番外編【創作】ⅩⅥ
この物語はフィクションです
久しぶりにちょっとイタズラしてみました
よかったら、読んでやってください
女は怖いですよ
皆様、くれぐれもご用心なされませ
あ
そう言えば先一昨日は、満月でしたね
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【時守り】
前を歩いていた娘が足を止め、辰巳を振り返る。細い腕を上げて前を示した。
「あの道を入って登っていくと、淵があるの」
「そこに、苔が生えているんだね」
娘は辰巳を見上げた。
「本当に約束、守ってくれるね」
「もちろん。言ったろ。必ずハギノさんを迎えに来るよ」
ハギノは辰巳の顔をじっと見つめたあと、小さく頷いて、再び歩き出した。
辰巳は、傾きかけた午後の光の中でさえ、むせ返るような圧倒的な山の緑の中を身軽く歩いていく、その華奢な後ろ姿を眺めた。
草木染めの着物を丈短く着て細い帯を締め、裂いた麻布を編んだ草履を履いている。
最初、見たときは、いったいいつの時代なんだと驚いたが、この時間の止まった村ではごく普通に見られる普段着兼仕事着だ。
ハギノの言うとおり、山道をしばらく登ったところに淵はあった。
岸辺ぎりぎりまで満ちている澄んだ水に夕方の日差しが光の筋になって斜めに射し込み、どれだけ深いのか、底は全く窺えない。
水面にはあるかなきかの風に細波がたち、淵の岸にびっしりと生えたビロードのような苔を濡らしていた。
辰巳は急いでかがみ込み、いつも持ち歩いている小さな植物採集用のナイフを取り出して慎重に苔を採取し、数個の小瓶に入れた。
これだけあれば、詳しい分析ができるだろう。
この苔は村の固有種で、薬学的に注目されるようになったのはここ最近のことだ。
辰巳は苔の成分を使った新薬開発のチーム に所属している研究者で、調査のためにしばらく前からこの村に滞在していた。
苔が多く生息している淵の周辺は聖地とされており、余所者はもちろん、村人たちさえもむやみに近づくことは許されない。そもそも、どこにあるのかも、部外者にはわからなかった。
ハギノは、代々巫女を出す村の旧家の娘だった。今日は苔の生息地に案内してくれるように、辰巳が無理を言って頼み込んだのだ。
ハギノとは森で調査中に出会い、その後、2人で会うようになった。
どうやら、ハギノは、自分に好意を抱いたらしい。異性への免疫など皆無の彼女にとって、都会から来た男は眩しく見えたのだろう。
だから、それを利用した。多少、良心は痛んだが、仕方ないと自分に言い聞かせる。
俺は、この研究を成功させなければならない。この研究が上手くいけば、フェローとして研究室に残れるはずなのだ。
その代わり、街へ帰った後、ハギノを迎えに戻って来る、街で一緒に暮らそう、と約束した。もちろん、そんな約束を守るつもりはない。
ハギノは確かに可憐で美しい。だがしかし、それは時代から忘れ去られたこの村においてこそ。人工の光溢れる街では、ハギノの魅力は野の花が萎れるように色褪せてしまうのは、わかりきったことだった。ハギノだって、そんな淡い憧れはいつか薄れてしまうに違いない。
いつのまにか、ハギノが後ろに立っていた。
「この淵にはどこからか、ずっと水が流れ込んでいるのだけど、流れ出す川はないの」
ハギノは淵の向こうを指差した。
「あそこに堰があって、水門を開けると淵の水は下の谷に流れるようになっていて」
ハギノはふと言葉を切った。
「月が二千の満ち欠けを繰り返すあいだ、水は流れ込み続ける。二千たび目の満月の夜に水門を開けて淵に満ちた水を谷に落とすの。それが巫女の務め。私たち巫女の家の女は、自分の代で水門を開けることがなくても、その務めをずっとずっと伝えてきた」
二千回の月の満ち欠けというと、およそ160年あまりということだろうか。この淵は160年余の時を刻む巨大な水時計で、ハギノたちはさしづめ、その守り人、というわけか。
「水門を開けなかったら、どうなる?」
「わからない。けど、堰が決壊して、この辺り一帯は水没するって聞いた。たぶん、村は消失するんじゃないかな」
ハギノは薄暗くなった空を見上げた。夕闇の中、白い横顔が美しい。なぜだか、辰巳の背筋が寒くなる。
「いいことを教えてあげるね。今夜は満月。前に水門が開けられてから数えて二千回目の」
辰巳は、横目で淵の岸を見た。心なしか、急に水かさが増してきたように見える。
「水門を開けるのか」
「いいえ」
ハギノはどこか楽しげに答えた。辰巳をじっと見つめている。
「なぜ。何を考えている。村が洪水になるんじゃないのか。はやくしないと」
声がかすれた。
「村が沈んだら、あなたは帰れない。ここにずっといてくれるでしょう? 私と一緒に」
息をのんで後ずさる辰巳に微笑みかけ、ハギノは歌うようにささやく。
「迎えにくるなんて、嘘。ここを出たら、あなたは2度と帰ってこない」
最後まで聞かずに、後ろを向いて走り出そうとした辰巳は腰のあたりに鋭い痛みを感じてよろめいた。片膝をつく。見ると脇腹に、さっき苔の採集に使ったナイフが刺さっていた。
「私たち、巫女の家の女は、淵と月が刻む時の流れに何千年も何百年も、ずっと縛られてきた。もうたくさん」
そう告げる声は怖いほど落ち着いていた。辰巳はハギノを見上げた。身体が、小刻みに震える。
だらりと下げた両手を血で染めた娘の肩の上に、大きな満月がかかる。
溢れた淵の水が、辰巳の足元を濡らし始めていた。
(了)
