家族には優しいのに、自分には厳しすぎる私へ 2
~今度は、私の人生を後回しにしない~
「今日の私に、合格を出そう。」
自分を許すことを決め、手帳にそう書いてから一年。
私は少しずつ自分を許せるようになった。
家族も仕事も以前より穏やかになった。
それなのに、娘から聞かれた一言に答えられなかった。
「ママの夢って何?」
家族の夢は応援できるのに、自分の夢だけは置き去りにしていた。
これは、一人の母親が“自分の人生”を取り戻し、もう一度、自分の物語を生き始める物語。
プロローグ:ママの夢って何?
「今日の私に、合格を出そう。」
その言葉を書いた手帳は、今も本棚の一番取り出しやすい場所に置いてある。
あの夜から一年が過ぎた。
私は以前より少しだけ笑うようになった。
完璧を目指すことも減った。
夕飯がお惣菜の日があっても、自分を責めなくなった。
仕事で分からないことがあれば、人に頼れるようにもなった。
夫にも。
後輩にも。
時には子どもたちにさえ。
家の中も少し変わった。
娘は前よりたくさん話してくれるようになった。
息子は相変わらず元気で、毎日何かを発見しては私に報告してくる。
夫とは以前よりよく笑うようになった。
仕事も順調だった。
管理職としての役割にも慣れた。
後輩たちも成長している。
以前の私なら抱え込んでいた仕事も、任せられるようになった。
だから私は思っていた。
もう大丈夫だと。
私は私を許せるようになったのだと。
少なくとも、そう思っていた。
その日の夕食はカレーだった。
特別な日ではない。
平日の、ごく普通の夜だった。
息子はスプーンを振り回しながら宇宙の話をしていた。
最近の将来の夢は宇宙飛行士らしい。
先週までは恐竜博士だった。
娘は学校であった出来事を話している。
友達とのこと。
授業のこと。
来月行われる発表会のこと。
夫はそれを笑いながら聞いていた。
いつもの食卓。
私が昔、欲しいと思っていた風景だった。
そして、今はちゃんと手の中にある風景だった。
「ねぇ」
突然、娘が言った。
「なに?」
私はカレーをよそいながら答えた。
娘は少し考えてから言った。
「私ね。」
「うん。」
「将来、企画する仕事も面白そうだなって思う。」
私は笑った。
「そうなの?」
「うん。」
娘は嬉しそうに話し始める。
好きなものを考えること。
新しいアイデアを出すこと。
みんなをワクワクさせること。
話を聞いているうちに、私は不思議な感覚に包まれていた。
それは昔の自分を見ているような気持ちだった。
娘は続ける。
「でも獣医さんもいいし。」
「先生もいいし。」
「悩むなぁ。」
夫が笑う。
「まだたくさん悩めばいいよ。」
息子も負けじと言う。
「ぼくは宇宙飛行士になる!」
食卓が笑いに包まれる。
その時だった。
娘が何気なく私へ顔を向けた。
「ママは?」
私は顔を上げた。
「え?」
「ママの夢。」
時間が止まったような気がした。
夫も娘も息子も、ただ普通の顔で私を見ている。
難しい質問ではない。
子どもなら誰でもするような質問だ。
それなのに。
私は言葉が出なかった。
ママの夢。
私はスプーンを持ったまま固まった。
昔はあった。
たぶん。
間違いなくあった。
新入社員だった頃。
目の前の仕事に夢中だった頃。
企画書を書きながら夜中まで会社に残った頃。
新しい商品を考えていた頃。
いつか実現したいことがあった。
なりたい自分もいた。
でも。
それが何だったのか、すぐには思い出せなかった。
「ないの?」
娘が不思議そうに聞いた。
私は慌てて笑った。
「あると思うけど・・・」
自分でも曖昧な返事だった。
娘はそれ以上聞かなかった。
食事は何事もなかったように続いた。
息子は宇宙飛行士の話に戻り、
夫は苦笑しながら相づちを打っていた。
でも私だけが。
その言葉を胸の中で握り続けていた。
その夜。
家族が寝静まった後。
私は一人でダイニングテーブルに座っていた。
時計は午後十時四十八分。
ふと笑ってしまう。
一年ほど前。
私は同じ時間にここで泣きそうになっていた。
今日できなかったことを数えながら。
もっと頑張れたはずだと自分を責めながら。
今は違う。
あの頃より確実に楽になった。
なのに。
胸の奥がざわついている。
私は手帳を開いた。
以前は反省ばかり書いていた手帳。
今は感謝や出来たことを書く場所になっている。
今日も書こうとした。
家族と笑えた。
仕事も順調だった。
穏やかな一日だった。
そう書けば終わるはずだった。
でもペンが動かない。
娘の言葉が頭から離れない。
ママの夢って何?
私は窓の外を見た。
夜の街は静かだった。
遠くのマンションに灯りが見える。
誰かが今日を終えようとしている。
誰かが家族と過ごしている。
誰かが夢に向かっている。
そう考えた時、不意に気づいた。
私はずっと家族の人生を応援してきた。
夫の挑戦も。
娘の夢も。
息子の好奇心も。
後輩の成長も。
応援するのは得意だった。
でも。
自分自身を応援した記憶がない。
自分の夢を考えた記憶もない。
まるで私は、
家族の物語の脇役として生きることに慣れてしまっていた。
母親として。
妻として。
管理職として。
誰かを支える人生。
それは幸せだった。
今も幸せだ。
でも。
私はふと思ってしまった。
私はいつから、
自分の物語を止めてしまったのだろう。
静かな部屋で、私は白いページを見つめた。
そして、ゆっくりと一行だけ書いた。
「私は、本当はどう生きたいんだろう。」
その問いが。
自分を許した先に待っていた、
次の旅の始まりになることを。
まだ私は知らなかった。
第1章 夢より大切なものばかりだった
三月の終わりだった。
通勤途中の桜並木は、まだ満開には少し早かった。
それでも、枝先には薄いピンク色の花が咲き始めている。
私は駅へ向かう道を歩きながら、その景色を見上げていた。
以前なら気づかなかったかもしれない。
いや、見ていたとしても記憶に残らなかっただろう。
頭の中はいつも次の予定でいっぱいだったから。
でも今は違った。
少しだけ立ち止まり、季節の変化を見る余裕がある。
それは一年前の私にはなかったものだった。
なのに。
胸の奥には、ずっと消えない問いが残っていた。
「ママの夢って何?」
あの日から三週間が過ぎていた。
仕事は忙しい。
家庭もいつも通り慌ただしい。
けれどその質問だけは、ふとした瞬間に思い出される。
朝の電車の中で。
会議の前で。
子どもたちが眠った後の静かな時間で。
私は何度も自分に聞いていた。
私の夢って何だろう。
でも答えは出なかった。
その日の午後。
部門の年度方針説明会が行われた。
新年度を控えた恒例の会議だった。
会議室には各課の管理職が集まっている。
来年度の目標。
新商品の方向性。
組織体制。
人材育成。
説明はいつも通り進んでいった。
私は資料を見ながらメモを取る。
以前なら必死だった。
聞き逃さないように。
期待に応えられるように。
失敗しないように。
でも最近は少し違う。
肩の力を抜けるようになった。
その変化を自分でも感じていた。
会議が終わりかけた頃だった。
部長が言った。
「来年度は新しい商品企画プロジェクトを立ち上げる予定です。」
私は顔を上げた。
商品企画。
その言葉に心が少し反応した。
部長は続ける。
「部署横断でメンバーを選抜することになります。」
スクリーンにはプロジェクト概要が映し出されている。
新しい価値提案。
次世代ユーザー体験。
未来のモビリティ。
そんな言葉が並んでいた。
私は資料を見つめた。
胸の奥が、小さくざわついた。
不思議な感覚だった。
興味。
憧れ。
懐かしさ。
そんなものが混じり合っている。
会議後。
廊下を歩いていると、後輩の佐藤が声をかけてきた。
「面白そうですね。」
「何が?」
「新規プロジェクトです。」
私は笑った。
「そうだね。」
すると佐藤は言った。
「課長って、昔からそういう仕事好きそうですよね。」
私は少し驚いた。
「そう見える?」
「見えます。」
佐藤は迷いなく答えた。
「新しい企画の話をしてる時だけ、顔が違います。」
私は思わず笑ってしまった。
そんなものだろうか。
自分では気づいていなかった。
でもその言葉は妙に心に残った。
帰宅後。
夕食を終えた子どもたちは、それぞれ好きなことをしていた。
息子はブロック遊び。
娘はソファで本を読んでいる。
