【ネタバレあり】「映画 ちいかわ 人魚の島のひみつ」に学ぶ、正しい戦争の終わらせ方
「……これで正しいんだよね……?」
ハチワレの言うこの言葉。これがこの映画のすべてだ。
【映画全体のファーストインプレッション】
映画化、ドラマ化、実写化のたびにわく原作厨。
いや、めちゃくちゃ気持ちが分かる。
原作こそ至高だ、そんなことが言いたい訳じゃない。
ただ、原作は大体漫画か小説。読み手の想像力の余地が大きい。それが映像化されることで、自分の中で出来上がった作品像とどうしてもズレてしまう。
新しいエピソードや解釈もそう。追加したり変更を加えることが悪いと言う訳ではない。自分の中の作品像、世界観とマッチするかどうか、それが問題だ。
そして、たくさんの人が独自に、勝手に作り上げた自分の作品像や世界観すべてとマッチする作品なんてなかなか作れない。
それが、映像化のたびに原作厨がわく理由だ。
さて、本作はどうか。恐ろしいまでに原作をトレースしている。
もう少し独自解釈があってもよかったんじゃ……原作厨がふとそんなことを思ってしまう程に原作のまま、綺麗に映像化されている。
そもそも原作漫画でもセイレーン編は異例の長編だった。漫画では、8巻が丸ごとセイレーン編になっている。この作品、おそらく元から映画化を見込んで創られたお話だったんじゃないだろうか。
だからこそ、映像化にあたって変更すべき点、映像化困難な点も元からほとんどなく、原作をここまで綺麗にトレースできたのではないかと思う。
X投稿の漫画、それが書籍化された漫画本、毎朝流されるショートアニメ。ちいかわはゆっくりと世界観の具体化が行われてきた。だから、多くの人の作品像や世界観を合わせることに成功している。
【ちいかわのテーマ】努力が実るとは限らない世界で努力し続ける
ちいかわは可愛いキャラクターとは裏腹にお話自体は結構ダークなものが多い。ちいかわたちは鎧さんなるおじさんたちが管理する世界で生きている。でかつよと呼ばれる化け物が跋扈する世界で、正直ちいかわたちでは歯が立たず襲われ、逃げまどっている。
しかし、この世界には鎧さんが管理する職安があり、そこで配られる仕事に化け物を討伐する仕事があるのだ。失敗すれば食べられる。そんな恐ろしい仕事。
簡単そうな仕事もある。草むしりやシール貼りだ。すごく難しいそうだが、ラーメン屋のバイトの仕事もある。
管理された世界で、なにをするにも資格が必要だ。仕事の資格のランクを上げていけば給料が増える。お酒を飲むのにも資格がいる。
ほとんど日雇いのような生活で、宵越しの金は持たないのが粋なようだ。なにか欲しいものがあると、すぐ「働けばいいよね。」と言う。貯金なんて概念はないのだろうか。
いや、ハチワレは貯金していたことがある。カメラを買う時だ。だが、それにしても家が洞窟なのは不思議だ。カメラなんか買う前に家を確保した方がいいと思うのだが。
この作品、みな気ままに生きているように見える。小さくて可愛い生き物が気ままに暮らす。一見それが作品の魅力に見える。
しかし、実際は違う。彼らは明日食べられるかもしれない過酷な環境で、一日一日を生きている。貯金などするはずがない。明日、元気に生きているかは分からないのだから。
それでも懸命に働き、学び、遊んでいる。いつ不条理が襲ってくるか分からない中で、その努力が実を結ぶか分からなくても、それでも懸命に生きるしかないから。
【本作のテーマ】争いはなぜ起こるのか
さて、次は本作に絞って考えてみよう。
本作はセイレーンと島の住民の戦争だ。住民は自分たちだけでは戦えないので傭兵を雇う。それがちいかわたち。
戦争のきっかけ、それはセイレーンが知らずにフタバを殺してしまったことだ。そして、ヒトハはフタバを生き返らせるために、セイレーンの仲間の人魚を殺して肉を食べさせる。セイレーンは仲間の人魚が殺されたと騒ぎ、犯人捜しを始める。犯人捜しの中で島民が何人も食べられる。島民たちはついに傭兵を雇い、セイレーン討伐を決意する。憎しみの連鎖。
