ワーママの私が、家族から応援される側になった日
ママが会社に戻る日、うちの家族はいったん小さく壊れました。
朝早く、私が家を出る時間帯は、それまでの家族の時間とは別ものになりました。子どもたちの朝ごはんは前の晩から温めなおせるように準備して。夫に「朝、ゴミを出してください」と付箋を貼って。いろんなことを手放さないといけないんだと思いました。
でも、壊れたあとに、何か違う形で一緒になっていったんだと思うんです。
きっかけは、夫の一言でした。
ある朝、私が疲れた顔で朝食を食べていたとき、夫が「ママ、頑張ってるね」と言ったんです。別に大きな仕事をしたわけじゃなくて、ただ出勤しようとしていただけなのに。でもその一言で何かが変わった気がしました。
それまで夫は、私の仕事のことをあまり積極的に応援していませんでした。別に反対していたわけじゃなくて、ただそこにあるものくらいの扱いだったんです。朝ごはんを食べて、妻が仕事に行く。そういう日常のワンシーンくらいの認識だったのかもしれません。でも「頑張ってるね」と言われた瞬間に、何かが切り替わった気がしました。夫が初めて、私の働くことを「応援する対象」として見てくれたんだと感じたんです。
応援される側になることって、こんなに違うんですか。
でも同時に、その一言は重かったんです。
応援されるって、つまり「見守られている」ってことですね。応援する側になると、相手の行動を無意識に評価してしまいます。失敗してないか。無理していないか。本当に大丈夫か。そういう眼差しが、私にも向けられたんだと思いました。ありがたい。本当にそう思います。でも同時に、応援されるに値する働き方をしないといけないという、小さなプレッシャーも感じました。
それまで私は、自分で自分を激励していました。というか、自分で自分を責めていたのかもしれません。週3のパートで十分だと思っていたのに、なぜか毎日がフルタイムのように感じるのは、きっと自分が完璧を求めているからなんです。そう思って、自分を厳しく扱っていました。朝早く起きるのが当然。帰宅後にご飯を作るのが当然。子どもたちのお世話をするのが当然。そういう「当然」を積み重ねることで、自分を動かしていたんです。
でも夫の「頑張ってるね」は、そういう当然に疑問を投げかけてくれました。朝早く起きることは、当然じゃなくて、頑張ってることなんだ。帰宅後にご飯を作ることも。子どものお世話も。その「当然じゃない」という認識は、自分を少しだけ甘くしてくれたんです。でも同時に、その甘さに甘えられない複雑さも生まれました。
子どもたちにもゆっくり変化が見えました。
一番下の子は最初、私が仕事に行くことを理解していませんでした。「ママはどこ?」という質問が増えたんです。帰宅すると、抱っこをせがみました。その時間は切実で、申し訳ない気持ちに包まれていました。
でもある日、学校から帰ってきた子が、何気なく言ったんです。「ママは仕事で頑張ってるから」って。自分で自分を納得させるように。そして「だからママは疲れてるんだ。だから今日は自分で遊べばいい」と。
その判断の優しさに、私は涙が出そうになりました。
寂しさを感じながらも、その寂しさを「ママが頑張ってるから」という理解に転換する力。それは私が与えたものではなくて、子どもが自分で手に入れたものだったんです。子どもは成長していたんです。単に「ママがいない時間に慣れた」というのではなく、「ママが働くこと」を理解する力を獲得していたんです。
最年長の子とは、もっと複雑な変化がありました。
思春期の子どもは、親のことをあまり褒めないものです。むしろ小恥ずかしい存在だったり、不満の対象だったりするじゃないですか。でも、ママが働き始めたあと、その子が私に「すごいね」と言ってくれたことがあるんです。別に仕事の成果とかじゃなくて、朝早く起きて、仕事に行って、帰ってから家のこともやってる、という日々の営みに対して。
「何がすごいの?」と聞くと、その子は照れたように「だって大変じゃん」と答えました。
褒めてくれているのか、単に事実を指摘しているのか、その時点ではよくわかりませんでした。でもそれが、この子の精一杯の表現だったのかもしれません。思春期の子どもは、親の前で素直に感動を表現することって稀ですから。「大変じゃん」という、突き放すような言い方の中に、実は「ママの大変さに気づいた」という驚きが隠れていたんだと思うんです。
その返答の不器用さが、実は最高の褒め言葉だったんだってことに、あとになって気づきました。
「何がすごいのか」を説明できない。でも「すごい」と感じている。そういう矛盾を抱えたまま「大変じゃん」という、ぶっきらぼうな一言で表現するんです。それほど自然な褒め方があるでしょうか。大人のように「ママはすごく頑張っていて」と理屈で褒めるよりも、その子が発した「大変じゃん」の方が、ずっと深く、ずっと誠実だったんです。
