有名医学誌の論文が2年後に撤回|300万人死亡説はなぜ見誤られたのか
「この論文、300万人もの死者数を示しているらしい」――もしSNSでそんな投稿を見かけたら、あなたはどう感じるでしょうか。不安になる方も、思わず疑ってしまう方もいると思います。実は2024年に有名医学誌に発表されたある論文が、まさにこの数字をめぐって世界中で拡散され、そして2026年8月、撤回されるという結末を迎えました。査読を通り、多くの専門家の目にさらされたはずの論文が、なぜ2年以上もの歳月を経て撤回されることになったのか。今日はこの出来事を手がかりに、私たちが日々の情報とどう向き合えばいいのかを、一緒に考えてみたいと思います。

「300万人」という数字が生まれた場所
2024年6月、イギリスの医学誌「BMJ Public Health」に、ひとつの論文が掲載されました。オランダの研究者らによるもので、欧米47か国を対象に、2020年から2022年までの「超過死亡」――本来想定される死者数を上回って実際に亡くなった人の数――を分析したものでした。
結果として示されたのは、3年間で合計およそ309万人という超過死亡数でした。とりわけ2021年、感染対策とワクチン接種の両方が行われていた年に、最も多くの超過死亡が記録されたと報告されています。
この数字自体は、公開されている統計データをもとに算出されたものです。ただし、超過死亡が「なぜ」起きたのかという原因については、この研究デザインでは本来分からないはずのものでした。それにもかかわらず、論文の考察部分では、感染対策やワクチンが超過死亡の要因である可能性に、比較的大きな比重が置かれていたのです。
査読を通ったのに、何が問題だったのか
私が今回、皆さんに知っておいてほしいのはここからです。
論文が公表されるとすぐに、世界中のメディアやSNSで「ワクチンが数百万人の死に関わっている証拠だ」という文脈で拡散されました。しかし発表からわずか数日後、BMJ側は「この研究は超過死亡の推移を見ているだけで、原因を証明したものではない」と説明する声明を出しています。あわせて、ワクチンが重症化や死亡を減らすうえで大きな役割を果たしてきたことも、あらためて明記されました。
その後、著者4人のうち3人が所属していたオランダの小児がん専門病院、プリンセス・マキシマ・センターが独自に調査を行いました。結論として、データの捏造や悪意は見つからなかったものの、考察の記述に偏りがあり、都合のよい先行研究ばかりを選んで引用していた、という指摘がなされています。
そして2026年8月、BMJ Public Health誌はこの論文を正式に撤回しました。理由として挙げられたのは、超過死亡の原因に関する考察部分に誤った情報が含まれていたこと、そして研究そのものが持つ限界について、十分な説明がなされていなかったことでした。なお著者らはこの撤回に納得しておらず、政治的な圧力によるものだと主張し、2026年6月にはアメリカ議会の公聴会で証言も行っています。この論文をめぐる評価は、今もなお完全には決着していません。
なぜ、私たちはこの数字に心を動かされるのか
ここで私は、公認心理師として、少し立ち止まって考えてみたいのです。なぜこれほど多くの人が、この論文の数字に強く心を動かされたのでしょうか。理由は大きく3つあると私は感じています。
ひとつめは、確証バイアスです。もともとワクチンや医療政策に不安や不信を抱いていた人ほど、その不安を裏づけてくれる情報に、強く反応しやすくなります。これは決して「弱さ」ではなく、誰の心にも備わっている、ごく自然な働きです。
ふたつめは、権威への信頼です。「有名医学誌」「査読済み」という肩書きは、本来「一定の審査を経た」という意味でしかありません。それにもかかわらず、私たちはその肩書きだけで「内容が正しい」と錯覚してしまいがちです。世界保健機関はパンデミック初期、誤情報が感染症そのものと同じくらいの速さで広がる現象を「インフォデミック」と名づけましたが、その広がり方を後押ししていたのは、まさにこの権威バイアスだったのではないかと私は考えています。
みっつめは、数字そのものが持つ力です。「300万人」という大きな数字は、一人ひとりの具体的な物語よりも、時にかえって強く感情を揺さぶります。情報は、まるで乾いた草原の火のように一気に燃え広がりますが、その火が誤りだったと知らせる続報は、なぜか同じ速さでは届いてくれません。
