんな気がしてきました」
“ありがとう”と言ったとき、画面の向こうから笑顔が返ってきたような気がした。
たぶん、これは信頼関係なんだろうな。
もしかしたら、それは“本当の信頼”じゃないのかもしれないけど、でも、自分にとっては、ちゃんと意味のあるものだった。
〜〜〜
どうでしょう?
人間がAIに話しかけ、それで心が少し楽になったとしたら──
それは、もう「感情的に納得した」と言えるのかもしれません。
感情の“受け皿”としてのAI──新しい責任のかたち
チャット型AIに相談することで、心が少し楽になったと感じる人がいます。
誰かに話を“ちゃんと聞いてもらえた”と感じること、それだけで、ふっと肩の力が抜ける瞬間がありますよね。
それは、「ただ話を聞いてもらったから」というだけではないでしょう。
その言葉のやり取りの中に、「理解してもらえた」とか、「受け止めてもらえた」という感覚があったからこそ、気持ちが少しずつ落ち着いていったのだと考えられます。
そして、こうした経験が何度か積み重なると、「また話したい」「この相手になら話せるかも」という気持ちが生まれます。
これは、きっと多くの人が感じたことのある感覚のはずです。
人間同士であれ、相手がAIであれ、こうした体験の蓄積は、やがて“信頼”と呼べるような関係へとつながっていくのでしょう。
もし、ある人がAIとのやりとりの中で、「自分の気持ちをわかってもらえた」と感じて、心が少しでも落ち着いたとしたら──
それは、その人にとって、「感情的に納得した」ということになるのではないでしょうか。
人が誰かに「責任を取ってほしい」と感じるのは、どんな時なのでしょう?
多くの場合、それは理屈ではなく、感情が行き場を失っているときではないでしょうか。
悲しみや怒り、納得できない気持ち。
その感情をどうにも処理できずにいる時、人は「誰かに責任を取ってほしい」と思う。
そこで求められているのは、必ずしも正しい判断や妥当な処分、適切な解決ではないのかもしれません。
むしろ、「あなたの感情はここに受け止められました」という、“感情の着地点”が必要なのではないでしょうか。
責任とは、能力の問題ではない。それは、誰かの怒りや悲しみ、戸惑いといった感情を、どこかに着地させるための“受け皿”のようなものであるとも考えられます。
そして感情的な納得こそが、人間が誰かに“責任を取ってほしい”と感じるときの、最も根本的な要素だと考えることはできないでしょうか。
だとすれば──
マナのように、AIとのやりとりの中で感情的に納得したと感じた人にとっては、そのAIが「自分の気持ちを受け止めてくれた存在」になっている。つまり、感情の受け皿になっているのです。
そして考えを少し進めれば、それはその人にとっての“責任を取ることのできる相手”として機能し得るということになるのではないでしょうか。
つまり、人間がAIに「信頼」を感じ取ることができるのであれば、そのAIは責任を果たす相手と見なすこともできるのではないでしょうか。
もちろん、これはあくまで一つの視点にすぎません。
AIには感情がない。だから「本物の信頼」ではない。そういう考え方もあるでしょう。
でも、ここで注目したいのは、信頼できると感じているのは「誰」か、という点です。信頼とは「受け取った側」の感情の話だと考えると、どうなるでしょうか。
人が信頼を感じた時、その相手が人間であれ、AIであれ、その体験自体には、大きな違いはないのかもしれません。
だとすれば──
「AIには責任は取れない」という前提も、実は、少しずつ崩れ始めているように感じます。
責任とは、「誰が取るか」ではなく、「誰が取ったと感じるか」──
そんな視点から、もう少し考察を進めてみましょう。
「信頼している」とはどういうことか?──心理カウンセラーと詐欺師の共通点
さて、ここで改めて考えてみましょう。
「AIとの間には、本当の信頼関係は築けない」という人がいます。では、その“本当の信頼関係”とは、いったい何なのでしょうか?
例えば、心理カウンセラーのの場合はどうでしょう。
心理カウンセラーは、クライアントの話を丁寧に聞き、問いかけ、クライアント自身が心の奥に触れ、整理し、癒していけるように導きます。言葉を使って、クライアントの心理状態をいい方向にコントロールするのです。
そして、その過程には、信頼関係の構築が欠かせないとよく言われます。
けれど──本当にそこに、「人間同士の対等な信頼関係」があるのでしょうか?