夫は洗い物をしてくれていた。
いつもの夜。
私は何気なく書棚を整理していた。
すると、奥から一冊の古いノートが出てきた。
表紙は少し色あせている。
大学時代のノートだった。
懐かしくなって開いてみる。
そこには授業のメモだけではなく、将来やりたいことが書かれていた。
私は思わず手を止めた。
ページの端に、小さな文字でこう記されていた。
「人の暮らしを変える商品を作りたい。」
次のページ。
「ユーザーがワクワクする企画を考えたい。」
さらに次のページ。
「いつか海外でも仕事がしたい。」
私はしばらく動けなかった。
忘れていた。
本当に忘れていた。
そんなことを書いていた自分がいたことを。
二十二歳の私は、世界が広かった。
やりたいことがたくさんあった。
未来は無限に続いていると思っていた。
入社した頃もそうだった。
どんな仕事でも面白かった。
企画会議で発言するだけで嬉しかった。
新商品のアイデアを考えるだけで眠れなかった。
その頃の私は、自分の未来についてよく話していた気がする。
でも。
いつからだろう。
それをやめたのは。
結婚したからだろうか。
違う。
出産したからだろうか。
それも違う。
子どもが生まれたことを後悔したことは一度もない。
夫と出会えたことも幸せだった。
家族ができたことも。
母親になれたことも。
全部本当に大切だった。
でも。
私は少しずつ、自分の話をしなくなっていた。
娘が近づいてきた。
「何見てるの?」
私はノートを閉じる。
「昔のノート。」
娘が興味深そうに覗き込む。
「ママの?」
「うん。」
「へぇ。」
娘はしばらく見つめていた。
そして笑った。
「若い頃のママにも夢があったんだね。」
私は思わず吹き出した。
「失礼だな。」
「だって今はママだから。」
その言葉に私は少し考えた。
そうかもしれない。
いつの間にか私は、
母親になっていた。
課長になっていた。
妻になっていた。
誰かを支える立場になっていた。
それは幸せなことだった。
でも。
そのどれもになる前に、
私は私だった。
夢を持った一人の女性だった。
その夜。
私は一人で手帳を開いた。
窓の外では春風が揺れている。
白いページを前にして考える。
私は夢を失ったのだろうか。
違う気がした。
夢を捨てたわけではない。
諦めたわけでもない。
ただ。
後ろの方へ置いてしまったのだ。
家族を優先し。
仕事を優先し。
日々を生きることを優先し。
気づけば見えなくなるほど遠くへ。
私は静かにペンを走らせた。
今日のページには、いつもと違う言葉を書いた。
「私は、何を諦めたんだろう。」
その問いを書いた瞬間。
胸の奥で何かが動き始めた気がした。
夢を思い出す旅は、
まだ始まったばかりだった。
第2章 私は十分幸せなはずだった
四月になった。
新年度が始まり、会社の雰囲気も少し変わっていた。
新入社員たちがぎこちないスーツ姿で歩いている。
会議室には異動してきたメンバーの紹介資料が貼られている。
街も会社も、新しい季節を迎えていた。
私は窓際の席から外を眺めながら、コーヒーを一口飲んだ。
ふと気づく。
最近、自分を責めることが減った。
以前なら朝から頭の中は反省会だった。
昨日の会議はもっと上手くできた。
娘の話を途中で聞き流してしまった。
夕飯は手抜きだった。
もっと頑張れたはず。
もっとできたはず。
そんな言葉ばかりだった。
でも今は違う。
失敗しても、
「そんな日もある。」
と思えるようになった。
手帳にも毎晩、
今日できたことを書くようになった。
自分を少しだけ大切にできるようになった。
そう。
以前の私が欲しかったものは、ほとんど手に入っている。
それなのに。
心のどこかが静かに空いていた。
昼休み。
社員食堂でランチを食べていると、同期の真理が隣に座った。
「最近いい顔してるね。」
そう言われ、私は思わず笑った。
「前もしてたよ。」
「いや。」
真理は首を振る。
「前は頑張ってる顔。」
「今は楽しそうな顔。」
私は少し照れた。
そんなふうに見えるのだろうか。
「良かったね。」
真理は自然に言った。
「子育ても落ち着いてきたし。」
「仕事も順調だし。」
「旦那さんとも仲良いし。」
私はうなずく。
その通りだった。
娘は小学四年生になった。
息子ももうすぐ小学生になる。
以前より手が離れてきた。
夫とも以前より会話が増えた。
仕事も評価されている。
管理職としての役割にも慣れた。
後輩たちも育っている。
恵まれていると思う。
本当に。
誰かに自慢したいわけではない。
ただ、
感謝すべき毎日だと思っていた。
そのはずだった。
しかし、その日の帰り道だった。
駅のホームで電車を待ちながら、私はぼんやり考えていた。
もし今。
誰かに、
「幸せですか?」
と聞かれたら。
私は間違いなく、
「はい。」
と答える。
それは嘘ではない。
でも。
もし続けて、
「今の人生に満足していますか?」
と聞かれたら。
私はどう答えるのだろう。
その瞬間、
胸の奥で何かが引っかかった。
満足。
その言葉が妙に重かった。
家に帰ると、息子が得意そうにランドセルのパンフレットを見せてきた。
「これがいい!」
毎日違う色を選んでいる。
昨日は青。
今日は黒。
明日はきっと赤と言い出すだろう。
娘はダイニングテーブルで宿題をしていた。
夫は夕飯の準備をしている。
平和だった。
穏やかだった。
幸せだった。
私はリビングを見渡した。
そして思った。
昔の私は、この景色を夢見ていた。
温かい家庭。
笑い声。
子どもたち。
好きな仕事。
支え合える夫。
全部ある。
本当に全部ある。
なのに。
なぜ私は、
時々こんなにも遠くを見てしまうのだろう。
その夜。
子どもたちを寝かせた後だった。
夫がソファでテレビを見ている。
私は隣に座った。
しばらく沈黙が続く。
そして不意に聞いた。
「ねえ。」
「ん?」
「私って幸せそう?」
夫は驚いた顔をした。
「急にどうしたの。」
私も苦笑する。
自分でも変な質問だと思った。
夫はしばらく考えた。
そして言った。
「幸せそうだよ。」
私は少し安心した。
でも夫は続けた。
「でも。」
その言葉に顔を上げる。
「時々、何か探してる顔をしてる。」
私は息を止めた。
「探してる顔?」
「うん。」
夫は静かに言う。
「何かは分からないけど。」
「どこか遠くを見てる時がある。」
言葉が出なかった。
図星だったからだ。
その夜はなかなか眠れなかった。
ベッドの中で天井を見つめる。
夫の言葉が頭の中で繰り返される。
何か探してる顔。
私は何を探しているのだろう。
もっとお金だろうか。
違う。
もっと評価だろうか。
違う。
もっと自由な時間だろうか。
それも違う気がする。
答えは分からなかった。
でも一つだけ確かなことがあった。
それは、
今の人生が不幸だからではないということ。
むしろ逆だった。
私は幸せだった。
だからこそ分からなかった。
翌日の昼休み。
会社の図書コーナーで資料を探していると、偶然一冊の本が目に入った。
タイトルは、
「人生の後半は、自分のために生きる」
だった。
私は思わず苦笑した。
少し前の私なら手に取らなかっただろう。
でもなぜか気になって開いてみた。
その中にこんな一文があった。
「多くの人は幸せになることに必死になり、 気がつくと、自分が何者だったかを忘れてしまう。」
私はページをめくる手を止めた。
胸の奥で何かが鳴った気がした。
自分が何者だったか。
私は今、
母親だ。
妻だ。
課長だ。
娘だ。
友人だ。
たくさんの役割を持っている。
でも。
そのどれでもない、
「私自身」はどこにいるのだろう。
その夜。
手帳を開く。
今日できたことを書くページ。
娘と笑った。
息子と遊んだ。
仕事も順調だった。
感謝することはたくさんあった。
けれど今日は、
その下にもう一行を書いた。
「私は、いつから私の話をしなくなったんだろう。」
書き終える。
静かな部屋。
時計の音だけが響く。
一年前の私は、
自分を責めることをやめる旅を始めた。
そして今。
私は別の場所に立っていた。
自分を許せるようになった先に、
新しい問いが待っていた。
それは、
「私は本当は、どう生きたいのだろう。」
という問いだった。
そしてその答えを探すために、
私は少しずつ過去を振り返り始めることになる。
忘れていた自分に、もう一度会うために。
第3章 「私」はどこへ行ったの?