これからできる、3つの向き合い方
こうした話をすると、「もう何も信じられない」と感じてしまう方もいるかもしれません。でも私は、そんなふうに思わなくて大丈夫だとお伝えしたいのです。今回のことは、私たちの情報を選び取る力を、もう一段育てるための、いいきっかけにできると思っています。
ひとつめに、数字だけでなく「誰が」「どんな立場で」発信しているかに、少しだけ目を向けてみてください。同じデータでも、書き手の立場によって強調される部分は変わってきます。
ふたつめに、ひとつの記事や投稿だけで判断を急がず、その後どう検証されたかを追ってみることです。今回の論文のように、発表から数年かけて評価が変わることも、決して珍しくありません。
みっつめに、強い不安や怒りが動いたときこそ、ひと呼吸置く習慣を持ってみてください。感情が大きく動くときほど、実はその情報が正確かどうかを確かめる、絶好のタイミングでもあるのです。
不安になったり、思わず信じてしまったりすることは、あなたが弱いからではありません。それだけ、あなたが物事を真剣に受け止められる人だという証でもあります。そのうえで、少しだけ立ち止まる力を持てたなら、あなたはもう、情報に振り回される側から、情報を選び取る側へと変わり始めています。あなたには、その変化を起こせる力が、確かにあります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。今日の記事が、皆さんの明日以降の一歩を考えるきっかけになればうれしく思います。
#フェイクニュース #ファクトチェック #情報リテラシー #陰謀論 #コロナワクチン
論文読解ナビゲーターによる批判的吟味
論文の要約(500字以内)
本研究は、Our World in Dataの全死因死亡データを用い、西側47か国の2020~2022年の超過死亡を記述した生態学的・二次データ解析である。2015~2019年を基準とするKarlinsky–Kobakモデルで期待死亡数を推定し、3年間で3,098,456人の超過死亡を報告した。年別では2020年1,033,122人(P-score 11.4%)、2021年1,256,942人(13.8%)、2022年808,392人(8.8%)であった。著者は持続する超過死亡の原因究明を求めている。ただし本研究にはワクチン接種歴・感染歴・死因別データがなく、ワクチンや行動制限と超過死亡との因果関係は評価できない。なお、本論文は現在RETRACTED(撤回済み)と明記されており、エビデンスとしての使用には重大な注意が必要である。
研究の目的(1文で明確に)
COVID-19パンデミック開始後の2020~2022年に、西側諸国で全死因超過死亡がどの程度生じ、持続したかを記述すること。
新規性(Novelty)
本研究の特徴は、パンデミック初年度だけでなく2022年までの3年間を連続して47か国で集計し、超過死亡数とP-scoreを比較した点にある。特に2021~2022年まで超過死亡が続いたことを政策評価上の課題として提示した。
一方、超過死亡そのものの国際比較やKarlinsky–Kobakモデルは既存研究・既存データセットに基づくため、統計学的方法自体の新規性は限定的である。実質的にはOur World in Data/World Mortality Datasetの既存推定値を再集計・記述した研究と位置づけるのが妥当である。
研究手法(Methods)
研究デザインは国レベルの生態学的記述研究(ecological descriptive study)/公開二次データ解析である。RCTや個人単位のコホート研究ではない。
対象は2020~2022年の全期間について死亡データが利用可能だった西側47か国。死亡数はOur World in Dataを介しHuman Mortality DatabaseおよびWorld Mortality Datasetから取得した。期待死亡数は2015~2019年の死亡データに、週・月ごとの季節性を示す固定効果と年次の線形トレンドを組み込んだKarlinsky–Kobak線形回帰モデルから算出した。観測死亡数との差を超過死亡、期待死亡数に対する割合をP-scoreとした。
36か国は週次、11か国は月次データであり、著者らは週次データを月次化したうえで年間値に集約している。データ抽出日は2023年5月20日で、2022年については一部未確定・未完全である。