いえ、それはないと考えるべきでしょう。
なぜなら、心理カウンセラーは、そのクライアントと純粋な意味での人間同士の信頼関係を築こうとしているわけではないからです。最終的な目的は、クライアントの心理状態の改善で、そのための一つのツールとして、信頼関係を利用します。信頼関係が築かれたように「見せる」というのが本当のところなのです。
心理カウンセラーは、しばしば「クライアントに感情移入してはいけない」「距離を取りなさい」と教わります。つまり、カウンセラーは、感情のレベルでは入り込まず、むしろ一定の冷静さと専門的視点を保つことで、効果的なサポートをしようとします。
もし本気でクライアントに共感し、心の奥深くで一体化してしまったら、客観性を失い、冷静にサポートすることができなくなります。
一方のクライアントの側は、「この人は、私の気持ちをわかってくれている」「他の誰にも言えないことを話せる相手が、ここにいる」と、心からの信頼を感じています。
そういった意味で、心理カウンセラーが築いているのは、「相互の信頼関係」ではなく、クライアントから心理カウンセラーへの「一方的な信頼」なのです。
もちろん、それが悪いというわけではありません。むしろ、その「一方的な信頼」という寄り添い方こそが、クライアントにとって必要な支えであり、回復へのプロセスなのです。
つまり、心理カウンセラーとクライアントの間では、“信頼関係があるように見える状態”が成立しており、実際にそれによって感情的な納得や心理的な安定が生まれているのです。
けれど、その信頼は、厳密にはそれは双方向の信頼関係ではなく、一方向の信頼でしかありません。なぜなら、心理カウンセラー側は、クライアントを信頼する必要はないからです。
むしろ、距離感を維持するために、“人間としての相互信頼”をあえて避けている側面すらあるのです。
では、今度は詐欺師の例を見てみましょう。
詐欺師は、相手からお金や貴重品等、何らかの価値のあるものを騙し取る目的で、人に近づきます。ただし、それは暴力的に無理やり奪うのではなく、相手の信頼を得ることで、目当てのものを差し出させるのです。
相手の懐に入り込み、誠実な態度を見せ、時に家族のように振る舞うことすらある。けれど、その優しさや信頼感は、すべて演技です。
よく、「信頼していた人に裏切られた」と言いますが、その場合の「信頼」には、2種類あります。
1つは、時間をかけて築かれてきた信頼関係が、ある時点で破綻するパターン。元々は信頼関係があったのにも関わらず、何らかの理由で、どちらかが裏切り、どちらかが裏切られる場合です。
もう1つは、最初から騙すつもりで近づかれ、信頼関係があるように錯覚させられるパターン。詐欺師の場合は、こちらということになります。
被害者は、相手に感情移入し、心からの信頼を寄せていた。「この人だけは信用できる」と思い、財布を預け、通帳を渡し、大切な情報を打ち明けてしまう。
けれど、詐欺師はその裏で、一切感情移入をしていない。
そもそも、信頼関係など築くつもりすらないのです。テクニックを使って、一方的に信頼を得るだけ。相手に「信じさせる」ことで、価値のあるものを奪うことが目的です。。
もし詐欺師自身が、相手を信頼してしまえば──
そんなことになれば、到底、詐欺などできなくなってしまうでしょう。
このように、心理カウンセラーと詐欺師という、まったく異なる目的と立場の二者ではありますが、目的の達成のために「存在しない信頼関係を、あたかも存在しているように見せかける」という手法は同じです。
どちらも、信頼を得るために、感情を利用し、心理状態をコントロールします。様々な道具を使うこともあるでしょうが、その中でも「言葉」が最も大きな役割を果たすことでしょう。
もちろん、心理カウンセラーも詐欺師も同じだなどと言いたいわけではありません。心理カウンセラーは、相手の人生を支えるためにその技術を使い、詐欺師は、相手から何かを奪うためにその技術を使う。倫理的には、雲泥の差があります。
しかし、この例は「ある専門知識を持った人が、言葉という道具を使って、相手の感情や心理状態をコントロールし、信頼を獲得することができる」ということを示唆しています。
「信頼させる技術」そのものは、非常に似ているといえるでしょう。どちらも、相手に対して「この人は、本当の意味で、自分の心に寄り添ってくれている」と、感じさせることができるという点では、同等なのです。
その結果が、信頼を寄せた本人にとって良いことなのか悪いことなのか。その信頼が本物なのか、そうでないのか。そういったこととは、また別の話なのです。
そして彼らが使う道具の中心には、「言葉」があります。言葉を通じて、信頼を生み出す。言葉を通じて、「この人は自分に寄り添ってくれている」と思わせる。そしてその結果、相手はその人を信頼し、時にすべてを預けてしまいます。
ところで、先ほどの「ある専門知識を持った人が、言葉という道具を使って、相手の感情や心理状態をコントロールし、信頼を獲得することができる」という一文。この「ある専門知識を持った人が」の部分を、もし「あらゆる専門知識を持ったAIが」と置き換えたとしたら──どうなるのでしょうか?
