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書きたいことと、求められてることは違う。「求められてると思うこと」もまた違う。だから、書くことは難しい。【noteの書き方 / 創作 / エッセイ / 画像生成AI】

noteを書き続けていると、自信のあった記事なのに反応がイマイチなことってあったりしますよね。
あるいは、「まあ、もうこれでいいや」って妥協した方が反応が良かったり。

その度に、書くことって難しいなって思う。


もちろん、「自分が書きたいこと」と「読み手が求めてるもの」って、違う。
それは、noteではよく言われることですし、というより創作一般がそうですよね。
なんの変哲のない日記を、起伏なく書いたって、有名人じゃなきゃ読まれないわけで。

だから、「読み手が求めてる」ことって何なのかと推測して、書いていく
読み手のペルソナと、そのニーズを仮定して。
その上で、テーマを選んで、構成を作る。

もちろん、この記事もそうですし。


でも、そこまでしてもやはりズレるんですよね。

ここがスゴく難しい。
難しくて、悩ましくて、けれど書くことの面白い部分ですよね。




推測は読み手の意向からズレていく

​この難しさって、認知の二重のズレにあるのかなと思うんですよね。

読み手が真に求めているものは当然分からない。
心の内を覗くことはできないですから。
だから、「読み手が求めているであろうこと」を、仮説を立てて、推測していく。

その推測の過程で、実際に求めていることからズレてしまう。
こういったズレが生まれてしまう要因って幾つかあるんですよね。

思うに、①内容への偏重、②指標の過大評価、③サンプルの偏り、そして④自分の願望が混じってしまうからです。

ひとつずつ見ていきましょう。


① 内容への偏重:価値は「内容」だけに宿っていない

まず一つ目。
内容への偏重ですね。

読み手が求めているのは、実は、必ずしも「内容」そのものではなかったりします
でも、書き手側はどうしても、内容に寄せて考えてしまう。
内容のほうが分析したり、考察したりしやすいからですね。


たとえば「noteの書き方はこうした方がいいよ」という記事を書いたとします。
下記みたいなやつとか。


書き手としては、どのノウハウを入れるか、どう体系化するか、どこまで具体的に書くか。
そういった内容面に力を注ぐ。


もちろん、それは大事なのだけれど、読み手が価値を感じているのは、必ずしもノウハウとかの情報の部分とは限らなかったりする

その文体や論じ方が安心できるとか、情報がうまく整理されて自分の中でつながったとか、視点の置き方が共感できるとか、そういった読むこと自体の体験のが価値になっていることも多い。

実際、私も内容というよりも、文体だったり安心感でフォローすることは結構あったりするんですよね。


ただ、書く側からすると、そこを数値化することはできない。
そもそも価値があるとは捉えられなくて、盲点になってしまっていることも多い。
だから、「noteの書き方」が受けたなら、さらに内容を充実させたら価値が上がると勘違いしてしまう。

そうして、内容としては濃い記事ができたけれど、読み手がもともと求めていた「内容以外の部分」が薄れてしまい、すれ違ってしまう。



② 指標の過大評価:数字は「需要」だけを測っていない

二つ目は、指標の過大評価です。

noteの指標って、ご存じの通り、大したものがないんですよね。
スキ数、ビュー数、コメント数くらいしかない。
そして、見えるものが少ないからこそ、見えるものに引っ張られやすい


スキ数が伸びた、あるいはビューが増えたとかがあると、どうしても「これは正解だ」と思ってしまったりする。

これも正しい場合もあるけれど、読み間違う可能性があったりします。
今までやってきた感じだと、これらの数字には外的要因がかなり混ざります

たとえば、公開するタイミング(曜日・時間帯)だったり、その日のおすすめ欄の状態、note外からの流入だったり。

こういう要素が絡むと、本当の需要とは別に伸びてしまったりする。
あるいは逆に、数字上はあまり伸びていないのに、刺さっているパターンもあったりするんですよね、きっと。


ただ、こういうのって見えにくい。
だから見えやすい指標にとらわれて、実際の需要を読み違える
そして、次の手がズレていく。

数字は便利だけど、まやかしみたいなときはあるものです。
というか、これは書くことに限った話でもないかもしれませんね。



③ サンプルの偏り:「見える読み手」は全体像を反映していない

三つ目は、サンプルの偏りです。
分かりやすいのが「コメント」ですね。

コメントをもらえるのは本当に嬉しいし、ありがたいことです。
身の丈に合ってない評価を貰えると戸惑うときもあるけれど、書いてよかったと思えるし、会話も生まれますよね。


ただ一方で、「コメント=読者全体の反応」でもない

そもそも大多数の人はコメントもしないし、スキすら押されなかったりする。
8割くらいの人は読むけれどリアクションするわけでもなく、「なるほど」とか「それは違うんじゃないか」とか、自分の中で思うに留める。

それでも、実際はリピートしてくれる人もいたりするわけですよね。


コメントしてくれる人は大切だけれど、同時に偏りもある。
だから、その意見に寄せたくなるけれど、寄せすぎると大多数からズレる可能性もある

ただ、これはかなり難しい。
そもそもリアクションしない層の実需要が読めないし、仮にそれが分かったとしても、どちらに寄せるのが正しいという話でもないから。

広く刺さる記事も必要だし、深く刺さる記事も必要。
ただ、「見える読者」だけで判断すると、踏み外すことはあるんじゃないかと感じる。



④ 自分の願望が混じる:根拠のない推測が自己像を補強する

最後。
自分の願望が混じってしまう

これが一番見えにくくて、おそらく一番よく起きていて、一番痛いところですね。

ここまで書いたように、読み手が求めているものって、明確になることってあまりないんじゃないかと思います。
数字を色々集めたり解析したところで、そんなに根拠がなかったりする。


なので推測しているつもりであっても、自分の願望が混ざる余地が大きかったりします
「自分はこう思われているはず」とか「こういうふうに評価されたい」という願望が入ってしまう。

信じたいことを、やはり信じてしまう。
でも、それは実際の需要を見ていない。

読み手の求めているものを推測しているはずが、いつの間にか自己像の補強に変わる。
これもニーズからズレていく要因ですね。



だから、調整を重ねる

ここまで書いてみて思うのは、推測が外れるのは、努力不足よりも構造的なことや心理的なことが大きいです。

読み手が求めているのは内容だけじゃないのに、内容で考えてしまう。
数字は便利だけど、外的要因が混ざってしまう。
見える読者像は偏っていて、反応なく読む大多数は見えない。
そして最後に、自分の願望が混ざる。


だから、当てに行くのは難しい。

ズレてしまっても仕方ないと割り切りつつ、それでも「見える材料」と「見えない材料」を集めていって、少しずつ調整を重ねていくしかないのかなと思います。

私がよくやるのは、記事を書く前に、内容と読み心地のどちらを主役にするか決めてしまうことですね。
読み心地を少し落としても、内容厚めにしたらどうなるのかとか。

こういうのは、一記事ではわからなくても、ずっと続けていくことで見えてくるものがあるはずです。


というわけで、この記事も刺さるかどうかは正直分かりません。
ただ結果を受けて変えていくしかないかなと思います。


それではまた。


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