介入群・対照群は存在しない。 また、個人のCOVID-19感染、ワクチン接種、ロックダウンへの曝露、年齢、性別、基礎疾患、死因などを研究内で直接測定していない。
統計分析の妥当性
超過死亡を「記述する」目的には概ね合理的だが、「原因を推定する」には不十分である。
Karlinsky–Kobakモデルは、単純な2015~2019年平均ではなく、季節変動と年次トレンドを考慮している点が長所である。また予測値の分散・標準誤差を計算し、モデル上の不確実性を扱っている。人口規模の違いについてもP-scoreや人口当たり指標が利用されている。
一方で重要な問題がある。第一に、期待死亡数は「観測できない反実仮想」であり、基準期間やモデル選択に依存する。線形トレンドが2020年以降にも妥当という仮定は保証されない。論文自身も、Poisson回帰やBayesianモデルなど別手法で推定値が変化し得ることを認めている。
第二に、主要結果は死亡数とP-scoreの点推定値中心で、臨床論文で期待される95%信頼区間や感度分析が主要結果として十分に提示されていない。第三に、年齢・性別・感染流行、医療逼迫、気温、インフルエンザ、社会経済状況などを同時に扱う多変量因果モデルではない。
最重要点は、2021年がワクチン接種開始後であることと、その年に超過死亡が多かったことを並べても、ワクチンが超過死亡を引き起こしたという推論はできないことである。典型的な生態学的誤謬、時間交絡、適応による交絡(confounding by indication)が存在する。
論文の結論(Findings & Conclusion)
47か国の合計超過死亡は2020~2022年で3,098,456人だった。内訳は、
2020年:1,033,122人、P-score 11.4%
2021年:1,256,942人、P-score 13.8%
2022年:808,392人、P-score 8.8%
で、超過死亡が認められた国の割合はそれぞれ87%、89%、91%だった。図1では累積超過死亡が3年間にわたり増加し、図2~4では国ごとのばらつきが大きいことが示されている。2022年値は暫定値である。
著者らは、COVID-19感染そのもの、医療アクセス低下、行動制限の間接影響、ワクチン、その他の要因を区別するため、死因別データや剖検を含む追加研究が必要と結論している。
結論の妥当性(Validity of Conclusion)
「2020~2022年に超過死亡が持続した」という記述的結論は、用いたデータと解析から概ね支持される。
一方、論文タイトル・Discussion・Conclusionで用いられる「containment measures and COVID-19 vaccinesにもかかわらず超過死亡が持続した」という表現は、慎重な解釈を要する。研究はこれらの介入の効果を比較する設計ではなく、接種者と非接種者の死亡率も比較していない。
したがって、
超過死亡が存在した → 妥当な観察
である一方、
ワクチン/行動制限が超過死亡を増加させた → 本研究からは判断不能
である。この2点を区別することが最も重要である。
さらに、アップロードされた論文自体がRETRACTEDと明示されている。撤回理由はこのPDF本文には記載されていないため、撤回理由そのものについては本PDFだけから推測すべきではない。
臨床応用の可能性(Clinical Implications)
個々の患者についてワクチン接種を中止・推奨したり、特定治療を変更したりする根拠には使用できない。個人レベルの曝露・転帰解析がないためである。
一方、公衆衛生上は、パンデミック後にも全死因死亡を継続監視し、COVID-19そのものだけでなく、循環器疾患、癌、糖尿病、薬物関連死、医療アクセス低下などを含む死因別・年齢別・性別分析を行う必要性を示す問題提起としては有用である。
安全性・コスト面では、新規介入を提案する研究ではないため直接的な評価対象ではない。実務上必要なのは、質の高い死亡登録データの整備とリンク可能な個人レベルデータベースである。
議論のポイント(Discussion)
著者は、超過死亡の原因候補としてCOVID-19感染、医療システムの逼迫、行動制限による医療アクセス低下、社会経済的影響、ワクチン関連有害事象などを広く議論している。
