【シロクマ文芸部】地下都市と波の音
波の音が聞こえたら逃げろ。大人たちはそう言っていた。波の音なんか聞こえるわけがない。なんせここは旧首都市街、つまり死んだ地下都市だ。
少年は門限を破り、少年寮を脱走して波の音を探しに行った。
政府はこの死んだ地下都市を復旧させたがっている。しかし資源も人員も限られている昨今、旧首都復旧案は避けられてきた。よって囚人たちを労働力に充てて地下労働させているのだ。
どのみち地下都市を放置していていれば犯罪組織の隠れ家に使われる。それなら囚人たちを使おうかと政府は判断した。
少年は大人たちの目を盗んで中央通りへ駆けていく。仮設電灯の薄明かりが都市の輪郭をぼんやりと浮き上がらせる。自分の足音だけが都市の抜け殻にこだまする。
ザザァー…。
何かが聞こえた。旧都庁の方からだ。乾いた何かが擦れる音、息を吸ったり吐いたりするように、寄せては返すような音のリズムがある。
ザザァー…ザザァー…。
音が大きくなる。この地下都市に波の音…。少年は身震いした。現実ではない何かが迫っている。
ザザァー…ザザァー…。
遠くに、何かが蠢いている。無数の小さな蟹の塊だ。
急に足が沈んだ。気が付けば砂の上に立っていた。先ほどまでコンクリートとアスファルトの地下都市にいたはずだ。地面は砂で満ち、空気に潮の香りが混じる。
ザザァー…ザザァー…。
波の音が聞こえたら逃げろ。大人たちの言葉が自分の声で頭の中に響く。体は既に逃げようとした。だが少年は歯を食いしばって向き直り、震える足を叩いて前を向いた。
ザザァー…ザザァー…。
波が息をするごとに浜辺の景色が濃くなる。少年は歩を進めた。アスファルトはすっかり湿った砂に置き換わり、小さな貝殻や滑らかな流木も現れ始める。
閉ざされた鉄の空に、あるはずのない満月が浮かぶ。
「来たぞ!妹を返せ!」
少年は波に向かって叫んだ。
靴を波が撫でた。冷たい水が靴に染み、引く波が足元の砂を奪う。波の音は全方位を包んでいた。
ザザァー…。
少年は目を奪われた。水面に妹が立っている。
妹の名を呼びながら駆け寄る。服が濡れるのも構わず、少年は足がつかない深さまで及びながら妹の傍へ、ついに泳ぎながら到達した。
『よく来た、少年』
虚ろな瞳の妹が言った。妹の声だが、声の主は妹ではない。
「約束だぞ!妹を返せ!」
『妹に会わせてやると約束した。返してやるのは次の約束の後だ』
「汚いぞ!ふざけるな!」
妹の体を借りる何かは、足元の少年を見下ろしながら言った。
『政府の監督官の拠点があるだろう?そこに、これを持っていけ』
少年は小さな木箱を受け取った。禍々しい呪布で固められている。
『この地は我々の神域。ゆえに人間を再び退けさせる。その箱があれば人の魂を波で攫える。なるべく多くの政府の人間を巻き込むのだ少年』
「先に妹を返せ」
『このまま溺れさせても良いなら返そう』
「…っ!」
少年は箱をポケットに入れた。
『それでいい。では朗報を待つ』
*
目が覚めると、少年寮の自室にいた。この地下都市に太陽は無く、ゆえに体内時計は狂ってしまう。そのため毎朝、地上の日の出に合わせて点灯する。
朝礼に遅れてしまう。少年はベッドから出た。そのときポケットから何かが落ちた。禍々しい呪布で密閉された小さな箱だ。
ザザァー…。
幻聴めいた波の音が思い出すように聞こえ、少年は胃の底に重い物を感じた。
少年は身支度をして、政府から派遣された司令官の元へ向かう。
「あの、司令官。それからお役人の皆さんに重要な話が…」
