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過去をこすると煙と呪文が出てくる。木耳『トレーニング』を読んで。

記憶を愛撫したり、想い出にひたったり。自身の過去をえがく際、郷愁に傾斜する書き手は多い。それを求める読み手も多い。
だが『トレーニング』の木耳さんは、記憶を記録し、想い出をめぐらせているにもかかわらず、撫でたり、耽溺したりということがない。
綴るというより記す冷静さと、過ぎ去った出来事に対する仄かな冷淡さがある。だから記述は詳細だし、近過去と大過去の差異は消滅している。すべてはつい最近のことのようにも思えるし、なんなら先週くらいのことも十年くらい前のことも「くらい」ですべてが同一化してしまっている錯覚に、こちらは陥る。
臨場感と呼ぶにはかなり素っ気なくもあるが、それが魅力だ。おそらく木耳さんは、記憶やら想い出やらといった時間の質量にヒエラルキーを与えていないのだ。だから筆致は絶対に劇性を帯びない。
硬派からも軽妙からもするりと距離を置き、その過去がほんとうのことなのか、それとも虚構なのかすら、どうでもよくなってしまう文章は、あるときふっと終わる。
この幕切れこそ、木耳さんの独壇場だ。
この作者は、過去を撫でずに、擦っている。轍を辿り遡るのではなく、指で擦ることこそ記憶を記録することなのだという冷徹な判断があるのではないか。
過去を擦るとなにが生まれるのだろう。なにが聴こえるのだろう。煙かもしれないし呪文かもしれない。
煙がすっと飛散し呪文がふわっと遠ざかるような終わりの一行の感触は全九篇に通底しており、その風情を余韻と呼んではいけないのではないかと、わたしはかんがえている。

シリーズ人間1
トレーニング
木耳
新世界

2025年1月31日初版発行

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