諏訪大社へ「呼ばれた」ような気がした日
旅に出るとき、私はだいたい予定を立てます。
どこへ行くか。
何時ごろ着くか。
どこで食事をするか。
せっかくなら、行きたい場所には行きたい。
そんな私が、夏の長野への旅では、
途中で予定を大きく変えることになりました。
きっかけは、突然の雨。
そしてその雨が、
「時間があれば」と思っていた場所へ、
私を向かわせることになります。
八ヶ岳の自然の中で
旅の初日は、清里と野辺山へ。
八ヶ岳の自然を楽しみ、
その夜は森に囲まれた清里のペンションに泊まりました。
夕方、どこからか聞こえてきた、ひぐらしの声。
「あぁ……」
思わず声が出ます。
森の静けさの中に響く、
あの独特の鳴き声。
何か特別なことをしているわけでもないのに、
身体から余計な力が抜けていく。
翌朝、清里を出て、苔の森へ向かいました。
そこから白駒の池、
そして、もののけの森へ。
前日の八ヶ岳とは、
また違う自然が待っていました。
木々の間から差し込む光。
鳥の声。
湿った土や苔の匂い。
頬に触れる少し冷たい空気。
森を歩いているうちに、
「自然を見ている」という感覚が薄れていきます。
むしろ、
自然に包まれている。
第1回のnoteに書いた、
あの感覚です。
振り返れば、
この旅は最初からずっと自然の中にありました。
八ヶ岳を眺め、
高原を走り、
森を歩く。
このあと向かう予定だったのは、
車山高原と霧ヶ峰。
そして、時間があれば、
諏訪大社にも行ってみたい。
そんな旅程でした。
雨
白駒の森をあとにして、
昼食に信州そばを食べていたときのこと。
突然、
強い雨が降り始めます。
このあとは車山高原と霧ヶ峰。
窓の外を見る。
この雨では、
せっかくの景色も楽しめそうにない。
「さて、どうしようか」
しばらく雨を眺めていると、
ふと、ある考えが浮かびました。
「今日は、諏訪大社へ行く日なのかもしれない」
自分でも、
少し不思議な感覚でした。
「代わりに」ではなかった
諏訪大社は、
もともと行ってみたかった場所です。
だから事実だけを並べれば、
雨が降った。
車山と霧ヶ峰へ行くのをやめた。
代わりに諏訪大社へ行った。
それだけの話にも見えます。
でも、自分の中では少し違う。
「雨だから、諏訪大社にしておこう」
ではなかったのです。
それまで、
「時間があれば行きたい」
だった場所が、
「今日、行きたい」
に変わった。
理由は、
今でもうまく説明できません。
頭の中で、
行く理由と行かない理由を並べて決めたわけでもない。
ただ、
「諏訪へ行こう」
そう思った。
気持ちの方が、
頭より少し先に答えを出したような感覚でした。
「呼ばれた」のだろうか
神社やお寺について、
ときどき「呼ばれる」という表現を耳にします。
私もあの日、
ほんの少し、そんなことを思いました。
でも、
「諏訪大社に呼ばれた」
と断言するつもりはありません。
本当にそうだったのか、
確かめる方法なんてないからです。
たまたま雨が降った。
もともと行きたかった。
予定を変更した。
それもまた事実。
一方で、
理由より先に
「行きたい」と感じた自分がいたことも事実です。
若い頃の私は、
こういう曖昧な感覚を、
あまり信用しなかったように思います。
理由は何か。
根拠はあるか。
どちらが合理的か。
仕事では、
今でももちろん大切にしています。
でも人生のすべてを、
仕事と同じように決めなくてもいい。
50代になって、
ようやくそんなことを思うようになりました。
諏訪大社に立つ
車を諏訪へ走らせ、
まず向かったのは上社本宮。
そのときの私は、
諏訪大社の歴史や信仰について、
詳しく知っていたわけではありません。
境内を歩き、
手を合わせる。
白駒の森で感じた、
「自然に包まれる」という感覚とは違いました。
森には、
森の静けさがある。
ここには、
また別の静けさがある。
うまく説明できません。
ただ、
長い時間、人々が大切にしてきた場所に、
自分も今立っている。
そんなことを思いました。
これまで、
どれほど多くの人がここへ来たのだろう。
何かを願った人。
感謝を伝えた人。
人生に迷いながら、
手を合わせた人もいたかもしれない。
その一人ひとりについて、
私は何も知りません。
それでも、
人が長い間ここへ足を運び、
手を合わせ続けてきたという事実には、
何か心を動かされるものがあります。
その後、下社秋宮へ。
同じ諏訪大社なのに、
上社とはまた違った空気。
そして私は、
「諏訪って、いったいどんな場所なんだろう」