ゴールデンウィークが近づいていた。
会社のカレンダーには大型連休が並び、社内もどこか浮き立った空気に包まれていた。
娘は友達との約束を楽しみにしている。
息子は毎日のように、
「あと何回寝たらお休み?」
と聞いてくる。
夫は家族旅行の候補地を調べていた。
平和だった。
去年の今頃の私なら、それだけで十分幸せだと思えただろう。
でも最近の私は、少し違っていた。
理由は分からない。
不満があるわけではない。
足りないものがあるわけでもない。
それなのに、心のどこかで何かを探していた。
自分でも正体の分からない何かを。
連休初日の午後だった。
私はクローゼットの整理を始めた。
きっかけは娘の一言だった。
「ママ、その棚ずっと触ってないよね。」
確かにその通りだった。
寝室の奥にある収納棚は、もう何年も開けていない箱で埋まっていた。
子どものアルバム。
昔の手帳。
使わなくなった文房具。
そして人生のどこかで置き忘れてきた時間。
私は一つずつ箱を取り出していった。
埃を払う。
中を見る。
捨てる。
残す。
そんな作業を繰り返していた。
すると一番奥から、薄い青色のファイルケースが出てきた。
見覚えがあった。
私はゆっくり開いた。
中に入っていたのは、入社して数年目の頃に作った企画書だった。
ページをめくる。
そこには若い頃の私がいた。
新しい車内体験の提案。
未来の暮らし方の仮説。
ユーザーインタビューの結果。
市場分析。
図解。
アイデアスケッチ。
どのページにも熱量があった。
まだ二十代だった私が、本気で世界を変えられると思っていた頃の資料だった。
思わず笑ってしまう。
アイデアは少し青臭い。
論理も甘い。
今の私ならもっと上手く作れる。
でも。
今の私にはないものもあった。
勢いだった。
希望だった。
未来への期待だった。
そして何より、
「やりたい」
という純粋な気持ちだった。
その時だった。
背後から声がした。
「ママ、なに見てるの?」
振り返ると娘が立っていた。
私は資料を見せる。
「昔の仕事。」
娘は目を丸くした。
「これママが作ったの?」
「そう。」
「すごい。」
私は苦笑した。
正直、褒められるような出来ではない。
けれど娘は真剣だった。
「ママ、楽しそう。」
その言葉に私は驚いた。
「え?」
娘は資料を指差して言う。
「なんか字が楽しそう。」
私は笑った。
意味が分からない。
でも不思議と、その表現は正しい気がした。
昔の私は確かに楽しそうだった。
資料の中にいる私は、生き生きとしていた。
今よりずっと。
その日の夜。
家族が寝静まった後も、私はそのファイルを見返していた。
ふと、一枚の紙が落ちる。
メモだった。
走り書きのような文字で書かれている。
「いつか海外市場向けの商品企画をやりたい」
私は息を止めた。
忘れていた。
完全に忘れていた。
そんなことを本気で思っていたことを。
海外。
商品企画。
新しい価値の提案。
そうだ。
私は昔、そういう仕事がしたかったのだ。
今の仕事に不満はない。
管理職という役割も大切だ。
後輩育成もやりがいがある。
でも。
それとこれは別だった。
私はずっと、
「やりたかった何か」
をどこかへ置いてきていた。
翌日。
私は久しぶりに新卒時代の同期へ連絡した。
真理だった。
休日だったが、近くのカフェで会うことになった。
久しぶりの二人きりだった。
コーヒーを飲みながら私は聞いた。
「私って昔、どんなこと言ってた?」
真理は笑った。
「急に何?」
「いいから。」
真理は少し考えた。
そして笑いながら言った。
「世界を変えるとか言ってた。」
私は吹き出した。
「そんなこと言ってた?」
「言ってた。」
「恥ずかしい。」
「でも本気だったよね。」
その言葉で笑いが止まった。
本気だった。
確かに。
本気だった。
真理は続ける。
「美咲ってさ。」
私は顔を上げる。
「昔は未来の話ばっかりしてた。」
私は黙る。
「新しいことを考えるの好きだったじゃん。」
「企画の話すると止まらなかったし。」
「海外の展示会とか行きたいって言ってたし。」
私はコーヒーを見つめる。
そんな自分がいた。
確かにいた。
でも今はどうだろう。
最近の私は、
未来の話をしているだろうか。
来月の予定。
来週の会議。
子どもの学校行事。
そういう話ばかりだ。
人生そのものの未来を語ることは、いつの間にかなくなっていた。
帰り道。
私は一人で歩いていた。
風が気持ちよかった。
街には家族連れがたくさんいる。
楽しそうな声が聞こえる。
その光景を見ながら考えた。
私は夢を失ったのではなかった。
夢を諦めたのでもなかった。
ただ。
しまい込んでいたのだ。
大切なものが増えるたびに。
責任が増えるたびに。
優先順位を下げて。
後回しにして。
気づいたら見えなくなっていただけだった。
その夜。
手帳を開く。
静かなリビング。
いつものように今日の出来事を書こうとする。
でも今日は違った。
私はページの真ん中に大きく書いた。
「昔の私は、何を大切にしていた?」
しばらく考える。
そして一つずつ書いていった。
新しいことを考えること。
人をワクワクさせること。
未来を描くこと。
挑戦すること。
知らない世界を見ること。
書き終えて気づいた。
それは「夢」ではなかった。
もっと根っこの部分だった。
私という人間が大切にしていたものだった。
母親になる前も。
妻になる前も。
課長になる前も。
そこにいた「私」。
その存在を、私は少しずつ思い出し始めていた。
そして初めて、
胸の奥に小さな灯がともる。
まだ夢ではない。
まだ目標でもない。
でも確かな予感だった。
もしかすると私は、
忘れていた人生の続きを、
もう一度書き始められるのかもしれない。
第4章 やりたいことが分からない
ゴールデンウィークが終わった。
街はいつもの日常へ戻り、会社も再び忙しさを取り戻していた。
大型連休前には浮かれていた新入社員たちも、少しずつ職場の空気に馴染み始めている。
私は朝の通勤電車に揺られながら、窓の外をぼんやり眺めていた。
最近、考える時間が増えた。
一年前までなら考える余裕などなかった。
やるべきことだけで毎日が終わっていた。
でも今は違う。
少し立ち止まれる。
少し自分を見つめられる。
だからこそ困っていた。
大きな問題に。
私は何がしたいのか分からない。
「本当はどう生きたい?」
自分に問いかけてみる。
すると昔の企画書が思い出される。
若い頃の夢も思い出される。
海外で仕事がしたかったこと。
新しい価値を生み出したかったこと。
人をワクワクさせる商品を作りたかったこと。
確かに覚えている。
でも。
今、それをやりたいのかと言われると分からなかった。
四十二歳になった今の私と、
二十二歳だった頃の私は違う。
娘もいる。
息子もいる。
守るべきものもある。
価値観も変わった。
だから余計に分からない。
昔の夢が今の夢とは限らない。
その日の昼休み。
私は社員食堂で一人昼食を食べていた。
すると久美さんが向かいに座った。
第一作でも私の人生を変えてくれた人事部長の久美さんだった。
「最近どう?」
そう聞かれ、
私は思わず本音を漏らしてしまった。
「困ってます。」
久美さんが笑う。
「珍しいね。」
私は苦笑した。
「自分が何をしたいのか分からないんです。」
言葉にすると滑稽だった。
四十二歳にもなって。
管理職にもなって。
母親にもなって。
今さらそんなことで悩んでいる。
でも久美さんは真剣だった。
「それはいい悩みだね。」
私は驚いた。
「いい悩みですか?」
「うん。」
久美さんは味噌汁を一口飲む。
そして言った。
「美咲さん、今まで何年も“やらなきゃいけないこと”で生きてきたでしょ。」
私は黙った。
その通りだった。
「だから急に“やりたいことは?”って聞かれても分からないんだよ。」
私は少し肩の力が抜けた。
「みんなそうなんですか?」
「そう。」
久美さんは笑う。
「特に真面目な人ほどね。」
帰宅した夜。
私は久しぶりにリビングで一人になった。
夫は出張。
子どもたちは寝ている。
静かな夜だった。
手帳を開く。
最近は毎日のように同じ問いを書いている。