この戦争がどうやって終結したか。
セイレーンが犯人を見つけ、犯人に制裁を加えた。本作終幕後、そうやって島はやっと平和になったのだろう。
しかし、報復したからと言って、失われた人魚の命が戻る訳ではない。
島民たちにしても同じだ。襲われなくなって一安心はするものの、食べられた島民たちは帰ってこない。
セイレーンも島民たちも恨み続ける。
そして、永遠の命を持ってしまったがために、永遠を暗い牢獄の中で過ごさざるを得なくなったヒトハとフタバも恨み続ける。
一件の事故が生んだ恨みは永遠に全員の心の中に残り続ける。
この時、ちいかわたちはどういう立ち位置として存在しているのだろうか。
島民たちから見れば、ちいかわたちは傭兵だ。屋台のご飯も食べたし、味方をしてもらわないと困る。
一方、ちいかわたちから見れば、元々約束していた報酬百倍は反故にされ、討伐だけ請け負う義理はない。焼きそば程度で賄える危険度ではない。
しかし、ちいかわたちは島民の味方をする。
「……これで正しいんだよね……?」と疑問を抱きながら。
それでも、明確に反対はしない。実は島民の中に犯人がいる、そいつが悪いんだ。そう糾弾することもできたのに、しなかった。
それはなぜか。
同じ、ちいかわ族だからだ。
セイレーンは、対話できようとも、どこまでいってもでかつよ族なのだ。
正しいか間違っているかが、どちらに味方をするかを決めるのではない。
どちらが仲間かが、どちらに味方をするかを決める。
なんとなく、仲間たる島民に悪いやつが紛れていることは分かっている。それでも仲間だから守る。
……だから争いは終わらない。
本作は図らずも、正しい戦争の終わらせ方を提示している。
仲間であろうとも悪いことをしたやつは罰する。敵に差し出す。
作品の中では、ヒトハとフタバが自主的に島を出ていった。だが、もし島に残っていたら?おそらくセイレーンは島をまた襲っただろう。その時は、ヒトハとフタバをめがけて。
そして、島民たちはヒトハとフタバの味方をし、犠牲者を出しただろう。そして、憎しみの連鎖がまた一回り円柱を登り、憎しみを深くする。
本作ではヒトハとフタバが逃げ出したことによって、意図せずセイレーンに差し出す形になった。
恨みの気持ちは残れども、戦争自体は終わった。
仲間ではないとしても、人魚を食べたことは悪い。その犯人をセイレーンに差し出すことには正しさがある。
一方で、もしヒトハとフタバが犯人だと判明したとして、それでも守る正しさもある。
この2つの正しさ。どう解決すればいいのだろうか。
結局のところ、最後は力の論理と組織防衛で決めるしかない。
島民たちが傭兵を雇ったのは戦略的には正しい。島民にもし犯人がいたとして、それが外部であるセイレーンに罰せられるのは望ましいことではない。セイレーンは討伐し、組織内(島内)秩序が乱れそうであれば、あくまで島内でヒトハとフタバを裁く。
しかし、セイレーンを討伐する力がなければ、そもそもこの選択肢は存在しない。放っておけば、島が全滅させられてしまうかもしれない。
その時は、仲間を切って、セイレーンに差し出さなければならない。それでセイレーンの怒りが収まれば、組織は防衛される。
矛盾した正しさの中で、冷徹にそれぞれの能力を見極め、自分が選択可能なカードを把握する。そして、最も効果が高そうなカードを切っていく。
島民たちは、ちいかわたちが歯が立たなかった時点で戦略を変えるべきだった。犯人捜しの方向に舵を切るべきだった。
それが組織を守るということなのだ。
その辛さ、冷たさがこの映画の最後のシーン、ヒトハとフタバがいる島にセイレーンが向かうシーンに込められた残酷さだったのである。