と、もっと知りたくなりました。
旅のあとで知った「自然信仰」
諏訪について調べ始めたのは、
旅から帰ってからです。
そこで、
あらためて興味を持ったのが「自然信仰」でした。
山。
木。
石。
水。
人は古くから、
自然の中に自分たちを超えたものを感じ、
畏れ、敬い、祈ってきた。
それを知ったとき、
旅の中でバラバラに感じていたものが、
少しずつつながっていきました。
清里の森。
夕方のひぐらし。
八ヶ岳。
白駒の池。
苔の森。
もののけの森。
そして、諏訪。
もちろん、
「自然信仰について考える旅にしよう」
などと思って出かけたわけではありません。
ただ遊びに行っただけです(笑)。
それなのに振り返ってみると、
二日間、私はずっと自然に心を動かされていました。
美しいから、だけではありません。
自分よりはるかに大きなもの。
自分が生まれるずっと前からあり、
自分がいなくなったあとも、
おそらくそこにあり続けるもの。
そんなものの前に立つと、
普段、自分の頭の中を占領していることが、
少しだけ小さくなる。
それが、
私には心地いいのかもしれません。
神様は、どこにいるのだろう
諏訪について知るうちに、
そんなことも考えるようになりました。
答えは分かりません。
そもそも、
答えを出す必要もないのでしょう。
山を見て、
言葉を失う。
大きな木の前に立つと、
なぜか見上げてしまう。
森の中で風を感じると、
心が静かになる。
ひぐらしの声に、
思わず「あぁ……」と声が出る。
そういう瞬間に生まれる、
畏れや、
感謝や、
自分より大きなものへの感覚。
昔の人も、
同じようなものを感じていたのだろうか。
そう考えると、
自然信仰という言葉が、
少し身近なものに思えてきました。
本来の自分に還る
この旅を振り返る中で、
一つ、心に残った言葉があります。
「人は、本来の自分に還ったとき、一番自然に輝ける。」
では、
「本来の自分」とは何なのか。
特別な自分になることでも、
若かった頃の自分に戻ることでもない。
自分は何が好きなのか。
何を心地いいと思うのか。
何に心が動くのか。
誰を大切にしたいのか。
これから、
どんなふうに生きたいのか。
案外、
そんなシンプルなことなのだと思います。
大人になると、
その上にいろいろなものが重なります。
仕事。
立場。
責任。
周囲からの期待。
人からどう見られるか。
どれも無視して生きることはできません。
でも、ときどき全部を横に置いて、
「自分は、本当はどう感じているんだろう」
と自分に聞いてみる。
私にとって、
自然の中にいる時間は、
そんな時間でもあります。
自分の感覚を、少し信じてみる
もし、あの日、
雨が降らなかったら。
私は予定通り、
車山高原と霧ヶ峰へ向かっていたでしょう。
そして、
「きれいだったな」
と思いながら帰っていたかもしれません。
それも、
きっといい旅です。
だから、
「あの雨には意味があった」
とは言いません。
意味があったのかどうかは、
確認できないからです。
ただ、
雨が降った。
窓の外を見た。
「諏訪へ行こう」
と思った。
そして、その感覚を無視しなかった。
これは確かです。
人生には、
考えて決めなければならないことが、
たくさんあります。
でも、ときには、
理由をうまく説明できなくても、
「こっちへ行ってみたい」
という自分の声に従ってみる。
それも、
悪くない。
あの日の雨に
諏訪大社に、
本当に呼ばれたのか。
今でも分かりません。
偶然だったのかもしれない。
自分の直感だったのかもしれない。
あるいは、
何かに導かれたように感じただけなのかもしれない。
どれでもいいと思っています。
大切なのは、
自分の中に生まれた小さな感覚を、
あの日、無視しなかったこと。
その先に、
諏訪がありました。
そして旅から帰ったあとも、
自然信仰について調べ、
自分はなぜ自然に惹かれるのだろうと考え、
「本来の自分に還る」ということまで、
思いを巡らせるようになった。
もし、
あの雨が降らなければ、
こんなことを考えることもなかったかもしれません。
人生には、
予定通りにいかなかったことで、
初めて出会えるものがあります。
場所かもしれない。
人かもしれない。
新しい考え方かもしれない。
あるいは、
それまで気づかなかった
自分自身なのかもしれない。
諏訪大社へ行ったあの日、
私が何に「呼ばれた」のかは、
今も分かりません。
ただ、
あの日の雨には、
今でも少しだけ、
「ありがとう」
と言いたい気持ちがあります。
