見出し画像

『再会の雨、秘密の鍵』/『鍵を返す夜』続編

閉じた扉の、その先で

月白堂の閉店時間を過ぎても、雨は止まなかった。三十二歳の紗季は、レジ脇に置いた傘を見たまま、帰ると言い出せずにいた。棚の向こうでは、三十五歳の蓮が最後の灯りを落としている。

二人が「急がない」と約束してから、四週間が過ぎていた。

週に一度、仕事帰りにこの店へ来る。コーヒーを飲み、古い本について話す。触れそうになれば笑って距離を取り、帰り際には短い口づけだけを交わす。
それは慎重で、幸福で、少しだけ苦しかった。もう誰かを欺いているわけではない。それでも、長く押し殺してきた想いに名前を与えることは、簡単ではなかった。
「タクシー、呼ぼうか」
蓮が言った。
紗季は窓の外を見た。濡れた夜道に、赤いテールランプがゆっくり流れている。
「……もう少し、ここにいてもいい?」
蓮の手が止まった。
「もちろん」
「違うの…」
紗季は自分でも驚くほど静かな声で続けた。
「店じゃなくて。蓮のそばに」
雨音が、急に遠ざかった気がした。
蓮は何も言わず、紗季の前まで歩いてきた。
紗季の顔を見つめるその眼差しには、欲しがる前のためらいがあった。

「紗季。今夜のことを、後悔させたくない」
「後悔しない」
「本当に?」
「本当」
彼はすぐには触れなかった。
あの夜からずっとそうだったように、紗季が自分で選ぶまで、手を伸ばさなかった。
紗季は一歩近づき、蓮の胸元に指を置いた。
シャツ越しに伝わる鼓動が、思っていたより速い。
「私に、鍵を貸して」
蓮は息を呑んだ。

月白堂の二階には、彼がひとりで暮らす小さな部屋があった。古書店を開くと決めたとき、生活のほとんどをここへ移したのだと、以前聞いていた。
鍵の束から、彼は銀色の鍵を一本だけ外した。「この扉を開けたら、途中でやめてもいい」
「うん」
「嫌だと思ったら、必ず言って」
紗季は微笑んだ。
「蓮も」
階段を上がるあいだ、二人は触れなかった。
けれど背中に向けられる視線だけで、肌が熱を帯びていく。
部屋に入ると、蓮は扉を閉めた。鍵をかける音が、小さく響く。

紗季が振り返るより先に、蓮の手が彼女の頬を包んだ。親指がこめかみの髪をそっと払う。その優しさに、胸の奥の緊張がほどけた。
口づけは、最初から深かった。

唇を重ねるたび、これまで何度も止めてきた時間が、一息に流れ込んでくる。蓮の指が首筋をなぞり、耳の後ろで一度ためらったあと、そこへ熱を落とした。
紗季は思わず目を閉じ、彼のシャツを掴んだ。「……嫌じゃない?」
唇が離れた隙間で、蓮が囁く。
「もっと、近くにいて」
それだけで十分だった。
蓮の指先が、紗季のブラウスのいちばん上のボタンに触れた。外す前に、もう一度だけ目を見た。
紗季は頷いた。
ひとつ、またひとつ。急ぐことなくほどかれていくたび、夜気に触れる肌が増えていく。鎖骨に落ちた蓮の唇が、まるで長い年月を埋め直すように、ゆっくりと熱を残していった。
彼の手のひらは、背中の素肌に触れてもなお、問いかけるように静かだった。
紗季はその手を取って、自分の腰へ導いた。
「怖い?」
「少しだけ」
「じゃあ、ゆっくりにする」
「違う。……怖いのは、こんなに幸せでいいのかなって」
蓮の表情が、苦しそうに歪んだ。けれど次の瞬間には、紗季を抱きしめる腕に、確かな力が宿った。
「いいんだよ」
低い声が、耳元を震わせる。
「君がここにいてくれるなら、僕はもう逃げない」
紗季は彼の首に腕を回した。胸と胸のあいだに残っていた最後の距離が消える。互いの呼吸が乱れ、名前を呼ぶ声だけが、夜の部屋に何度も溶けた。
窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
古書店の鍵束は、一階のカウンターに置いたままだった。けれど紗季はもう、それを気にしなかった。
蓮の腕の中で、彼女はようやく知った。
扉を開けることは、誰かを裏切ることではない。
自分の心に、嘘をつかないと決めることなのだと。

#恋愛小説 #大人の恋愛 #官能小説 #再会 #短編小説 #雨の夜

いいなと思ったら応援しよう!