俺の隣りの変な奴
これ長文なので読書体力がある人だけ挑戦してみて下さい。
「俺の隣りの変な奴」
俺、朝倉吉蔵。34歳独身。空気清浄関係の機器を売る営業マンだ。役職は主任だが、それは名刺に飾りが無いと世間の信用度が落ちるためのもので、実際には部下もいないヒラ社員である。
ただ、そのことに不満は無い。
実は空気清浄関係と言っても、文系出身の俺は機器の仕組みまで完璧に分かっている訳ではない。客に詳しく聞かれたら即、技術屋に交代。「逃げの一手」だ。それでも営業が成り立つんだから、能天気な俺には向いているのかも知れない。
俺はいつものように外回りへ出る前、コーヒーを飲みながら鼻くそをほじりつつ新聞に目を通していた。するといきなり、課長からお呼びがかかった。
「ヨシ君、ちょっと」
俺にはちゃんと朝倉という名字があるのだが、この営業課に配属された時、自分から「ヨシ君と呼んで下さい」などと軽口を叩いたものだから、そのまま定着してしまった。後悔は無いが、34歳になってみると少々軽すぎるかなと思う時もある。
課長のもとへ行くと、そこには美形で小柄な、眼鏡をかけた女の子がいた。
「ヨシ君、君の助手。新入社員のイチミ君だ。宜しく頼む」
彼女は眼鏡の奥から、俺を値踏みするように言った。
「パートナーのイチミです。宜しくお願いします」
「初対面でいきなりパートナーって、ちょっと出すぎじゃねえか」
ヨシ君は思ったが、口には出さない。このイチミ、新入社員のくせに赤と緑のタータンチェックのミニスカートに、薄いグリーンのジャケット。
「この子、ちょっと違うんじゃねえか」
これも口には出さない。実のところ、このイチミはどう見てもキュートで可愛い。ヨシ君に断る理由はなかった。
ヨシ君は空いていた隣の机に彼女を案内した。するとイチミのヤツ、こう言いやがった。
「ここが私の席ね。ヨシ君、ありがとう」
俺のことを「ヨシ君」と呼びやがった。課長は俺のことをどう説明したんだ。
彼女は机を片付け、パソコンを慣れた手つきで設置した。
「クソッ、こいつ一人前に仕事ができるのか」
これも思うだけで口には出さない。実際、ヨシ君の前にもパソコンはあるが、交通費と接待の精算にしか使ったことはない。若いのに本当はデジタル音痴で、パソコンに睨まれるといつもそっぽを向いている。
彼女は何も言わずキーボードを叩き始めた。
「何してるの」
思わず俺は聞いた。
「一応、社内の各システムと繋いでおこうと思いまして」
涼しげにイチミは言った。
「クソッ、こいつ生意気に……もしかして『できるヤツ』か?」
俺にできたのは「フーン」と呆れ顔を見せることだけだった。
それなら外回りへ連れ出してやる。現場の厳しさで、俺の優位を見せつけてやらねば。ヨシ君の闘争心が燃える。
「イチミ、外へ出るぞ」
いつもなら二時間ほど事務所で時間を潰してから出かけるのだが、今日は違う。ダメ社員と思われたくない。
「イチミって呼び捨てはやめて下さい。それってパワハラですよ」
「何、最初から俺に逆らうのか。クソッ、下に見られてたまるか」
これも心の声だ。
「……ごめん。君のこと、なんて呼んだらいいかな」
「名字の相原でお願いします。できたら『さん』付けで」
「分かった。相原イチミさん、外回りへ行きますか」
辿々しく言った。
「分かりました、ヨシ君。……やっぱり私のこと、イチミ君で結構です。そう呼んで下さい」
「クソッ、なら最初からそう言えよ」
これも心で思っただけ。何せこのイチミ、可愛い。その時点で負けている。嫌われたくない心理がどこかで働いてしまう。