それは褒めというより、「大変さの認識」だったんだと思うんです。それまで、子どもたちは「ママは家にいるもの」という前提で生きていました。その前提が変わったとき、初めて「ママってこんなことやってたんだ」と気づいたんです。つまり、私が家にいた時代の大変さも、今働いている時代の大変さも、両方が見えるようになったんです。子どもなりに、ママの人生の全体像が見えるようになったのかもしれません。
見えるようになったら、応援したくなったのかもしれません。
でも、ここで少し立ち止まったんです。
応援される側になったことで、私は家族の営みをより見つめるようになりました。そしたら、思わぬことに気づいたんです。
夫が「頑張ってるね」と言ってくれるようになったのは、もしかして、夫も誰かに応援されたい気持ちを持っていたのかもしれません。仕事をして、子どもたちの相手もして、という日々の営みの中で、「お疲れ様」の一言さえもらえない日常だったんじゃないか。だから妻が働き始めて、妻が頑張っているのを目撃したとき、妻を応援することで、間接的に自分も応援される側に入りたかったのかもしれません。
そう考えると、家族の中で何が起きていたかが少し見えた気がしました。
完璧に、いや、むしろ曖昧に。
家族の絆というのは、一緒にいることの濃さではなくて、互いの営みを「理解しようとする」こと——いや、完全には理解できないけれど、それでも見つめ続けることじゃないかと思うようになったんです。
統計では、ママが再び働き始めたあとに「家族の絆が深まった」と感じる人が60%以上だといいます。ということは、40%は「深まらなかった」か「変わらなかった」ということですね。その40%の家族は、何を感じていたんでしょう。単に「絆が深まらなかった」のか。それとも、別の形で結びつきが生まれたのか。それとも、元々の絆が揺らいだのか。
確かなことは、「絆が深まった」と感じた60%の中にも、私のように「応援される喜びと重さの両立」を経験した人がいるということです。深まったというより、複雑になったというべきかもしれません。
子どもたちも夫も、それまで「ママ」という役割を当然のものとして受け取っていました。でも働き始めたあとは、「ママってこういう人なんだ」と見直す機会が生まれたんです。完璧じゃない。疲れることもある。でも頑張っている。そういう「人間としてのママ」が見えるようになったんです。
その見え方の変化が、絆を作っているのかもしれません。
あるいは、単に別の形の依存関係が生まれたのかもしれません。
私も同じです。働き始めて初めて、「うちの家族はこんなにも私のことを応援してくれるんだ」と知ったんです。それまで見えていなかった家族の優しさが、働くという選択によって浮き彫りになったんです。
応援される側になることで、初めて自分がどれだけ応援されていたのかに気づくんですね。
でも同時に、その気づきは、自分も相手を応援し続けないといけないという義務感にも変わります。家族の営みを見つめ続けるということは、相手の期待や疲れも見つめ続けるということです。それは美しいかもしれませんが、重くもあるんです。
完璧なママになることをやめたら、見えるようになったものがあります。子どもたちの成長の姿。夫の優しさ。そして家族の中に「互いに見つめ合う」という新しい関係性。
でも同時に失ったものもあるような気がするんです。
「ママは完璧でなくていい」という認識は、逆に「ママは不完全で当たり前」という甘えにもなるのかもしれません。完璧さを手放したことで、自分にも家族にも、より高い責任感が生まれたのかもしれません。
朝、家を出る時に「ママ、頑張ってね」と子どもが言います。
その言葉を聞く度に、私は思うんです。ああ、うちの家族は、私が働くことを応認しただけじゃなくて、それを支える側に回ることを選んだんだ。そして私も、その支えられ方から何かを学んでいるんだ、って。
でも本当に「学んでいる」のか。単に「見ている」だけなのか。「見つめ合っている」のか、それとも「互いに目を逸らさないようにしている」だけなのか。
もしかしたら、その学びは子どもたちにも返ってくるのかもしれません。
家族の絆って、一緒にいることよりも、互いを見つめ続けることなのかもしれません。
でも、見つめ続けることで、何を失うのか。見つめ続けることで、何を得るのか。その両方が同時に起きている気がするんです。
小さな壊れから始まった、新しい形の家族。
それは、働くという選択がもたらした、予想外の贈り物だったんだって思ったりしています。
贈り物というより、宿命かもしれません。
あるいは、そのどちらでもなく、単に「家族の営みの、別の側面が見えるようになった」というだけのことかもしれません。
そんなふうに、私自身と私の家族を見つめ直しながら、毎朝、家を出ています。
