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空音央『HAPPYEND』は最良の反作家主義である。

師走になってから駆け込むようにして観た『HAPPYEND』に魅せられた。空音央の前作『Ryuichi Sakamoto | Opus』は山形国際ドキュメンタリー映画祭で観ており、曲ごとに見せ方を変え、緊張感を持続させる手法に必然性があり、坂本龍一論というより、ピアノ論のような趣が信頼できた。
 『HAPPYEND』は『Opus』のような知性が先行する作品ではなく、階層の異なるさまざまな憧憬をミルフィーユのように折り畳んだ、ある意味、拙い一作。一見して誰もがエドワード・ヤンや相米慎二を想起するだろうが、それはあくまでもビジュアル面のことでしかなく、近未来を舞台に、それなりの社会問題意識を抱えながら放たれる青春模様の肌触りは、良質の漫画を読んだ時のテクスチャに近い。メッセージもあるにはあるが、何かを利用したり、あるいは利用されたりということがなく、漫然と断章を重ねていったら映画になっていた、という風情が好ましい。
 特筆すべきは、捩れがどこにも見当たらないことで、それが結果的に「圧のなさ」につながっている。素直と言えば素直、フラットと言えばフラットだが、青春という光を屈折させることも礼賛することもしない、その姿勢は明確な意志によるものだろう。
 人種を超越しようとする横並びのキャラクター配置の一方で、佐野史郎を明快なコメディリリーフとするオーソドキシーには、従来の作家主義=マッチョイズムへのやんわりとした抵抗も感じる。
 何よりも本作が素晴らしいのは、映画だけが絶対ではない、という作品のたたずまいである。ありとあらゆるカルチャー、そして、どうにもならない世界のあれやこれやと共に、映画もわたしたちも存在する。当たり前と言えば当たり前だが、ふっと目をそらすことができなければ見えてこないものが、ここにはある。

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