「ヨシ君、今日はどこへ?」
「私立葵学園の逸見教授の研究室だ」
「何しに?」
「何しにって、俺らは営業だぞ。普段のコミュニケーション、それに君を紹介しておくんだ」
イチミは何故かニコッと笑った。
逸見教授は執務室でパソコンと向き合っていた。
今日はアポも取っていない。研究に関係ない営業マンの訪問が歓迎されないのは分かっている。しかし、そこを乗り越えて懐に入らなければ仕事にならない。今日はイチミを紹介するという口実がある。もしかしたら教授も彼女を気に入ってくれるかも知れない。
ヨシ君は突然の訪問を躊躇しながら、執務室のドアを開けた。
「こんにちは、教授。実はうちに新人が入りまして、ぜひご紹介申し上げたくて」
「ヨシ君か、いいよ。今日は暇だから」
どうやら今日の教授はご機嫌だ。滅多にこういう場面には遭遇しない。営業マンが歓迎されることはそうあることではなく、うるさがられるのが常なのだ。
ヨシ君が紹介するまでもなく、イチミは自分で名乗った。
「相原イチミと言います。宜しくお願いします」
「イチミ君か。七味でないところが良いね」
逸見は珍しく冗談を言った。
「辛いかも知れませんよ」
イチミが返した。余計なことを言うなとヨシ君は焦る。
逸見教授は聞き流して、話を切り替えた。
「実はな、ヨシ君。仕事の話だ」
「えっ、仕事の話ですか。ぜひ聞かせてください」
こんなことは滅多にない。客の方から先に仕事の話が出るなんて。
「このイチミ、福の神か?」と心の中で思う。
「実はね、チーズを作りたいんだ」
「チーズ、ですか」
「新種のチーズさ。これがちょっと難しい。ある大手食品メーカーの依頼なんだけどね」
「ホントかね。教授のヤツ、ワイン好きだから自分用のチーズでも作るつもりじゃねえの」
ヨシ君は卑屈に勘ぐった。
「面白そうですね。スペックを教えてください」
イチミはもうヨシ君の前に出ている。逸見教授は続けた。
「実はね、チーズを作ろうとすると恒温恒湿が求められるんだ。例えば温度が低すぎると発酵が遅れるし、高すぎると異常発酵や腐敗のリスクがある。湿度が低いと乾燥して表皮が硬くなり、亀裂が入る原因になる。湿度が高すぎるとべたつきやダレの原因になる場合もあるってわけだ」
「それで、恒温恒湿の機器が必要ってことですね」
ヨシ君の出番は無い。すべてイチミが聞いている。
「温度と湿度のスペックを教えて下さい」
イチミが畳み掛ける。ヨシ君の立場は無い。
「機器のサイズやスペックはこの書類に書いておいた。見積もりを頼むよ、ヨシ君」
そう言って教授は紙を差し出した。
「やっと俺の出番だ」
ヨシ君は手を伸ばしたが、受け取ったのはまたしてもイチミだった。この野郎と思ったが、客の前で喧嘩はできない。
「すぐに持ち帰って、技術の者と相談します」
やっとのことで、ヨシ君が教授に告げた。
教授は付け足した。
「君なら分かっていると思うけど、恒温恒湿ってのは相矛盾した関係にあるんだよ。その辺、分かってるね?」
「大丈夫です。うちの技術を信頼して下さい。その矛盾、必ず解決しますから」
ヨシ君は頭を下げた。
「まあ、安く頼むよ」
教授は最後にそう言った。その言葉でヨシ君は察知する。
「恐らく教授はうちだけでなく、他の業者にも見積もりを依頼している。これは勝負だ」
「なるべく早くね」
「先生、できればご予算を聞かせていただけたら……」
「それは俺の口から言えないのは分かってるだろ。入札に関わる」
「ですよね。ただ、見積もりを出す上で上限だけでも……」
教授の目が光る。
