名古屋の家・茶の間に灯った小さな音
音楽は好きだったのに、
ハーモニカだけはどうしても音が出なかった。
教室のざわめきの中で、
私の手の中の銀色だけが、
ひんやりと沈んでいた。
みんなは軽やかに吹いているのに、
私だけ変な音がして、
胸の奥がきゅっと縮んだ。
そのときの小さな私を、
今の私は、少し離れた場所から静かに見ている。
あの子はただ、やり方を知らなかっただけだ。

茶の間の畳は、夕方の光を吸い込んで、
ほんのりと温かかった。
ちゃぶ台の上には湯呑みが置きっぱなしで、
その横に、私のハーモニカが転がっていた。
息を吹き込むたびに、
ひゅう、と情けない音がして胸がざわついた。
何度やっても同じで、
畳に座った小さな私は、
だんだん息の仕方さえわからなくなっていった。
ふう、と大きく吐いたとき、
ハーモニカの端がかすかに震えた。
あれ? もう一度、今度は吸ってみる。
すると、 さっきとは違う、小さな音が鳴った。
吐くと、別の音。
吸うと、また違う音。
その瞬間、
茶の間の空気がふっと明るくなったように感じた。
「そうか。 ここは吸う、ここは吐く。 そういうことなんだ。」
小さな私は、
世界の秘密をひとつ見つけたみたいに、
何度も何度も、 吸っては吐き、
吐いては吸い、 音の並びを確かめていった。
次の授業の日、
教室の空気はいつもより少しだけ重かった。
みんなの前に立つと、
胸の奥がどくどくと脈打って、
手の中のハーモニカが汗で少し滑った。
先生が「じゃあ、もう一度やってみようか」
と言った瞬間、
教室のざわめきがすっと遠のいた。
茶の間で気づいた“吸う
・吐く”の並びを、 心の中でそっとなぞる。
息を吸う。 小さな音が鳴る。
息を吐く。 さっきよりもはっきりした音が返ってくる。
音がつながった。
旋律になった。
先生の顔が驚きから笑顔に変わり、
クラスの子たちが「おおー」と声をあげた。
私はただ、
自分の胸の奥がふわっと軽くなるのを感じていた。
あの日の小さな私は、
ただ必死に、
目の前の小さな銀色と向き合っていただけだった。
できないことが恥ずかしくて、
胸がぎゅっと縮んで、
世界が少しだけ暗く見えていた。
けれど、 仕組みを知った瞬間に音が鳴り、
音がつながった瞬間に世界が明るくなった。
今の私は、その光の変化を静かに思い出す。
あの子は、できなかったんじゃない。
ただ、やり方を知らなかっただけ。
そして、 やり方さえわかれば、
小さな手でも扉を開けられるということを、
あの日の茶の間で知った。
その気づきは、 今の私の生き方のどこかに、
ずっと静かに灯り続けている。
