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「治ることはない」と言われた日を振り返る


あの日のことは、今でもよく覚えています。
診察室の椅子の冷たさや、窓の外のありふれた景色。
先生の話は続いているのに、私の頭の中には
「治ることはない」
という言葉だけが、ぽつんと残りました。
病気の説明も、これからどうなっていくかも、たしかに聞いていたはずです。
でもそのときの私は、わかろうとしているようで、何ひとつちゃんと受け止められていなかったのだと思います。

治らない。
元には戻らない。
もう治すために頑張る時間ではなく、これからは苦痛を減らしながら、穏やかに過ごすための時間に入っていくのだと感じました。
静かに告げられたその言葉が、あとからじわじわと、麻酔が切れるときのように効いてくる感覚でした。

涙は出てきませんでした。
むしろ、妙に静かでした。
でも本当にしんどかったのは、そのあとだったように思います。

家に帰っても、景色は昨日と同じでした。
ごはんを作って、洗濯をして、いつものことをする。
なのに、自分の中だけが昨日までと決定的に違ってしまったようでした。

介護をしていると、体のしんどさもあれば、毎日の忙しさもあります。
でも心にいちばん重く残るのは、こういうふうに、言葉で「現実」を突きつけられる瞬間なのかもしれません。

どれだけ頑張っても、治るわけではない。
この先に「よくなりました」が待っているわけでもない。
ただ、悪くならないようにというより、少しでも苦痛が少なく、少しでも穏やかに過ごせるようにと願いながら支えていく。
それは、ゴールのない、それどころか折り返し地点すらわからないマラソンのようでした。
走っても走っても、どこに着けばいいのかわからない。
でも止まるのは怖い。
止まったら、もっと苦しくなるかもしれない。
そんな気持ちで、ただ前を向こうとしていた気がします。

頑張っているのに、報われないように感じる苦しさ

あの頃の私は、何を支えに頑張ればいいのか、わからなくなることがありました。
訪問医の先生に来ていただきながら、薬のことも、日々のケアのことも、そのときどきでできることはやっている。
少しでも苦しくないように、少しでも穏やかに過ごせるように、そればかり考えている。
でも、それで目に見えて良くなるわけではありませんでした。
むしろ少しずつ、できないことが増えていく。
望んでいないほうへ、現実だけが静かに進んでいく。
それが本当にこたえました。
こんなに頑張っているのに。
こんなに気を張っているのに。
それでも「良くなった」と思える日は来ない。

昨日と同じように過ごせただけでも、本当はすごいことなのに、その頃の私はそれを「よかった」と思う余裕がありませんでした。

病気が治るという、わかりやすい希望があれば、人はまだ踏ん張れるのだと思います。
でも終末介護の時間の中には、その“わかりやすい希望”が持てない場面があります。
悲しいとも少し違う。
絶望とも少し違う。
ただ、足元がすっと抜けるような、不安定な気持ちでした。

私の中で、少しずつ変わっていったこと

そんな中で、急に前向きになれたわけではありません。
今でも、きれいに整理できているとは言えません。
それでも、少しずつ、自分の中で見方が変わっていったように思います。

ひとつは、
「回復」ではなく「穏やかに過ごせた一日」を大切に見ることでした。
前はやっぱり、どこかで元に戻ってほしいと思っていました。
少しでも良くなってほしい。
少しでも持ち直してほしい。
そう願うのは、自然なことだったと思います。

でも、そのたびに現実に打ちのめされるのなら、自分の見る場所を変えるしかありませんでした。
今日は大きく崩れなかった。
今日は穏やかに過ごせた。
ちゃんと食べられた。
眠れた。
表情がやわらいだ。
少し笑った。
そういうことを、
「何も起きなかった日」
ではなく、
「守れた一日」
として見るようになっていきました。

それだけで、少し呼吸がしやすくなりました。
もうひとつは、希望を遠い先ではなく、今日の中に置くことでした。
この先どうなるのか。
どこまで状態が落ちていくのか。
先のことばかり見ていると、どうしても心が暗い方へ吸い込まれていきます。

でも、今日ちゃんと会話ができた。
少し笑った。
気持ちよさそうに眠っていた。
苦しそうな時間が短かった。
それだけでも、本当は大切なことなのだと思うようになりました。

希望って、大きな変化の中にしかないと思っていたけれど、ほんとうは今日の中に、小さくいくつもあるのかもしれない。
そう思えるようになってから、気持ちの置き場が少し変わりました。

そしてもうひとつ大きかったのは、
「受け入れること」と「諦めること」は、同じじゃないと思えるようになったことです。
受け入れる、という言葉は、最初は突き放されたようで苦手でした。

でも実際はそうではなくて、現実に無理やり逆らい続けるのをやめて、その中で「今、何ができるか」を見ること。
治らないから終わり、ではなく、治らない現実の中でも、苦痛を減らし、穏やかさや安心を少しでも増やすことはできる。
そう考えることは、諦めではなく、自分の気持ちを守るために必要な、前向きな覚悟だったのだと思います。

心の余白は、精神論だけでは生まれない

ただ、こういう見方は、気持ちだけでできるものでもありませんでした。
余裕がなくなると、人はどうしても目の前のことでいっぱいになります。
「今日を守れた」と思えるためには、介護する側にも少しの余白が必要です。

その余白って、精神論だけでは生まれないんですよね。
体のしんどさ、時間のなさ、お金の不安。
そういう現実が重なっていると、心だけ整えようとしても無理があります。
だから私は、一人で抱え込まずに、制度や外の力に頼ることも大事なんだと思うようになりました。
たとえば、毎月の負担を少し軽くできる仕組みを整えること。
お金のことを整えるのは、介護を続ける土台を守ることです。
現実の負担が少し軽くなるだけで、心の息苦しさもほんの少し変わることがある。
それはきれいごとではなく、実際とても大切なことだと思います。

今日と向き合っているだけで、もう十分

終わりの見えない現実の中にいると、気持ちが保てなくなる日があります。
投げ出したくなることもあるし、何のために頑張っているのかわからなくなることもある。

でもそれは、弱いからでも、愛情が足りないからでもない。
すごく自然なことです。
私も、いつもちゃんとしていたわけではありません。
今でも揺れるし、これでよかったのかなと思う日もあります。
でも、大きなゴールや劇的な変化ばかりを求めなくてもいいのかもしれません。
遠くの希望だけを見ようとすると、今の苦しさに心がついていかなくなる。

それより、今日をなんとか過ごした。
今日も向き合った。
そういう一日を、もっと大事にしてもいいのだと思います。

「治ることはない」と言われたあの日、私の中でたしかに何かが変わりました。
でも、それは絶望だけではなかったのだと思います。
大きな希望を持ちにくくなった代わりに、今日の中にある小さな光を見るようになったこと。

その変化は、苦しさの中で、あとから少しずつ身についていったものだった気がします。
あの日の私に、そして今、かつての私と同じように立ち尽くしている人に伝えたいです。

ちゃんと受け止められなくてもいい。
前向きになれなくてもいい。
今日と向き合っているだけで、あなたはもう十分すぎるほど頑張っています。

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