「そうだな、3千は超えるな。言えるのはそこまでだ。分かるだろ、ヨシ君」
「分かりました、充分です。技術にもそのように伝えます。ありがとうございました」
「また来ます! 宜しくお願いします」
イチミが馴れ馴れしく言う。教授は微笑んだ。
ヨシ君とイチミは礼をして執務室を後にした。
「ヨシ君、やったね!」
「ダメだ、この女は分かっちゃいない。この勝負、かなり難しいんだ」
心の中で毒づく。
イチミはヨシ君の三歩前を楽しげに歩いている。その軽やかな足取り、程よくカットされたボブヘアー、ミニスカート。どれもヨシ君には眩しい。
「へんな奴とコンビを組まされたもんだ」
今度は小さく呟いた。
技術部で分厚い眼鏡を掛けた五十代、いかにも「技術屋」という風貌の男がいた。名前は木屋。ラフな黒のジャージ姿でドラフターに向かっている。
後ろに立っていたヨシ君とイチミに目をやり、苦笑した。既に二人が持ってきた難題に気付いている。
「ヨシ君、また変な仕事取ってきたんだろ。まあいいや、話してみな」
「実は、このスペックなんですけど」
イチミが書類を差し出す。
「おっ、可愛子ちゃん。新入りかい」
イチミはちょっと膨れて言った。
「可愛子ちゃんっていうのは、パワハラですか? それともセクハラ?」
ヨシ君が軽く止める。
「紹介が遅れました。新人のイチミ、俺のアシスタントです」
「いえ、パートナーのイチミです」
余計なことを、とヨシ君は思う。
「そうか、俺は木屋だ。何でも相談してくれ。可愛子ちゃんには弱いんだ」
木屋は笑った。イチミが何か返そうとしたので、ヨシ君が片手で口を塞いだ。
「実は、チーズの恒温恒湿室なんですけど」
木屋は眉をひそめた。「ただのクリーンルームじゃなさそうだな」
木屋は書類をめくった。チーズ発酵の最適温度は8~15℃程度、湿度は85~95%以上。低湿度では乾燥し、高すぎるとカビを招く。低温・高湿度が鍵だ。
「この低温度・高湿度ってのが難しいんだ。おまけに雑菌なしか」
「そうなんです。下手な加湿器は使えません」
「へえ、そんなに難しいんだ」
今更理解したイチミも呟く。
「心配するな、俺は天才だ。なんとかしてやる。ただし、この装置は高くなるぞ。客の説得はヨシ君、君の仕事だ」
「一応、3千が限度らしいんだけど、なんとかなりますか?」
「するよりしょうがないだろ。これは『直接膨張式』で行く。建屋も特注、全体がクリーンルームだな」
「何ですか、その直接膨張式って」
イチミが聞いた。木屋が応じる。
「直接膨張方式(直膨式)ってのはな、冷媒を用いて直接空気を冷却する方式だ。冷却・除湿と加熱・加湿を行い、温度と湿度をコントロールする。まず室内の空気を冷却コイルで冷やして除湿する。その後、再加熱ヒーターで設定温度まで温め直し、加湿器で湿度を調整するんだ。複雑なセンサー配置でコントロールが可能になる。まあ、そういうわけだ。分かったか?」
イチミに理解できるはずもない。仕方なく、とぼけて天井を見ている。
「イチミ、やめとけ。木屋さんに任せとけばいいんだ」
「私たちは後、どうすればいいんですか?」
「俺たちはな、逸見教授が俺たちの他にどこの会社に見積もりを出したか探るんだ。それからが営業の勝負だ」
「そんなこと、できるんですか?」
ヨシ君は頷く。「ここからが仕事だ」
仕事には常に、競争相手が待っている。
「多分、話し合いだ」
「話し合いって何です?」
イチミは業界の裏側を知るはずもない。
「談合さ」
「えっ、それって違法なんじゃ……」
イチミには答えない。
「行こう」
ヨシ君が歩き始めた。イチミが今度は三歩下がってついてくる。残された木屋は、再びドラフターを睨んだ。
