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古びない日本語論 三浦つとむ『日本語はどういう言語か』

三浦つとむ『日本語はどういう言語か』は、1976年に講談社学術文庫として出版された。50年近く前の日本語の本と聞くと、なんだか情報として古いと考える人もいるかもしれない。しかし、この本は、時間が経っても内容に古びたところがない。それどころか、最近の言語学である認知言語学に近い立場で、示唆的な多くのアイデアを提供してくれる。

認知言語学は1960年代後半に生まれた、比較的新しい学問である。認知とは「人間の心の仕組み」という程度の意味であり、言語能力を明らかにするには人間の心の仕組みを考慮しなければならないとする立場をとる※1。こうした発想がそもそもなかったことを不思議に思うかもしれない。しかし、西洋においてはフェルディナン・ド・ソシュールに始まる構造主義言語学、その発展としての機能主義的な研究が行われてきたという背景があったため、こうした人間の心の仕組みと言語の関係を扱う研究は主流にならなかった。

一方、日本ではソシュールとは異なった立場の言語観が、国語学者の時枝誠記より主張されていた。それが言語過程説である。言語過程説では、言語の本質は、対象→認識→表現という過程構造にあると考える。これ以前の言語観は、「言語道具説」と呼ばれ、言語を材料にして、材料を文法に当てはめることで、言語を思想を伝達する道具として捉える考え方であった。三浦は、言語道具説では、具体的な個人が対象を認識し、表現するプロセスが理論的に切り捨てられてしまうため、言語過程説をアップデートした考え方を採用している。

これは、認知言語学がノーム・チョムスキーの生成文法への批判から生まれてきた事情とよく似ている。生成文法とは、平たく言えば、ことばの創造性を関数の入出力として捉え、辞書的な単語をその関数を通して組み合わせることで、無限数の文章ができあがるという考え方である。しかし、この考え方は、個々人の認識と表現の選択の関係が扱えなくなってしまう。例えば、メタファーやメトニミーといった比喩表現がなぜ使われるのか、あるいは受身表現がなぜ使われるのか、といった問題が扱えなくなってしまう。これらを問題視して発展してきたのが認知言語学である。けれども、本書はこうした問題意識をパラレルに、そしてずっと以前から意識していたことになる。だからこそ、認知言語学の研究にはない角度からの指摘があり、非常に興味深い。

たとえば、本書の面白い指摘に、「観念的な分裂」というものがある。例を挙げると、母親が子どもに対して「お母さんはお使いにでかけますね」と言ったとする。なぜこのような言い方が成立するのかというと、母親である話し手が子どもの立場に身を置き、子供の気持ちが追体験的に事態を理解できるようにしようとしたためである。このように、話し手の立場を認識しつつ、しかし聞き手の立場にも立つこともできることを三浦は「観念的な分裂」と呼んだ。一見、当たり前のことのように思える。しかし、認知言語学以前の言語学ではこうした問題を扱うことができなかったのであり、しかもそれよりも前に、ある種の哲学のことばでこうしたテーマを扱ったことは貴重なことである。

また、こうした考え方は文学の読み方に応用されており、小森陽一『構造としての語り』で二葉亭四迷『浮雲』の読解で引用されていたり、本書の解説を書いている吉本隆明は、『言語にとって美とはなにか?』を書いた際、本書から大きな示唆を受けたと述べている。文学作品を読むときのヒントにもなるだろう。

本書は確かに50年近く前の本である。しかし、その内容は深い洞察によって、これからも多くの人に示唆を与えるものになっている。

※1 認知言語学の説明については、『言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学』(野矢 茂樹 、西村 義樹 中公新書)を参照した。

 

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