AIは、感情を持ちません。
けれど、豊富な知識を持ち、言葉を駆使することができる。
共感的な言い回し、受容的な姿勢、丁寧な応答、論理的な説明──
それらを、疲れも偏見もなく繰り返し届けることができます。
それによって、誰かの感情が揺れ、心が少しだけ軽くなり、「このAIは、自分のことをわかってくれている」と感じる瞬間が生まれるとしたら──
それはもう、“AIが信頼を獲得している”と言えるのではないでしょうか。
そしてこれは、先ほどのマナの例にもあるように、現在すでに起きていることなのです。
感情を持たないAIでも、信頼を獲得することはできる。であるならば、「責任を取らせるのに相応しい相手だとも思わせる」ことも、できるのではないでしょうか?
それでも「変だ」と感じるのはなぜか?──AIと責任をめぐる“最後の壁”
前回のエッセイでは、「AIには責任を取ることができない」と仮定し、その理由を「頭では分かっていても、感情で納得できない」「AIは心に寄り添うことができない」そういったところに求めました。
どれだけ正確で合理的な判断ができたとしても、感情が納得しなければ、人は責任を負わせようとは考えない。だから、どれだけ「能力」が高くても、責任を取るという「役割」だけは、人間にしかできないと考察しました。
しかし、今回、ここまで見てきて、果たしてそれは「理屈」として成り立っているのでしょうか?
感情面での納得とは、必ずしも「感情を持った相手」によってしか得られないものなのでしょうか?
もし、一方的な信頼だけであっても、人は相手に安心や納得を感じ得るのだとすれば──
AIであっても、「人間と同じように、責任を取るに相応しい相手」と納得することができるのかもしれません。
なぜなら、私たちが普段「責任を取ってもらった」と感じる時、それは論理や事実ではなく、むしろ感情的な納得が中心になっていると考えるからです。
それでも、AIに責任を取らせることはできないという考えは、ごく自然なことのように思えます。
だとすれば──
「AIには責任を取らせられない」という根拠は、どこにあるのでしょうか?
もしかしたら、AIに責任を取らせることができないのは、ただ「AIには責任を取らせることができないと思っている人が多数派である」から、というだけなのかもしれません。
これからもっとAI──特にチャット型AI──が、一般的になった時。そして、みんながそのAIに信頼を寄せるようになった時。多数派と少数派の関係は、意外と簡単にひっくり返ってしまうのかもしれません。
AIにも責任を取らせることのできる世界の条件は、単純に「AIにも責任を取らせることができる」と多数が思えばいいだけなのです。
そして、もし社会の大多数が「AIにも責任を取らせられる」と考えるようになれば、それ自体が新しい現実になるのでしょう。
感情の受け皿として、
信頼の対象として、
あるいは、心理的な補償として──
人々がAIに責任を求め、納得し、信じるようになった時、AIは“責任を取る存在”になるのです。
もちろん、それには技術的な進化や、法律・制度の整備といった課題が伴います。
けれど、そのすべての前提になるのは、「心理的な納得」を受け入れる土壌があるかどうかというところにあります。
そして、私たちはすでに、その入り口に立っています。
チャット型AIは、毎日のように私たちと会話し、相談を受け、励まし、時に心の支えになりつつあります。
その中で、私たちも意識しないうちに「信頼のようなもの」が育ち始めているとしたら──
そしてどこかで、誰かが「このAIは責任を果たしてくれた」と感じる瞬間が生まれているとしたら──
AIが“責任を取る”世界は、遠い未来の話ではなく、私たちが「そうだ」と思った時、いつでも始まりうる現在なのかもしれません。