「ちょっと俺は出かける。今日は直帰だ。君も適当に帰れ」
「えっ、パートナーの私を置いてけぼりですか?」
捨てられた子猫のような顔。
「連れていけない場所もあるんだよ」
「じゃあ、私は何をすれば?」
「DMだ。パンフレットを送ってくれ」
「どこに送ればいいんですか」
「歯科医院のリストを手に入れて集中的に郵送しろ。歯医者はな、小さい割に治療台が分かれてる。だから治療室ごとに空気清浄機がいるんだ。一件クリニックを当てたら商売になる」
「へえっ、そうなんだ」
まだイチミは不満顔だ。
「後は電話番。いいな」
ヨシ君は上着を肩にかけ、背を向けた。
「格好付けちゃってさ」
イチミはヨシ君の後ろ姿に呟く。
気付くと、横に課長が立っていた。
「久しぶりにヨシ君、やる気になったみたいだな。こりゃまた経費がかかるぞ」
課長は苦笑いしている。イチミには何のことか分からないが、何かが始まっていることだけは伝わった。
「しゃあない、DMでも送るか」
独り言を言ってパソコンに向かう。歯科クリニックの検索だ。
それから三日が経った。ヨシ君は会社に出てこない。イチミはDM作成に飽きて、作業は滞っている。
その時、技術部の木屋が大きな図面ケースを持って現れた。頬はコケ、髭面になっている。
「おはようございます、木屋さん。大丈夫ですか?」
「徹夜が続いたからな。……ヨシ君は?」
「それが、情報収集とか言って会社に出てこないんです。まったく」
不満をぶつけるが、木屋は相手にしない。
「じゃあ君でもいい。逸見教授のところへ案内してくれ。設計の説明に行きたい」
「えっ、私でいいんですか?」
「当たり前だ、君も営業だろ。俺は疲れてるんだ。説明が終わったら早く寝たい」
頼りにされたイチミは舞い上がる。
「ちょっと待ってください、急いで化粧直してきますから!」
「面倒くさい女だな」
木屋の言葉は聞こえていない。それでも化粧室から戻ったイチミは急ぎ逸見教授にアポを取る。横を見ると、木屋がヨシ君の椅子に座って寝ていた。
「木屋さん、起きて! 教授が待ってるわ」
起き上がった木屋は大筒(図面ケース)を肩に、イチミに従った。
「こんな時にヨシ君の野郎、どこで何やってるんだ」
一瞬、イチミはそう思った。それを見透かすように木屋が言う。
「ヨシ君はヨシ君で頑張ってるんだ。彼を責めるな」
二人は葵学園、逸見教授のもとへ向かった。
その夜、ヨシ君は夕陽ヶ丘の飲み屋にいた。暗い片隅で初老の小太りな男と向き合い、鯵の叩きをつまみながらコップ酒に口をつけた。小太りの男は雀荘の主人、戸木田(トキちゃん)という。
「ヨシ君、まだ営業中だぜ。あんたとの仲だから付き合うけどよ」
酒好きの戸木田は別に嫌がっているわけではない。
「まあそう言うなよトキちゃん。ちょっと話を聞かせてくれりゃあそれでいいんだから」
実は戸木田の雀荘は空調関係の営業マンの溜まり場だ。各社、秘密を抱えた似た者同士が憂さ晴らしに集まってくる。情報収集には持ってこいの場だ。集まる人間はお互いそれを知っている。肝心なことは誰も言わないが、言葉の端々を繋ぎ合わせればストーリーが見えてくる。その情報を繋ぎ合わせるのが、この戸木田の親父だ。
「葵学園の逸見教授の話、何か知らないか?」
「いや、余り噂にはなっていないと思うな」
トキちゃんはとぼける。
「分かったよ。少ないけどこれ、取っておいてくれ」
ヨシ君は懐から郵便封筒を取り出し、トキちゃんに渡した。戸木田は中を覗いて不満顔。一万円札が五枚しか入っていない。
