見出し画像

終末期こそリハビリテーション。

「もう終末期だから、リハビリはいいでしょう」
この言葉には、ずっと違和感がある。

病院では、病気が治ったら終わり。歩けるようになったら終わり。
在宅でも、状態が落ちてきたら「ここからは医療と看護が優先ですね」と言われ、療法士は一歩引く。でも、本当にそうなんか?

私はむしろ逆だと思う。終末期こそ、リハビリテーションの優先度は高い。
なぜなら、リハビリテーションの本質は「治すこと」でも「歩かせること」でもなく、その人がその人らしく生きるための営みを支えることにあると思うから。

WHOはリハビリテーションを、健康状態と環境との相互作用の中で、機能を最適化し、障害を減らすための介入と定義している。さらに、日常生活でできるだけ自立し、意味のある役割に参加できるよう支えるものだとしている。つまりリハビリは、回復期だけのものではない。
食事や会話、寝る、起きる、座る、呼吸する、トイレに行く、家族と過ごす。そうした「生きる」を支える営みそのもの。

終末期医療もまた、本来は同じ方向を向いている。WHOは緩和ケアを、身体的・心理的・社会的・精神的な苦痛を和らげ、生活の質を高めるためのものと位置づけている。
厚労省の「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」でも、人生の最終段階は医師だけでなく多職種チームで支え、できる限り早期から苦痛緩和を図ることが重要だとされている。終末期を“何もしない時期”として扱う発想は、むしろガイドラインの考え方から外れてるわけ。

実際、近年の系統的レビューとメタ解析では、進行性・生命を脅かす病気をもつ成人に対する多職種の緩和的リハビリテーションは、QOLを有意に改善し、入院日数も減らしうることが示されている。2024年のレビューでは、27件のRCT、3,571人を対象に、緩和的リハが生活の質を小さいながらも有意に改善し、通常ケアよりコスト増なく標準的緩和ケアに組み込むべき。と結論づけている。これは「終末期にリハビリをしても意味がない」という感覚論への、かなり明確な反証である。

特に終末期で問われるのは、筋力や歩行距離ではない。
「最後まで自分でトイレに行きたい」
「ベッドではなく椅子で孫に会いたい」
「誤嚥を減らして、少しでも口から食べたい」
「苦しくない姿勢を知りたい」
「夫に介助されながらでも、家の風呂に入りたい」
こうした目標(ゴール)に対して、療法士ができることは本来かなり多い。
ポジショニング、呼吸を楽にする動作調整、移乗や移動方法の再設計、福祉用具の選定、食事姿勢の調整、介助方法の家族指導、活動量と休息の配分、本人の価値観を踏まえた目標設定。
どれも立派なリハビリテーションだ。

国立がん研究センターも、がんリハは診断直後から実施でき、緩和ケアの一環として身体的・心理的なつらさへの対処を目的に行われるとしている。
それでも終末期でリハが引いてしまうのは、制度の問題だけではない。
多くは、療法士側が「機能回復モデル」から抜け出せていないからだと思う。結局ここね。

改善が見えにくい。数値化しづらい。ゴール設定が難しい。
だから「もう看護でいいですよね」となる。
でもそれは、役割がないのではなく、考えることをやめているだけだ。

終末期のリハビリは、派手ではない。
歩行練習で距離を伸ばすことより、今日のしんどさの中で、どうすればこの人が少し楽に、少し自分らしく過ごせるかを考える仕事だ。
だからこそ難しい。
そして、だからこそ面白い。

医師には、終末期を「治療終了後の管理期間」としてではなく、生活の再設計が必要な時期として見てほしい。
看護師には、症状緩和と生活支援の延長線上に、リハ職の視点があることを知ってほしい。
ケアマネには、終末期ほど“サービスを減らす調整”ではなく、“本人の望みに近づける再編”が必要だと捉えてほしい。
そして療法士には、終末期でこそ専門性が問われることから逃げないでほしい。

リハビリテーションは、「治る人」のためだけにあるのではない。
最期まで、その人がその人であるためにある。
終末期こそ、リハビリテーションの真骨頂を発揮できると思ってる。

実は世間は、まだリハビリテーションの本質に触れていないのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!