私は何をしたいのだろう。
私はどう生きたいのだろう。
答えはまだ見つからない。
その時、
ふと娘の部屋から借りていた本が目に入った。
児童向けの物語だった。
何気なくページを開く。
そこにこんな言葉があった。
「やりたいことが分からないなら、 好きなことを思い出してみよう。」
私はしばらくその文章を見つめていた。
好きなこと。
夢ではない。
目標でもない。
好きなこと。
翌週の土曜日だった。
久しぶりに一人で本屋へ行った。
子どもたちは夫と公園へ出かけている。
一人時間。
以前の私なら掃除をしたかもしれない。
作り置きをしたかもしれない。
でも今日は違った。
自分のためだけに使う時間。
私は店内をゆっくり歩いた。
ビジネス書。
小説。
旅行雑誌。
美術書。
料理本。
何となく棚を眺める。
不思議だった。
誰にも急かされない。
誰のためでもない。
ただ自分が見たいものを見ている。
すると自然に足が止まった。
デザイン書籍のコーナーだった。
商品企画。
デザイン思考。
未来予測。
マーケティング。
かつて大好きだった言葉が並んでいる。
私は一冊の本を手に取った。
ページをめくる。
読む。
楽しい。
その瞬間だった。
胸の奥で久しぶりに何かが動いた。
帰宅後。
娘が気づいた。
「ママ、その本買ったの?」
私はうなずく。
「うん。」
「面白い?」
私は少し考える。
そして言った。
「面白い。」
娘が笑う。
「ママ楽しそう。」
またその言葉だった。
最近よく言われる。
夫にも。
娘にも。
私は本を見下ろす。
確かに楽しかった。
誰かに頼まれたわけじゃない。
評価されるわけでもない。
なのに楽しかった。
何年ぶりだろう。
役に立つからではなく、
好きだからやる。
その感覚は。
その夜。
子どもたちが寝たあと、
私は本を読みながら考えていた。
夢はまだ見つかっていない。
やりたいことも明確ではない。
でも一つだけ分かったことがあった。
私はずっと、
夢を探そうとしていた。
正解を見つけようとしていた。
でも本当は違うのかもしれない。
まず必要なのは、
夢を見つけることではなく、
好きだった自分を思い出すこと。
何に心が動くのか。
何にワクワクするのか。
何を面白いと思うのか。
そこから始まるのかもしれない。
私は手帳を開いた。
そして今日のページにこう書いた。
「まだ夢は分からない。」
少し間を空ける。
そして続けた。
「でも、好きだった自分には会えた。」
書き終える。
不思議と心が軽かった。
答えはまだない。
未来も見えていない。
それでもいい気がした。
一年前の私は、
自分を許すことから始めた。
そして今。
私はもう一度、
自分を知る旅を始めている。
夢へ向かう前の、
小さくて大切な第一歩だった。
第5章 ひとりで出かけてみる
五月の終わりだった。
土曜日の朝。
私は珍しく目覚ましをかけていなかった。
カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ます。
時計を見る。
午前七時。
いつもの休日なら、とっくに起きている時間だった。
洗濯。
掃除。
作り置き。
買い物。
来週の準備。
頭の中で予定表を作り始めるのが習慣だった。
でもその日は違った。
隣から夫の声がした。
「今日は行ってくれば?」
私は少しだけ戸惑う。
「本当に?」
「うん。」
夫は笑った。
「ひとり時間の日でしょ。」
それは先月、夫婦で決めた約束だった。
月に一度だけ。
お互いが自由に使う時間を作る。
第一作の終盤で始まった、小さな家族のルール。
その日が、私の番だった。
ところが。
いざ自由な時間を与えられると困ってしまう。
私は駅前まで来ていた。
財布。
スマートフォン。
小さなバッグ。
身軽だった。
でも行き先が決まらない。
立ち止まる。
周りを見る。
人々は迷いなく歩いている。
ショッピングへ向かう人。
友人と待ち合わせをしている人。
映画館へ行く人。
私はどこへ行けばいいのだろう。
ふと苦笑した。
四十二歳にもなって。
自由時間の使い方が分からない。
とりあえず電車に乗った。
目的地は決めていない。
窓から景色を眺める。
その時だった。
久しぶりに不思議な感覚を覚える。
急いでいない。
誰かに呼ばれていない。
子どもの予定もない。
仕事の会議もない。
次のタスクもない。
ただ電車に乗っている。
それだけだった。
なのに少し落ち着かなかった。
私はいつから、
「何もしない時間」
が苦手になったのだろう。
降りたのは大型書店のある駅だった。
理由はない。
ただ本屋なら好きなものが見つかる気がした。
店内をゆっくり歩く。
ビジネス書。
旅行ガイド。
インテリア雑誌。
自己啓発本。
次々と棚を見ていく。
その途中で立ち止まった。
旅行コーナーだった。
海外特集。
ヨーロッパ。
北欧。
アジア。
アメリカ。
鮮やかな写真が並んでいる。
私はその一冊を手に取った。
ページをめくる。
街並み。
市場。
人々の暮らし。
文化。
色。
匂いまで伝わってくるようだった。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
そうだ。
昔の私は海外が好きだった。
知らない世界を知ることが好きだった。
学生時代もそうだった。
社会人になってからも、
いつか海外市場の仕事がしたいと思っていた。
そのことを思い出した。
気づけば二時間近く本屋にいた。
読みたい本が何冊も見つかる。
気になる展示会のチラシも見つかった。
新しい商品企画の講演会の案内もあった。
不思議だった。
誰かに与えられた予定ではない。
自分で見つけたものばかりだった。
そしてどれも少し楽しそうだった。
昼過ぎ。
私は駅前のカフェに入った。
窓際の席。
ホットコーヒー。
静かな音楽。
一人で座る。
その瞬間だった。
何もすることがなくなった。
私はカップを両手で包みながら窓の外を見る。
行き交う人々。
休日の街。
久しぶりだった。
誰かの母親でもない。
誰かの上司でもない。
誰かの妻でもない。
ただの私として座っている時間。
その時、
隣の席に座った女性たちの会話が耳に入った。
同年代くらいだろうか。
楽しそうに話している。
仕事のこと。
趣味のこと。
今度挑戦する資格試験のこと。
私は何気なく聞いていた。
そして少し羨ましくなった。
なぜだろう。
彼女たちは未来の話をしている。
私は最近まで未来を語っていただろうか。
来週の予定なら話していた。
来月の会議も話していた。
でも、
自分がどこへ向かいたいかを話した記憶はなかった。
ふとスマートフォンが震えた。
娘からだった。
『ママ楽しんでる?』
私は思わず笑う。
返信する。
『うん、結構楽しい』
すぐ返事が来た。
『よかった!』
たったそれだけだった。
でも私は少し驚いた。
娘は私が楽しいかどうかを気にしている。
以前の私は、
子どもが楽しいかばかり気にしていた。
でも子どももまた、
母親の幸せを願っている。
その事実が妙に温かかった。
夕方。
帰宅する電車の中だった。
何か特別なことをしたわけではない。
旅行もしていない。
大きな決断もしていない。
夢もまだ見つかっていない。
でも。
朝の自分とは少し違っていた。
理由は分かる。
今日一日、
私は誰かのためではなく、
自分のために時間を使った。
それだけだった。
でも、
それは何年も忘れていた感覚だった。
家に着くと、
息子が真っ先に飛びついてきた。
「ママー!」
娘も笑顔で聞く。
「どうだった?」
私は靴を脱ぎながら答えた。
「楽しかった。」
二人とも嬉しそうに笑う。
夫もキッチンから顔を出した。
「よかったじゃん。」
私はうなずいた。
本当にそう思った。
その夜。
手帳を開く。
今日のページを眺める。
何を書こうか考えた。
そして静かにペンを走らせる。
「今日はひとりで出かけた。」
少し考える。
そして続けた。
「何かを見つけたわけじゃない。」
さらにもう一行。
「でも、自分の心が動く方向を少し思い出した。」
書き終えた瞬間、
私は初めて気づいた。
夢は突然見つかるものではない。