「これだけかよ」
「しょうがないだろ、デカい仕事じゃないんだからさ」
「しょうがないな……じゃあ一つだけ」
「勿体ぶるなよ、早く言え」
「三津浦が、この仕事を欲しがってる」
「何っ、三津浦って言ったら大手の部長じゃねえか」
「アイツも麻雀好きでな、うちはよく来るんだ。葵学園に宝物が眠ってるって知ったかぶりしてたぜ」
「他に何か?」
「そうだな、逸見教授と懇意だとか自慢してたな。皆に手を出すなと脅してるようなもんさ」
「参ったな……三津浦か。厄介な奴が絡んできたな」
「まあそんなとこかな。ヨシ君、ブリ刺し頼んでいいか?」
「聞くなよ、何でも食ってくれ」
ヨシ君はコップ酒を睨んだ。
「だが、この仕事は俺が取る。逸見教授の当て馬にはならない」
翌朝。イチミが出勤すると、既にヨシ君が椅子に座ってシェーバーで髭を当たっていた。
「髭くらい自分の家で剃ってきたら?」
イチミが嫌味を言う。
「DM、ちゃんとやってるか?」
ヨシ君はとぼけて返さない。その時、離れた席から課長がヨシ君を呼ぶ。
「おはようございます、課長。何か?」
「何かじゃないよ! 出勤はしない、経費も訳のわからん物を請求してるらしいじゃないか。経理から言ってきたぞ」
「すみません、今度の仕事には私の意地がかかってるもんで」
「私的な意地で経費を使っちゃまずいんじゃねえか」
「……課長。この仕事、次があるんです」
「次って何だ?」
「実は、逸見教授に研究を依頼している大手食品会社、本気みたいなんです。教授の研究が進めば、食品会社は本格的な工場を作るはず。俺の狙っているのは、そこなんです」
「そこが本命ってわけか。ただ、当てにならんな」
「賭けるしかないんです。俺の勘を信じてもらえませんか」
「お前の勘か……余計危ないな」
「ダメですか?」
ヨシ君は声を低め、課長を睨みつけた。
「……分かったよ。怖い顔するな。俺が上に話を付けてやる。やるだけやってみろ」
「我儘言ってすみません」
ヨシ君は頭を下げた。もう負けられない。ヨシ君は燃えていた。
葵学園の掲示板に「発酵実験室公開入札」の張り紙が出された。入札参加業者は五社。ヨシ君の会社、三津浦の所属する大手、あとは中堅の三社だ。
ヨシ君とイチミは二人で掲示板の前にいた。ヨシ君の肩を叩く者がいる。振り返ると、大手の三津浦部長だった。
「ヨシ君、宜しく頼むよ」
自信に満ちている。
「こちらこそ」
ヨシ君も笑顔で答えた。
「レストラン『アカシア』の二階でどうだ? 皆には俺の方から連絡を取る」
三津浦は密やかに囁いた。
「分かりました。宜しく」
三津浦は足早に去っていく。
「何、話してたの?」
イチミには聞こえなかったようだ。
「仲間で飯食おうってさ」
「なんか楽しそうね」
「ああ、楽しいさ」
ヨシ君は不敵に笑った。
その前夜、ヨシ君はスナック「7%」にいた。店名は、ママが「一度来た客の7%がまた帰ってきてほしい」という願いを込めたものだ。
後から来てヨシ君の横に座った熊田が言う。
「俺はバーボンのロックだ。7%は勘弁してくれ、水を飲みに来たわけじゃない」
「分かったわ、クマさん。濃いのが好きだもんね」
ママが媚びるように笑う。
「悪いな、呼び出して」
「構わねえよ。どうせ明日の話し合いのことだろ」
クマさんは業界の名物男だ。かつて談合を疑われ黙秘を貫いて釈放されて以来、一目置かれている。だがヨシ君は知っている、彼が近所の子供たちに野球を教えている優しい男だということを。
「クマさん、明日の仕事、立候補するのか?」
「今の所はそのつもりだ。まあ、ヨシ君の話を聞いてからだな」