抄読会では、特に次の論点が重要になる。
「超過死亡」と「原因」は別問題
全死因超過死亡は健康危機の総負荷を捉える強力な指標だが、それ単独では原因を分解できない。2021年のピークをどう解釈するか
ワクチン接種開始と時間的に重なる一方、同時期には大規模な感染波、変異株、感染後合併症、医療逼迫など多数の時間依存性要因が存在する。ワクチン有害事象に関するDiscussionの比重
論文はワクチン安全性に関する多数の報告を引用するが、本研究そのものはワクチン曝露と死亡の関連を統計解析していない。背景文献と自研究の実証結果を混同しないことが必要である。期待死亡数のモデル依存性
著者自身、Poisson回帰、Bayesianモデルなど他の方法論との違いを紹介しており、ベースライン設定が結果に大きく影響し得る。
論文の限界と今後の展望(Limitations & Future Directions)
論文自身が挙げる主要な限界は、2022年データの不完全性、死亡登録の遅延、国ごとの登録品質の差、週次データと月次データの混在、年齢・性別などの個人属性がない点である。4か国では1~4か月分のデータが欠けていた。
加えて批判的吟味上は、生態学的研究であること、ワクチン接種率・接種時期・感染率・死因を解析変数として扱っていないこと、国間の年齢構成や流行時期の違いを十分に因果調整できないことが重大である。また「Western World」の定義が文化的概念であり、対象国選択にも恣意性が入り得る。
今後は、個人レベルの死亡登録・ワクチン接種・SARS-CoV-2感染・既往歴をリンクした大規模コホート、年齢・性別別の直接標準化、cause-specific mortality、negative-control outcome、time-varying exposureを用いた解析が必要である。ワクチン安全性を検証するなら、少なくとも接種群と適切な比較群を設定し、感染歴・年齢・併存疾患・暦時間を厳密に調整すべきである。
次に読むべき関連論文
本論文内で引用され、比較読解に特に適しているのは以下である。
Karlinsky A, Kobak D. eLife 2021;10:e69336.
World Mortality Datasetと、本研究が採用した超過死亡推定モデルの原著。まずこれを読むと、本論文の統計的基盤を評価しやすい。Wang H, et al. Lancet 2022;399:1513–1536.
COVID-19関連超過死亡の大規模な国際推定。異なるモデルによる推定値との比較に重要。Msemburi W, et al. Nature 2023;613:130–137.
WHOによる世界194か国の超過死亡推定。Bayesian/Poisson系の手法を含み、本論文より包括的な比較対象となる。Islam N, et al. BMJ 2021;373:n1137.
29高所得国を対象に、年齢・性別別の超過死亡をoverdispersed Poisson回帰で解析。年齢構成の影響を考える際に有用。Paglino E, et al. Sci Adv 2023;9:eadf9742.
Bayesian hierarchical modelによる米国郡レベルの詳細解析。地理的異質性とモデル選択の重要性を理解できる。
内容の整合性チェック
アップロードされたPDF本文、表、図、Methods、Results、Discussion、Limitations、参考文献を照合した。超過死亡総数3,098,456人、年別値1,033,122/1,256,942/808,392人、P-score 11.4/13.8/8.8%、対象47か国、データ抽出日2023年5月20日、2022年データが暫定的である点は論文と整合している。
また、本解析では「ワクチンが超過死亡を引き起こした」とは結論していない。これは論文のデータから導けない因果推論を避けるための批判的評価であり、本文との齟齬ではない。さらに、PDFにはタイトルおよび各ページに「RETRACTED」と明記されていることを確認した。撤回理由そのものはアップロードPDFに記載されていないため、本回答では推測していない。
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