運命のように降ってくるものでもない。
きっと、
忘れていた自分を少しずつ取り戻した先に現れるものなのだ。
私は手帳を閉じる。
窓の外では夜風が揺れていた。
一年前。
私は自分を許すことを学んだ。
そして今。
私は少しずつ、
自分自身と再会し始めていた。
まるで長い間離れていた友人に、
もう一度会いにいくように。
第6章 私はこれが好きだった
六月に入った。
梅雨の雨が続いていた。
朝、駅まで歩くだけで靴が少し濡れる。
空は灰色。
通勤電車の窓にも細かな雨粒が並んでいた。
私はその雨を見ながら、最近買った本を鞄から取り出した。
商品企画について書かれた本だった。
昼休みに少しずつ読んでいる。
誰かに頼まれたわけではない。
資格試験の勉強でもない。
仕事の課題でもない。
ただ読みたいから読んでいる。
そんな時間を持つこと自体が、久しぶりだった。
あの日、一人で本屋に出掛けてから少し変化が起きていた。
私は意識せずに、「好きなこと」を探すようになっていた。
昼休みに書店へ寄る。
通勤中に記事を読む。
休日に企画展へ行く。
新しい商品やサービスを見ると、つい仕組みを考えてしまう。
なぜ人気なのか。
なぜ人は惹かれるのか。
何が価値になっているのか。
そんなことを考えている時間が楽しかった。
ある昼休み。
いつものように本を読んでいると、後輩の佐藤が声を掛けてきた。
「課長、それ面白いですか?」
私は表紙を見せた。
佐藤が笑う。
「いかにも課長が好きそうですね。」
「そう?」
「はい。」
即答だった。
私は思わず笑ってしまう。
最近、そんなことを言われることが増えた。
娘にも。
真理にも。
そして今は佐藤にも。
どうやら私は、自分が思っている以上に分かりやすい人間らしい。
その日の午後。
社内で新規企画のアイデア会議が行われた。
若手を中心に意見を出し合う場だった。
私はファシリテーターとして参加していた。
会議開始から二十分ほど経った頃だった。
議論が停滞し始める。
誰も発言しない。
沈黙が続く。
すると自然に口が動いた。
「もしユーザーが十代だったら?」
「もし海外市場向けだったら?」
「もし車じゃなくてサービスだったら?」
質問を投げる。
視点を変える。
組み合わせる。
アイデアが動き始める。
若手たちの表情も変わる。
気づけば会議は盛り上がっていた。
終わった後だった。
参加していた若手社員が言った。
「今日は楽しかったです。」
私は笑った。
「よかった。」
すると彼は続けた。
「企画って面白いですね。」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で何かが強く動いた。
面白い。
そうだ。
私は昔からこれが好きだった。
企画。
アイデア。
可能性。
まだ存在していないものを考えること。
人をワクワクさせること。
未来を想像すること。
私は会議室に一人残りながら考えていた。
管理職になってからは、
育成。
調整。
評価。
マネジメント。
そういった仕事が増えた。
それも大切だった。
やりがいもあった。
でも。
今感じている高揚感は少し違った。
もっと昔から知っている感覚だった。
二十代の頃。
企画書を書きながら夜遅くまで会社に残っていたあの頃。
休日なのに展示会へ行ってしまうあの頃。
新しいサービスを見るだけで興奮していたあの頃。
私は確かにこういう人間だった。
その夜。
夕食後のリビング。
娘が宿題をしている。
息子は図鑑を開いている。
夫はソファでくつろいでいた。
私は何気なく聞いてみた。
「私ってさ。」
三人が顔を上げる。
「どんな時が一番楽しそう?」
娘は即答した。
「企画の話してる時。」
夫も笑う。
「だね。」
息子まで言う。
「ママ、お仕事の話の時いっぱいしゃべる。」
私は吹き出した。
そんなに分かりやすいのだろうか。
娘は続ける。
「あとね。」
「なに?」
「何か考えてる時。」
その言葉に私は少し驚いた。
娘は本当に人をよく見ている。
その夜。
私は久しぶりに昔の写真を見返していた。
若い頃の自分。
研修で海外へ行った時の写真。
展示会で撮った写真。
同僚たちとの懇親会。
どの写真の私も笑っていた。
そしてどの写真にも共通しているものがあった。
企画。
新しい挑戦。
未来の話。
私はそこにいる自分が好きだった。
それは夢ではなかった。
もっと根っこの話だった。
私は何になりたいかよりも、
どう生きている時に生き生きするのかを思い出し始めていた。
その違いは大きかった。
夢を探していたときは苦しかった。
答えを出さなければいけない気がしたから。
でも好きなことを探すのは違った。
楽しかった。
正解がないからだ。
ただ心が動く方向へ進めばいい。
翌週。
会社から一通の案内メールが届いた。
社内公募制度のお知らせだった。
新規事業開発チーム。
部署横断型プロジェクト。
半年間の特別選抜プログラム。
希望者募集。
私は画面を見つめる。
胸が少し速くなる。
気になった。
ものすごく気になった。
でも同時に、
ある感情も湧いてくる。
私なんか。
今さら。
子どももいるし。
管理職だし。
忙しいし。
そんな声だった。
画面を閉じる。
そして仕事へ戻る。
でも。
何度もそのメールが頭に浮かんだ。
夜。
子どもたちが眠った後。
私は手帳を開いた。
静かな時間。
白いページを見つめる。
そして今日の出来事を書いた。
「私は企画が好きだった。」
少し考える。
さらに書き足す。
「未来を考えることが好きだった。」
そして最後に、
ゆっくりと一行を加えた。
「もしかしたら、私はまだ終わっていない。」
書き終えた瞬間。
胸の奥に小さな火が灯る。
それは野心ではなかった。
焦りでもなかった。
もっと静かで温かいものだった。
長い間眠っていた自分自身が、
ようやく目を覚まし始めたような感覚だった。
そして数日後。
その小さな火を本当の挑戦へ変える出来事が訪れる。
それは、一通の社内公募メールから始まるのだった。
第7章 挑戦したい
六月の終わりだった。
梅雨空が続いていた。
雨上がりの朝は少し蒸し暑く、駅まで歩くだけで額に汗がにじむ。
通勤電車の中。
私はスマートフォンの画面を見つめていた。
正確には、一通のメールを。
数日前から何度も開いているメールだった。
新規事業開発チーム公募のお知らせ
社内選抜プロジェクト。
半年間。
部署横断。
未来の商品・サービス企画。
選抜制。
業務と並行して活動。
応募締切まであと三日。
私はメールを閉じた。
そしてまた開いた。
もう何度目か分からない。
応募したい。
その気持ちは確かにある。
でも同じくらい強く、
別の声も聞こえる。
今さら?
そんな時間あるの?
子どももいるのに?
管理職なのに?
その声は一年前によく聞いていた声に似ていた。
「もっと頑張れ」
と言い続けていた頃の声とは少し違う。
でも同じだった。
私を立ち止まらせる声だった。
会社へ着く。
いつものように会議。
打ち合わせ。
部下との面談。
仕事は忙しい。
けれど最近は不思議だった。
忙しさの中にも、新しい景色が見え始めている。
若手の提案を見るたびに、
「もっと面白くできるかもしれない」
と思う。
展示会の情報を見るたびに、
ワクワクする。
新しいサービスの記事を見るたびに、
仕組みを考えてしまう。
心が動いている。
昔のように。
それが分かるからこそ苦しかった。
もし何も感じなければ楽だった。
応募しようか悩むこともない。
でも今の私は、
久しぶりに心が動いている。
だからこそ迷っていた。
昼休みだった。
私は一人で会議室にいた。
誰もいない部屋。
窓から曇り空が見える。
パソコンを開く。
公募ページを表示する。
応募フォームが現れる。
名前。
所属。
志望動機。
エントリーは思ったより簡単だった。
十分もあれば終わる。
それなのに指が止まる。
ふと、
昔の自分を思い出した。
二十二歳の頃。
新しいプロジェクトがあると聞けば真っ先に手を挙げていた。
海外出張の募集があれば応募した。
知らないことに飛び込むことを怖がらなかった。
あの頃は、
やりたいことが怖さより大きかった。
では今は?