「じゃあはっきり言うけど、降りる意志もあるんだな」
「条件次第だ」
ヨシ君は腹を決めた。
「明日の最大の問題は三津浦部長だ。アイツは簡単には降りない。……クマさん、言い難いんだが、明日は俺に取らせてくれないかな」
「随分とご執心だな」
「本当のことを言おう。この仕事、次があるんだ」
ヨシ君は食品工場の可能性を話した。
「なるほどね。ただ、実現するかどうかは賭けだな」
「そうだ。俺は、夢に賭けてみたい」
「分かった、ヨシ君。それで、条件は?」
「俺は『実績』が欲しい。だから、もしこの仕事を受けたら、まるごとクマさんのところに仕事を譲る」
「成程。ヨシ君とこの設計図で、うちは施工だけを請け負う『隠れ下請け』ってわけか」
「そういうことだ。利益は山分け。これでどうだ?」
「難しい注文だな……だが、いいだろう。ヨシ君の側に立とうじゃないか。相手は三津浦だ、どうなるか約束はできないぜ」
「ありがとう。クマさんが味方なら百人力だ」
「言っとくけど、利益7%じゃ困るぜ」
ママが話がついたと判断し、割って入った。
「難しい話は終わり。さあ飲みましょ、二人とも!」
ママは笑った。
「イチミ、留守番頼むぜ」
「ダメよ。また呼び捨てにして。今日は逃がさない、私ついていくからね」
「馬鹿言うな。女の子が行く所じゃない。下手すりゃ捕まるんだぞ」
「脅かしたってダメ。私はパートナー。女厳禁なんてルールあるの?」
イチミは食い下がる。そこへ課長が来た。
「ヨシ君、連れていってやれ。営業ならいずれ経験することになる。仕事なんだからさ」
「でも課長……」
「連れていけ。命令だ」
課長の意図は分からないが、従うしかなかった。
「いいか。何も言うなよ。挨拶以外は口にテープ貼っとけ」
「うん、うん」
イチミは声を出さずに頷いた。女連れで談合に行くなんて、一体どうなるんだ。
「よし、ついてこい。設計図忘れるなよ」
イチミは設計図の大筒を胸に抱いた。ヨシ君はスーツに手を通した。
「さあ、行くぞ」
レストラン「アカシア」。白い天井の高い部屋に、オレンジの小さな造花がアクセントになっている。
部屋には既に三人の男がいた。
「女連れって、二人で一人前か?」
皮肉を込めて三津浦が言う。
「二人三脚、二人で一人だ。こいつは何も言わせないから同席させてくれ」
ヨシ君はやむを得ずイチミを紹介した。
「もう一社はまだか?」
「アイツは降りるそうだ。もう帰ったよ」
矢沢が不機嫌に言った。
「アイツって柳下か?」
クマさんが聞く。
「柳下は何かあるのか」
「アイツは『潜水艦』だ。一人で潜る(安値で入札する)かもしれない」
「潜るって何?」
イチミが囁く。
「安値で仕事を持っていく泥棒みたいなもんだ。黙ってろ」
柳下を無視して、話し合いが始まった。メンバーは熊田、三津浦、矢沢、そしてヨシ君とイチミだ。
ウェイトレスがコーヒーを配る。
「さっさと話を付けようぜ」
矢沢が急かし、クマさんが議長を買って出た。
「この仕事の希望者は挙手を」
全員が手を挙げる。
「イチミ、お前はいいんだよ!」
ヨシ君にたしなめられ、イチミは舌を出して黙った。
「じゃあ始めよう。誰から行く?」
「俺から行かせてくれ」
ヨシ君が先手を打った。
「実は逸見教授の依頼で、この仕事の設計を引き受けた。この図面はうちの技術屋が書いたものだ。従って、今回はうちにやらせてほしい」
イチミから図面を受け取り、テーブルに広げた。
クマさんが助け舟を出す。
「図面があるのは決め手だな。俺は降りるよ。どうだ、皆は?」
