自由に生きたいのに、他人の目を気にしてた俺
俺はこれまで、人と違う行動や選択をしてきた。
海外にも行ったし、一般就職もしていない。
「自由に生きてるよね」とよく言われる。
実際、自分でもそう思っていた。
でも最近、ふと気づいた。
「他人の目は気にしてないつもり」だっただけで、
無意識には、けっこう影響を受けてたかもしれない。
【完璧であることが、いつの間にか俺の美学になってた】
俺は小1から大学までずっと野球をやってきた。
その中で染みついてきたのが、
**「努力は見せずに、人一倍やって、結果で語る」**というスタイルだった。
これは俺の中での美学だったし、かっこよさでもあった。
今でもそれは、自分にとって誇れる価値観のひとつだと思ってる。
でも最近ふと気づいた。
俺は“人の目を気にしてないつもり”だっただけで、実はけっこう気にしてた。
歳を重ねるにつれて、
人それぞれ選ぶ道がどんどん違っていく。
正社員になる人、海外に行く人、起業する人、結婚する人。
誰かと同じ道なんて、もうない。
だからこそ、無意識に
**「自分の選択、これで合ってるのかな?」**って気になってしまう。
他人の人生と自分の人生を比べて、焦ることもある。
その時点で、もう“人の目”が入ってる。
周りがどう思うか、
他人にどう見られるか。
それを意識した選択をしていたわけじゃないけど、
それでも影響は受けていた。
でも今ならわかる。
過去の選択が正解だったかなんて、
今さら振り返ったって変えられない。
大事なのは、「これから」をどう生きるか。
今、どんな選択をして、
どんな行動で、
それを自分の“正解”にしていくか。
このnoteを書きながら、
またひとつ、自分の中の自由が広がった気がしてる。
【「自由に生きる」って、他人から見える姿のことじゃない】
他人の目を気にするって、
いわゆる“周りに合わせて生きること”だけじゃない。
「かっこいいと思われたい」
「できる奴と思われたい」
「ちゃんとしてると思われたい」――
こういうのも、立派に“他人の目”だ。
しかも、厄介なのはそれが無意識に根づいてるってこと。
自由に生きたいと言いながら、
気づかないうちに、
「そう見られる自分」になろうとしていた。
本当の自由ってなんだろう?
【“今の自分”を引き受けて生きること】
俺が思う自由は、
「好きに生きる」ことじゃなく、
**「どんな自分でも、そのまま引き受けて生きること」**なんだと思う。
頑張ってる姿も、
迷ってる時期も、
思うようにいってないタイミングも。
全部含めて「これが俺だ」って言える状態が、
たぶん一番自由なんじゃないかと思う。
完璧な姿じゃなくて、
今の自分をそのまま見せながら進んでいく強さ。
それが、これからの俺が手に入れたい自由。
【“かっこよく見られること”じゃなく、“かっこよく生きること”へ】
最近は、「努力してる姿」も自然と見せられるようになってきた。
それは、弱さをさらすって意味じゃない。
むしろ、
「かっこよく見られようとする自分」を脱いだ方が、もっと本気で生きられる気がしてる。
完璧じゃなくてもいい。
失敗してもいい。
プロセスを見せてもいい。
それでも、
本気で自分を生きてる方が、ずっとかっこいいと思う。
【このnoteもまた、“自由になる過程”のひとつ】
こうやってnoteを書くことも、
これまでの自分なら避けてたかもしれない。
誰かにどう思われるか、
ちゃんと伝わるかどうか、
そんなことを気にして言葉を選んでいたと思う。
でも今は、
“ちゃんとした文章”じゃなくていい。
“今の俺が思ってること”を、そのまま言葉にする方が大事。
このnoteを書くたびに、
自分の中の鎧がひとつずつ外れていく気がしてる。
【あとがき:あなたに問いかけたい】
もし、今あなたが
「自由に生きたい」と思いながら、
なぜかモヤモヤしているとしたら――
もしかしたら、それは
“見えない誰かの目”を意識してしまっているからかもしれない。
ちゃんとして見られたい。
かっこよく見られたい。
失敗した姿は見せたくない。
そう思う気持ちもわかる。俺もそうだったから。
でも、その“誰かの目”をそっと手放してみたら、
きっと、今よりも軽くなれる。
俺も今、少しずつ手放しながら、
自分の人生を、自分の目で見つめ直してるところ。
一緒に、もっと自由になっていきましょう。
次回:「“行動”はしてた。でも“本音の行動”じゃなかった」
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タイトル: 自由に生きたいのに、他人の目を気にしてた俺。
連載名: 自由の再定義 #4