私は画面を閉じた。
答えが出なかった。
その日の帰り道。
駅のホームで電車を待っていた。
すると偶然、真理に会った。
同期だった。
「珍しいね。」
そう言って隣に並ぶ。
しばらく他愛ない話をする。
そして私は何気なく聞いてみた。
「ねえ。」
「ん?」
「挑戦するのってさ。」
真理が笑う。
「急だね。」
「今さらかなって思うことない?」
真理は少し考えた。
そして答えた。
「あるよ。」
私は驚いた。
真理はいつも前向きだったからだ。
「でも。」
真理は続ける。
「私ね。」
「うん。」
「今さらって思った時は、大体やってみた方がいい時なんだと思う。」
私は黙る。
真理は笑った。
「だって本当に興味なかったら、悩まないじゃん。」
その言葉が胸に残った。
夜。
子どもたちが寝る前だった。
娘が宿題をしている。
算数だ。
分数の問題らしい。
難しい顔をしている。
「どうしたの?」
私が聞くと、
娘はため息をついた。
「やってみたいんだけど。」
「うん。」
「間違えそう。」
私は思わず笑った。
娘も笑う。
しばらく考えてから私は言った。
「じゃあ聞いていい?」
「なに?」
「間違えたらどうなるの?」
娘は首を傾げる。
「やり直す。」
私はうなずく。
「そうだよね。」
娘も笑った。
そして鉛筆を動かし始めた。
その姿を見ながら、
私は急に何も言えなくなった。
それは今の私自身だった。
やってみたい。
でも間違えそう。
失敗しそう。
だから動けない。
娘に言った言葉が、
そのまま自分に返ってきた。
深夜。
静かなリビング。
私は一人でダイニングテーブルに座っていた。
パソコンを開く。
応募フォームを表示する。
白い入力欄が並んでいる。
名前。
所属。
そして志望動機。
画面を見つめる。
心臓が少し速い。
不思議だった。
昇進試験より緊張する。
プレゼンより緊張する。
たぶんこれは、
評価されるからではない。
本当にやりたいと思っているからだ。
だから怖い。
否定されたら傷つく。
選ばれなかったら落ち込む。
期待した自分が恥ずかしくなる。
それが怖かった。
その時だった。
冷蔵庫に貼られた付箋が目に入る。
一年前から貼っている言葉。
「今日、一番大事なことは何?」
私はしばらく見つめた。
そして気づく。
今の私にとって一番大事なことは何だろう。
失敗しないことだろうか。
無難に生きることだろうか。
違った。
本当は知っている。
私はもう一度、
自分の人生を歩き始めたいのだ。
私は深呼吸した。
そして応募フォームに文字を打ち始めた。
一文字ずつ。
ゆっくりと。
途中で何度も手が止まる。
それでも書く。
気づけば志望動機は予定より長くなっていた。
未来の価値を考えることが好きだ。
人をワクワクさせる仕事がしたい。
もう一度挑戦したい。
取り繕わずに書いた。
最後の送信ボタンが現れる。
私はしばらく見つめた。
胸が高鳴る。
怖い。
本当に怖い。
でも。
私はようやく分かった。
今感じているこの怖さは、
無理をしている怖さではない。
本気でやりたいことに近づいている怖さだ。
私は笑った。
そして静かにクリックした。
画面に表示される。
応募を受け付けました。
その瞬間。
何かが変わった気がした。
結果はまだ出ていない。
何も始まっていない。
でも確かだった。
私は初めて、
誰かのためではなく、
自分のために手を挙げた。
その夜。
手帳を開く。
そして一行だけ書いた。
「今日は、私が私を応援した日だった。」
書き終えた瞬間、
胸の奥が少しだけ熱くなった。
自分を許す旅の先に。
今度は、
自分を信じる旅が始まっていた。
第8章 それはわがままですか?
七月の初めだった。
社内公募へ応募してから二週間が過ぎていた。
私はそのことを誰にも話していなかった。
夫にも。
子どもたちにも。
職場の仲間にも。
もちろん、結果がまだ出ていないという理由もあった。
けれど本当は違う。
私は怖かったのだ。
期待することが。
本気になることが。
そして何より、
もしうまくいかなかった時に、自分が傷つくことが。
ある日、帰宅するとポストに一通の封筒が入っていた。
娘の学校からだった。
夏休みの自由研究募集案内。
夕食の後、娘はその紙を真剣に眺めていた。
「どうするの?」
私が聞く。
娘は腕を組んだ。
「やりたいテーマはあるんだけど。」
「うん。」
「失敗しそう。」
私は思わず笑った。
最近、娘は本当に私によく似てきた。
やりたい。
でも失敗が怖い。
その間で立ち止まる。
まるで少し前の私だった。
「やってみたら?」
私が言う。
娘は首を傾げた。
「でも賞を取れなかったら?」
私は少し考えた。
そして答える。
「賞を取るためにやるの?」
娘は黙る。
「違うなら、やりたいからやるだけで十分じゃない?」
娘はしばらく考え、
「そっか。」
と小さく言った。
その瞬間、私は何も言えなくなった。
今の言葉は、
そのまま私自身への言葉だった。
翌週。
社内メールが届いた。
件名を見た瞬間、
心臓が大きく鳴った。
新規事業開発チーム 一次選考結果のお知らせ
私は画面を見つめる。
手が少し震える。
クリックする。
短い文章だった。
一次選考通過
面談へ進んでください
私は息を止めた。
通過。
その二文字を何度も見返す。
嬉しかった。
素直に嬉しかった。
四十二歳になっても、
こんな気持ちになるのだと思った。
でも。
その喜びは長く続かなかった。
数分後には違う感情が現れる。
面談の詳細を確認する。
活動期間。
プロジェクト日程。
研修内容。
休日の研修もある。
夜の勉強会もある。
私はスケジュールを見つめた。
そして始まる。
いつもの計算が。
娘の習い事。
息子の学校行事。
夫の出張予定。
チーム運営。
管理職としての責任。
頭の中で数字が並ぶ。
気づけば胸が苦しくなっていた。
私は何をしているのだろう。
家族との時間を削って。
自分の好きなことをやろうとして。
それは本当にいいことなのだろうか。
その夜だった。
私は久しぶりにリビングで一人になっていた。
冷蔵庫には一年前から貼り続けている付箋。
『今日、一番大事なことは何?』
私はそれを見つめる。
すると背後から声がした。
「何かあった?」
夫だった。
私は少し迷う。
でも今回は話してみようと思った。
応募したこと。
通過したこと。
そして迷っていること。
全部話した。
夫は黙って聞いていた。
最後まで遮らなかった。
そして静かに言った。
「嬉しかったんでしょ?」
私は黙る。
「通過した時。」
その問いに嘘はつけなかった。
「うん。」
「すごく。」
夫は笑った。
「じゃあ、それが答えじゃない?」
私は首を振った。
「でも家族に負担がかかるかもしれない。」
「時間もなくなるし。」
「みんなに迷惑かけるし。」
言いながら気づく。
私はまた同じことをしている。
やりたいことより先に、
周りへの影響を考えている。
夫は少し考えた。
そして聞いた。
「美咲。」
「なに?」
「もし娘が同じこと言ったら?」
私は言葉を失った。
夫は続ける。
「やりたいことが見つかった。」
「挑戦したい。」
「でも家族に迷惑かけるかもしれないからやめる。」
娘がそう言ったら、
美咲は何て言う?