普通ならこれで決まりだ。しかし、三津浦がニヤリと笑った。
「ヨシ君。悪いが、図面は俺も持っているんだ」
三津浦も大筒から図面を広げた。
「何っ!」
テーブルには、全く同じ図面が並んだ。
一瞬の沈黙。議長のクマさんが二つの図面を見比べた。
「ヨシ君のが真筆で、三津浦さんのは『写し』だな」
「写しだからこそ価値がある」と三津浦が主張する。「逸見教授は『この通りにやってくれ』とうちの営業に渡したんだ。書いたのは君のところかもしれないが、指名されたのはうちなんだよ」
「そりゃおかしいんじゃねえか。実際に頑張ったのはヨシ君とこだろ」
クマさんが応援するが、三津浦は譲らない。
「ご苦労様だったが、頼まれたのはうちだ」
「アンタ、何を言ってるの!」
イチミが爆発した。「冷却コイル、再加熱ヒーター、加湿器……それをクリーンルームでコントロールするのがどれだけ難しいか分かってるの? 図面があったって、活かせる技術屋がいなくて仕事ができると思ってるの!」
「ヨシ君、この女の子を黙らせろ。話し合いに施工の話なんか関係ないだろ」
「待てよ、三津浦さん。この図面を納品したのはこの子だ。教授の意向を一番知っている。黙ってろ、はないだろ」
「まあ、熱くなるな」
クマさんが宥める。今まで黙っていた矢沢が声を上げた。
「矢沢さんも手、挙げてたよな。根拠はあるのか?」
クマさんが振ると、矢沢は自信満々に言った。
「あるさ。皆さんは逸見教授のことばかり言っているが、学園の意向はどうした? ……購買部長だよ。俺のところでやってくれと、入札価格を漏らしてくれたんだ」
「何っ、天の声が出てるってのか?」
三津浦が色めき立つ。
「脅しじゃねえよ。俺のところが落札しないと、お前ら恥をかくぜ」
クマさんも思案に暮れる。
「……本当に購買部長が言ったかどうか、確かめたらいいじゃない!」
またイチミだ。無理を言う。
「……いや、この際だ。それをやってみようじゃないか」
ヨシ君が決心して皆を見回した。
「どうすんだよ」
「『猫の首に鈴』を付けに行くのさ」
三津浦、クマさん、矢沢、ヨシ君、そしてイチミ。
五人はレストランをキャンセルし、葵学園の購買部カウンターの前にいた。
ヨシ君は意を決して、三津浦と矢沢に言った。
「名刺を用意してください。購買部長に選ばせるんです」
二人は顔をしかめたが、ここまで来たら従う他ない。立ち入り無用のプレートを無視し、一番奥の席に座る購買部長の前へ進んだ。周りの職員は何が起こったか分からず呆然としている。
女性の購買部長も一瞬、困惑した顔を見せた。
三津浦、矢沢、ヨシ君の三人は、黙って机の上に名刺を置いた。
「発酵実験室の件です」
ヨシ君が短く伝えた。部長はすべてを理解した。
沈黙が支配する。ほんの二十秒ほどだったろうか。購買部長はゆっくりと手を伸ばし、中の一枚の名刺を手に取ると、開けていた引き出しの中へと落とした。
「……ありがとうございました」
三人は頭を下げ、引き下がった。購買部長は背を向け、窓の外を見ていた。
五人は建物の外に出た。
「……負けたよ」
三津浦がぼそっと言った。
「俺もだ」
矢沢も足早に立ち去る。
最後にクマさんが言った。
「勝ったのは、彼女みたいだな」
ヨシ君はイチミの肩に手を置いた。「ありがとうございました」とクマさんに頭を下げる。
ヨシ君は確信していた。そうだ、勝ったのはイチミだ、と。
翌朝。ヨシ君は机に座って新聞を読みながら、鼻くそをほじっている。
遅れてイチミが出社してきた。
「ヨシ君、汚いからやめてよ!」
俺の隣の変な奴が言った。
(完)
by Konoe73
