『妻、小学生になる。』(主演:堤真一さん)を視聴して感じたこと
金曜の夜、子どもたちを寝かしつけたあとに、なんとなく再生ボタンを押した。
生まれ変わり、という設定だけ知っていて、ちょっと不思議なホームドラマなんだろう、くらいの気持ちだった。堤真一さんが出ているなら外れはないだろう、という程度の理由だ。夫は隣でスマホを見ていた。
一話だけ。そう思っていた。
結論から言うと、私はその夜、最終話まで一気に見た。一話で止まらなかった。二話の途中で夫が「先に寝るわ」と言って立ち上がり、私は「うん」と言いながら画面から目を離さなかった。三話で泣き始め、五話で泣きながらキッチンに立って水を飲み、六話でスマホの充電ケーブルを差し、七話あたりからは、もう自分がいつ泣き始めていつ止まったのかもわからなくなっていた。
日付が変わり、午前二時を過ぎ、三時を回った。
明日は土曜日だ、明日は土曜日だ、と自分に言い聞かせながら、止められなかった。
最初のうちは、残された父と娘のほうを見ていた。妻の貴恵さんを事故で失ってから十年、カーテンは閉まったまま、食卓には惣菜のパック。堤さん演じる圭介が、生きているのに生きていない顔で暮らしている。あの部屋を見て、私は正直、他人事みたいに思っていたのだ。ああ、母親がいなくなった家って、こうなるんだろうな、と。
気づいたのは、二話か三話のあたりだったと思う。
私は、貴恵さんのほうだ。
十年前に死んだ、あの妻の側なのだ。
そう思った瞬間、本当に息が浅くなった。私は残される側じゃない。いなくなる側なんだ、と。
想像してしまった。明日、私が交差点でいなくなったら。
夫は四十二歳。洗濯機の「おしゃれ着コース」を知らない。長男の給食袋が金曜の夜にランドセルの底で発酵していることも、長女の髪を朝結ぶのに何分かかるかも、知らない。習い事の月謝も、学童の申請の締切も、去年の担任の名前も。全部、私の頭の中にしかない。
でも、私を凍らせたのはそこじゃなかった。
「私がいないと回らない」という、ささやかな自負のほうが、崩れたのだ。
この家は、たぶん回らないんじゃない。私がいなくても、なんとか回ってしまう。ただ、回り方が変わる。あの父娘のように、ちゃんと食べず、笑わず、それでも十年生きてしまう。生きているけれど、生きていない。あの十年が怖かったのは、悲劇だからじゃない。地続きだからだ。
そして、帰ってきた貴恵さんがすることが、また泣かせるのだ。
十歳の女の子の姿で戻ってきた彼女は、抱きしめて泣いたりしない。叱るのだ。もったいない生き方をするな、ちゃんと食べろ、ちゃんと生きろ、と。小学生の口から出るその言葉を、堤さんが呆然と受け止める。死んだ人が、生きている人に一番言いたいことがそれなのだと思ったら、涙が出た。私だったら何を言うだろう。たぶん、同じことを言う。仏壇の前で泣かないで、早く寝て、朝ごはんを食べて、と。
九話で、貴恵さんが消える。
あそこで、私は一度、再生を止めた。止めて、ソファの背もたれに顔を押しつけて、声を出さないように泣いた。子どもたちを起こしたくなかったからだ。喉の奥が痛くて、鼻で息ができなくて、口で呼吸した。母親は、二度手放すのだ。一度目は突然に、二度目は自分の意志で。しかも二度目は、まだそこにいられることを知っていて、それでも帰らないほうを選ぶ。
そこから最終話に進む前に、私は五分くらい、真っ暗な画面の前でじっとしていた。
見たくない、と思った。でも見ないと終われない、とも思った。
最終話を見終えたのは、明け方の四時前だった。
エンドロールが流れているあいだ、私は泣いていなかった。泣けなかった、と言ったほうが正しい。もう涙が出なかったのだ。あんなことが本当にあったら、家族や私などうなってしまうのかと、現実とフィクションの間を行ったり来たりしながら思った。目の奥が熱いのに、頬に落ちてくるものが何もない。枯れる、という言葉は比喩じゃなかった。まぶたが腫れて重くて、目を開けているのがしんどくて、それでも画面から目が離せなかった。
そして、体が震えた。
寒いからじゃない。手が細かく震えて、リモコンを持ったまま止まらなかった。膝の上に置いても止まらなかった。あれは何だったんだろう。悲しみでも、感動でもなくて、たぶん、自分がいつか必ずいなくなるという事実に、四十年生きてきて初めて、頭じゃなくて、何かが体にぶつかった音だったのだと思う。
泣きながら、震えながら、考えていたのはこんなことだった。
私が家族に残したいものって、何なんだろう。
冷凍食品じゃなく手作りのお弁当だろうか。片づいたリビングだろうか。アイロンのかかったシャツだろうか。──違う。このドラマが突きつけてきたのは、もっと身も蓋もない事実だ。私がいなくなったあと、彼らに残るのは、私がいなくても、ちゃんと食べて、ちゃんと笑える力だけなのだ。
だとしたら私は、毎日何に必死になっているんだろう。
冷凍餃子を出した夜のあの罪悪感も、運動会のビデオを撮り損ねたあの後悔も、あの家族にとっては何ひとつ残らない。残るのは、私がどんな顔で食卓に座っていたか、それくらいなんじゃないか。
テレビを消して、子ども部屋を覗きに行った。
長女は、小学四年生だ。
──生まれ変わった妻が入り込む、あの女の子と、同じ年なのだ。
それに気づいたとき、枯れたはずの涙が、また一粒だけ落ちた。あの子の小さな体には、あの子の人生しか入っていない。当たり前のことなのに、それが急にありがたくて、怖くて、うれしかった。汗でおでこに髪を貼りつけて、口を開けて寝ている。六年生の長男は、いつのまにか私より足が大きい。
翌朝、私はひどい顔で起きた。まぶたが二重じゃなくなっていて、夫に「どうした」と聞かれて、「ドラマ見てた」としか言えなかった。
その日の朝も、私はきっと怒鳴った。早くして、また忘れ物、何回言ったらわかるの、と。それが現実だと知っている。
でもあの夜だけは、二人の布団を直して、しばらく暗い部屋に座っていた。
いなくなる側の話を、朝まで見てしまったから。