私は目を伏せた。
答えは分かっている。
きっと背中を押す。
挑戦してほしいと思う。
失敗してもいいから。
やってみてほしいと思う。
その週末。
娘と二人で買い物へ出掛けた。
文房具売り場で自由研究用のノートを選んでいる。
娘は嬉しそうだった。
突然、娘が言った。
「ママ。」
「なに?」
「私ね。」
少し照れながら続ける。
「賞取れなくてもやることにした。」
私は笑った。
「そうなんだ。」
娘はうなずく。
「だってやってみたいから。」
私は立ち止まった。
その言葉は真っ直ぐ胸に届いた。
やってみたいから。
それだけだった。
理由は。
十分だった。
帰り道。
夕焼けが街をオレンジ色に染めていた。
私は娘の横顔を見ながら思う。
いつから私は、
自分のやりたいことに理由を求めるようになったのだろう。
家族のためになるか。
キャリアに役立つか。
損をしないか。
効率的か。
意味があるか。
でも子どもたちは違う。
やりたいからやる。
好きだからやる。
面白そうだからやる。
その純粋さを、
私はどこかに置き忘れてきたのかもしれない。
その夜。
手帳を開く。
静かなリビング。
ページの上に今日の日付を書く。
そしてゆっくりと書く。
「私は、やりたいと思った。」
少し間を空ける。
さらに書き足す。
「でも、わがままじゃないかと思った。」
私はペンを止めた。
そして最後に、
今日の答えを書く。
「家族を大切にすることと、自分を大切にすることは、敵同士じゃない。」
書き終えた瞬間、
胸の中で何かがほどけた。
ずっと勘違いしていたのかもしれない。
母親になることと、
自分を生きることは両立できないと思っていた。
家族を優先することと、
自分の夢を持つことは反対側にあると思っていた。
でも本当は違う。
そのどちらも人生だった。
どちらも私だった。
私は手帳を閉じる。
そして初めて思った。
もしかしたら私は、
誰かの人生を支えるだけではなく、
自分自身の人生も生きていいのかもしれない。
その考えはまだ小さかった。
けれど確かだった。
そして数日後。
私は人生で初めて、
「応援する側」から「応援される側」になることを知る。
第9章 応援される側
七月の終わりだった。
蝉の声が朝から響いている。
窓を開けると、夏の熱気が一気に流れ込んできた。
私は洗面台の前に立ちながら、自分の顔を見つめていた。
新規事業開発チームの二次選考。
今日は面談の日だった。
久しぶりに緊張している。
管理職になった時も。
大きなプレゼンの時も。
ここまで緊張した記憶はなかった。
たぶん理由は簡単だった。
これは会社から与えられた挑戦ではない。
自分で選んだ挑戦だったから。
朝食の席だった。
娘がトーストをかじりながら言った。
「今日だよね。」
私は顔を上げる。
「何が?」
娘は呆れたように言った。
「面接。」
思わず笑ってしまった。
少し前に、私は家族へすべて話していた。
応募したこと。
選考に進んだこと。
挑戦したいと思っていること。
娘は覚えていたらしい。
息子も言う。
「ママ、がんばれー。」
私は思わず吹き出した。
夫まで笑っている。
「応援団長がいるから大丈夫だな。」
その言葉に、胸が少し温かくなった。
不思議だった。
昔の私なら、
家族に心配をかけたくなくて黙っていたかもしれない。
でも今は違う。
話せる。
頼れる。
応援を受け取れる。
少しずつ、そんな自分になれていた。
会社へ向かう途中だった。
娘からメッセージが届く。
『ママなら大丈夫』
たったそれだけの文章。
でも私は電車の中でしばらく画面を見つめていた。
大丈夫。
昔は私が家族へ言う言葉だった。
娘が失敗した時。
息子が泣いた時。
夫が落ち込んだ時。
後輩が自信をなくした時。
私は何度もそう言ってきた。
でも今は違う。
それを受け取る側になっている。
私はスマートフォンを閉じた。
少しだけ目頭が熱かった。
面談は一時間だった。
自分の経験。
挑戦したい理由。
どんな価値を生み出したいのか。
何を学びたいのか。
質問は次々に続いた。
途中で言葉に詰まる場面もあった。
完璧な受け答えではなかった。
でも不思議と後悔はなかった。
最後の質問だった。
「なぜ応募しようと思ったのですか?」
私は少し考えた。
用意していた答えはいくつかある。
でも口から出たのは違う言葉だった。
「思い出したかったんです。」
面談官が顔を上げる。
私は続けた。
「昔の自分が好きだったことを。」
「未来を考えることが好きだったんです。」
「新しい価値を作ることが好きだったんです。」
「その気持ちを、もう一度大切にしたいと思いました。」
話し終える。
部屋は静かだった。
面談官がゆっくりうなずいた。
その瞬間、
私は初めて気づいた。
これは選考のための挑戦ではない。
自分自身を取り戻すための挑戦なのだと。
帰宅すると、
珍しく娘が玄関まで迎えに来た。
「どうだった?」
私は笑う。
「終わった。」
「うまくいった?」
私は少し考えた。
そして答えた。
「分からない。」
娘は期待した顔を崩さない。
私は続ける。
「でもね。」
「うん。」
「伝えたいことは伝えられた。」
娘は満足そうにうなずいた。
それだけで十分だと言うように。
その夜だった。
夕食の後、
娘が自由研究の資料を広げていた。
思ったより苦戦しているらしい。
何度も書き直している。
消しゴムの跡で紙が少し波打っていた。
私は聞いた。
「大変?」
娘は苦笑した。
「ちょっと。」
「やめたい?」
その問いに娘は首を振る。
「ううん。」
少し考えてから言った。
「だってやりたいから。」
私は言葉を失った。
その言葉を聞いた瞬間、
数か月前の自分が浮かんだ。
夢が分からなかった頃。
自分が好きなことを忘れていた頃。
生きることに必死で、
自分の人生を後回しにしていた頃。
娘は続ける。
「大変だけど。」
「面白い。」
私は笑った。
その感覚を私も思い出し始めていた。
深夜。
子どもたちが眠ったあとだった。
私は一人で手帳を開く。
一年前まで、
そこには反省ばかりが並んでいた。
できなかったこと。
足りなかったこと。
もっと頑張るべきこと。
今は違う。
私は今日のページを開いた。
ゆっくりペンを走らせる。
今日、受け取ったもの。
娘からの「ママなら大丈夫」。
息子からの「がんばれ」。
夫の笑顔。
仲間からの励まし。
私は書きながら気づく。
これまでの人生、
私は応援する側だった。
支える側だった。
家族を励まし。
部下を育て。
仲間を支え。
誰かの背中を押してきた。
それは大切な役割だった。
誇りでもあった。
でも。
人は応援するだけでは生きていけない。
時には応援されてもいい。
支えてもらってもいい。
頼ってもいい。
私はようやく、そのことを受け入れ始めていた。
ページの最後に一行だけ書く。
「私は、一人でここまで来たわけじゃなかった。」
書き終えた瞬間、
胸の奥が静かに温かくなった。
窓の外では夏の夜風が木々を揺らしている。
結果はまだ分からない。
選ばれるかもしれない。
選ばれないかもしれない。
でも不思議と怖くなかった。
なぜなら今の私は、
結果より大切なものを受け取っていたから。
人生で初めて。
私は誰かに応援されながら歩いていた。
そしてその温かさは、
長い間忘れていた自分自身を、
さらに一歩前へ進ませてくれるのだった。
第10章 私が主人公だった
八月の終わりだった。
夏休みも終わりに近づき、朝の蝉の声が少しだけ小さくなっていた。
娘は自由研究を完成させた。
息子は真っ黒に日焼けしていた。
夫も私も慌ただしい毎日を過ごしていた。
そして、私にはもう一つ気になっていることがあった。
新規事業開発チームの最終選考結果だった。
結果通知は今週中。
そう聞いていた。
気にしないようにしていても、気になった。
メールが来るたびに心が揺れる。
通知音が鳴るたびに胸がざわつく。
まるで新人の頃に戻ったようだった。
金曜日の午後だった。
打ち合わせを終え、自席へ戻る。
パソコンを開く。
受信トレイを見る。
一通のメールが届いていた。
件名を見た瞬間、呼吸が止まる。
新規事業開発チーム 最終選考結果のお知らせ
私はしばらく画面を見つめていた。
開くのが怖い。
期待している自分がいる。
駄目だったら落ち込むだろう。
そんな自分もいる。
でも。
ここまで来た。
私は深呼吸を一つしてメールを開いた。
結果は合格だった。
しばらく意味が理解できなかった。
何度も読み返す。
名前を確認する。
見間違いではない。
本当に選ばれていた。
嬉しかった。
心の底から。
でも。
不思議なことが起きた。
私は思ったほど興奮していなかった。
もちろん嬉しい。
でも、それ以上に大きな感情があった。
安堵だった。
そして納得だった。
窓の外を見る。
青い空が広がっている。
その時、ふと思った。
もし不合格だったとしても。
きっと私は同じように窓の外を見ていただろう。
少し落ち込んだかもしれない。
悔しかったかもしれない。
でも。
挑戦したことそのものが消えるわけではない。
そう思えた。
一年前の私なら違った。
結果がすべてだった。
選ばれたか。
評価されたか。
成功したか。
それで自分の価値を測っていた。
でも今は違う。
私はすでに大切なものを取り戻していた。
その日の帰り道だった。
電車の窓に映る自分を見る。
少し疲れている。
でも穏やかな顔をしていた。
ふと気づく。
私が本当に欲しかったのは、
このプロジェクトだったのだろうか。
違う気がした。
欲しかったのは、
「また挑戦してみたい」
と素直に思える自分だった。
結果より前に、
そこへ戻りたかったのだ。
家へ帰る。
玄関を開ける。
すると娘が飛び出してきた。
「ママ!」
私は思わず笑う。
「どうしたの?」
娘は目を輝かせている。
「結果!」
そうだった。
家族も知っていた。
私は少し焦らしてみる。
「どうだと思う?」
娘はふくれっ面になる。
「早く教えて!」
私は笑った。
そして言った。
「受かったよ。」
一瞬静かになる。
次の瞬間。
娘が飛び跳ねた。
息子も意味は分かっていないはずなのに飛び跳ねる。
夫もキッチンから顔を出す。
「やったな。」
その声は驚くほど自然だった。
まるで自分のことのように。
私は家族の中心に立ちながら思う。
ああ。
幸せだな、と。
夕食の時間。
いつもと同じ食卓。
特別なご馳走ではない。
唐揚げとサラダと味噌汁。
でも今日は少しだけ特別だった。
娘が何度も聞いてくる。
「どんなことするの?」
「楽しみ?」
「緊張してる?」
私は一つずつ答える。
気づけば笑っていた。
昔の夢を語っていた頃のように。
未来の話をしていた。
久しぶりに。
夕食が終わった頃だった。
娘が突然聞いた。
「ねえ、ママ。」
私は顔を上げる。
「なに?」
娘は少し考えてから言った。
「ママの夢って何?」
その瞬間。
私は笑った。
一年前と同じ質問だった。
でも。
もう答えられなかった私ではない。
私は少しだけ考えた。
そして娘を見る。
息子を見る。
夫を見る。
みんな待っている。
私はゆっくりと言った。
「昔ね。」
娘がうなずく。
「夢って叶えるものだと思ってた。」
「うん。」
「だから、叶わなかった夢ばかり気にしてた。」
娘は黙って聞いている。
私は続けた。
「でも今は違う。」
「違うの?」
「うん。」
私は自然に笑った。
「夢って、自分らしく生きるためのものなんだと思う。」
娘は首を傾げる。
まだ難しいらしい。
私は言葉を探した。
そして言った。
「挑戦してみたいって思うこと。」
「好きだなって思うこと。」
「ワクワクすること。」
「そういうものを大事にしながら生きることかな。」
娘はしばらく考えた。
そして聞く。
「じゃあ今のママの夢は?」
私は迷わなかった。
一年前なら言えなかった言葉。
でも今は言える。
はっきりと。
「私らしく生きること。」
娘が笑った。
「それ、いいね。」
夫も笑う。
息子はよく分からないまま笑っている。
私はその光景を見つめながら思った。
そうだ。
私はようやくここまで来たのだ。
その夜。
子どもたちが眠った後。
私はいつもの手帳を開いた。
一年前。
私はここに書いた。
「今日の私に、合格を出そう。」
あの言葉が人生を変えた。
自分を責めることをやめた。
自分を許すことを覚えた。
そして今年。
私はさらに大切なことを知った。
自分を許しただけでは終わらない。
その先には、
自分の人生を生きるという旅がある。
白いページを見つめる。
静かな夜だった。
窓の外では夏の終わりの風が吹いている。
私はペンを取り、
ゆっくりと最後の一行を書いた。
「私は、私の人生の主人公でいい。」
書き終える。
涙は出なかった。
その代わりに、
深く穏やかな安心感があった。
もう誰かの脇役ではない。
母親であることも。
妻であることも。
管理職であることも。
全部大切な私だ。
でもその中心には、
ちゃんと「私」がいる。
これから先も迷うだろう。
失敗もするだろう。
立ち止まる日もある。
それでも大丈夫だった。
なぜなら私はもう知っている。
人生は誰かに与えられるものではない。
自分で生きるものなのだと。
私は手帳を閉じた。
そして小さく笑った。
今度は誰かのためだけじゃない。
今度は、
私の物語を生きていこう。
そう思いながら、静かに灯りを消した。
最終章 私の人生を、私に返そう
秋の風が吹いていた。
去年の今頃、私は毎晩のように手帳を開き、
できなかったことを数えていた。
足りなかったこと。
失敗したこと。
もっと頑張るべきこと。
そんな言葉ばかりを書いていた。
でも今、同じダイニングテーブルに座っている私は、
まるで別人のようだった。
窓から入る風は心地よく、
キッチンからは夫が洗い物をする音が聞こえる。
娘は学校の宿題をしていて、
息子はリビングの床で工作をしている。
特別な夜ではない。
何かが劇的に変わった夜でもない。
それでも私は、確かに違う場所へ来ていた。
新規事業開発チームの活動は始まっていた。
週に一度のミーティング。
新しい仲間たちとの議論。
未来の暮らしについて考える時間。
久しぶりに味わう高揚感があった。
もちろん楽しいことばかりではない。
時間は足りない。
仕事も忙しい。
家事も終わらない。
子どもは相変わらず喧嘩をする。
息子は宿題を忘れる。
娘は反抗期の入口に片足を突っ込み始めている。
人生は相変わらず思い通りにはいかない。
それでも。
以前とは決定的に違うことがあった。
私は、
「これが私の人生だ」
と思えるようになっていた。
ある土曜日だった。
娘の自由研究が学校代表に選ばれた。
発表の日。
娘は緊張しながらも前を向いていた。
私は客席から見守っていた。
春の娘なら、
失敗ばかり気にしていたかもしれない。
結果ばかり見ていたかもしれない。
でも今の娘は違った。
発表を終えたあと、
娘は笑顔で言った。
「緊張したけど楽しかった!」
私は思わず笑った。
どこかで聞いたような言葉だった。
そうだ。
あれはあの日の私だった。
社内公募に応募した時。
面談を受けた時。
未来へ一歩踏み出した時。
結果より先に、
挑戦できたことが嬉しかった。
帰り道。
娘と二人で歩いていた。
秋の空は高かった。
金木犀の香りが風に混じる。
娘が聞いた。
「ねえ、ママ。」
「なに?」
「ママ最近楽しそうだよね。」
私は少し笑った。
「前も楽しかったよ。」
娘は首を横に振った。
「ううん。」
そして少し考えてから続ける。
「前は幸せそうだった。」
私は足を止めた。
娘はさらに言う。
「でも今は楽しそう。」
その言葉に、
私はしばらく何も言えなかった。
幸せだった。
それは本当だ。
夫がいて、
子どもたちがいて、
仕事があって、
毎日があった。
でも私は、
幸せを守ることに夢中で、
自分自身を生きることを忘れていたのかもしれない。
幸せだった。
なのに、
どこかで誰かの人生を生きているような感覚があった。
母親として。
妻として。
管理職として。
立派であろうとすることで精一杯だった。
でも今は違う。
私は母親だ。
私は妻だ。
私は管理職だ。
そしてその前に、
私は私だった。
その日の夜だった。
子どもたちが寝静まった後。
私は久しぶりに、一年前の手帳を開いた。
ページをめくる。
そこには、
娘の作文。
息子の一言。
夫との会話。
久美さんの言葉。
たくさんの出来事が残っていた。
そして最後のページ。
そこにはこう書かれている。
「今日の私に、合格を出そう。」
私は指でその文字をなぞった。
あの日の私がいる。
誰よりも自分に厳しかった私。
完璧になろうとしていた私。
自分を置き去りにしていた私。
その私がいてくれたから、
今の私がいる。
私は静かに微笑んだ。
新しい手帳を開く。
白いページ。
これから先の人生が詰まっているような気がした。
私はペンを持つ。
何を書こうか考える。
昇進ではない。
資格でもない。
夢の実現でもない。
それらは素敵だ。
でも、それだけではなかった。
私はゆっくりと書き始めた。
娘の夢を応援したい。
息子の好奇心を守りたい。
夫と笑っていたい。
仲間の挑戦も応援したい。
そして、
私自身の人生も後回しにしない。
書き終える。
胸の奥が温かかった。
私はようやく分かった。
夢とは、
大きな目標だけではない。
夢とは、
どんな自分で生きたいかという願いなのだ。
時計を見る。
午後十時四十八分。
一作目の始まりと同じ時間だった。
私は少し笑う。
あの日の私は、
やり残したことばかり数えていた。
でも今は違う。
洗濯物は残っている。
学校のプリントも確認していない。
仕事の宿題もある。
それでもいい。
今日は十分だった。
そう思える。
私はページの最後に、
ゆっくりと一行を書いた。
「私の人生を、私に返そう。」
そして少し考えたあと、
もう一行加えた。
「今度は、私の物語を生きていこう。」
窓の外では秋の風が木々を揺らしていた。
人生はまだ続いていく。
迷う日もあるだろう。
立ち止まる日もあるだろう。
でも大丈夫だった。
私はもう知っている。
自分を許すことも。
自分を信じることも。
自分を生きることも。
全部、一歩ずつでいいのだと。
私は手帳を閉じた。
そして家族の眠る部屋へ向かう。
もう自分を置き去りにはしない。
大切な人たちと一緒に。
そして、自分自身も連れて。
私はこれからの人生を歩いていく。
ゆっくりと。
私らしく。
『家族には優しいのに、自分には厳しすぎる私へ2』 ― 完 ―
