なぜ人は、わかっていても争い、悩み、孤独になるのか?進化から読み解く『人間の本性』と、生きづらさの正体「美しく残酷なヒトの本性」を小学生でも分かるように説明します
美しく残酷なヒトの本性
遺伝子、言語、自意識の謎に迫る
著者 長谷川 眞理子
はじめに
このnote記事は、無料部分の「小学生でもわかる解説」だけでも十分にご理解いただけます。
有料エリアには「音声考察(日本語版・英語版)」と本のエッセンスをより深く理解するための「大人向けの解説」を用意しております。
なお、この記事は無料・有料・音声考察のすべてにおいて、原著の引用は一切使用しておりません。すべて、私自身の言葉のみで構成したものです。

人間は他の動物と何がちがうのだろう?
私たちは普段、当たり前のように人間の社会で生きていますが、生物学の目で見ると、人間は「ヒト」という名前の「動物の一種」にすぎません。
動物たちの世界を見渡してみると、人間以外にも素晴らしいものを作る仲間がたくさんいます。
たとえば、ビーバーは川の水をせき止めて頑丈な「ダム」を作り、そのなかに自分たちの安全な家を建てます。
また、「ハキリアリ」というアリは、木の葉をかじり取って巣に持ち帰り、それを細かく噛み砕いて作った畑で、自分たちの食べ物となるキノコを栽培して暮らしています。
これらはまるで、人間の建築家や農家のような素晴らしい技術です。
しかし、人間には他のどの動物も絶対に真似できない、もっとも特殊な特徴があります。
それは、「自分たちが何を考え、何をしてきたのかを書き残し、それについてみんなで研究し、何世代にもわたって考えを新しくしていくこと」です。
人間は、自分たち自身の心や行動について、本を読んだり意見を交わしたりして、ずっと考え続けることができる唯一の動物なのです。
このような人間の心や行動の仕組み、社会のあり方を研究する学問を「人文社会科学」と呼びます。
ここには、哲学や歴史学、言語学、心理学など、たくさんの分野があります。
大昔はこれらがすべて「哲学」というひとつの学問でしたが、時代が進むにつれて細かく分かれてしまいました。
さらに、理科の分野である「自然科学」も、19世紀の半ばまでは哲学の一部でした。
著者の長谷川先生は、このようにバラバラになってしまった学問をもう一度つなぎ合わせ、人間という存在をまるごと理解したいと考えています。
そのためのヒントとなるのが、生物学の全体像を表す「生物の箱」という考え方です。
この「生物の箱」には、3つの軸(一辺)があります [7, Z軸に様々...]。
1番目の軸は「種(しゅ)」:地球上には学名がついているだけでも200万種、まだ発見されていない微生物なども合わせると5000万種から5億種もの生き物がいるとされています。
そのなかのどの生き物の話をしているのかという軸です。
2番目の軸は「階層(かいそう)」:生き物の体は、原子や分子(DNAなど)が集まって細胞になり、細胞が集まって器官(胃や脳など)になり、それが個体(ひとりひとりの体)になります。
さらに個体が集まると「個体群(集団や社会)」になり、他の生き物たちと関わる「群集」、そして自然の環境もあわせた「生態系」へと広がっていきます。
ミクロからマクロまでのどのレベルの話をしているのかという軸です。
3番目の軸は「機能(働き)」:食べること、エネルギーを作ること、情報を伝えること、そして結婚して子どもを残す(繁殖する)ことなど、生き物が生きていくためのさまざまな働きを指します。
生物学の膨大な情報は、この「巨大な箱」のなかのどこかの引き出しにすべてしまわれています。
そして、これらの引き出しをすべて横につなぎ、その情報が時間とともにどう変わってきたかを説明してくれる鍵こそが、「進化の理論(しんかのりろん)」なのです。
地球上に生命が誕生したのは、今からおよそ38億年前のことです。
そのころは自分と同じものをコピーして増えるだけの、とても単純な一細胞の生き物しかいませんでした。
それが長い時間をかけて少しずつ変化し、枝分かれして、現在の豊かな生き物の世界が作られました。
人間も、その長い進化の歴史のなかで生まれてきたひとつの主(種)なのです。
鏡のなかの自分:魚のホンソメワケベラが教えてくれた「自意識」のひみつ。
みなさんは、鏡のなかに映っている姿を見て、「あ、これは自分だ」とすぐに分かりますよね?
このように、自分という存在が他の人とは違う独立した存在であると理解している心の働きを「自意識(じいしき)」と呼びます。
昔の西洋の哲学では、「自意識があるのは神様から特別な能力をもらった人間だけであり、他の動物には自意識がない」と考えられてきました。
そのため、科学者たちも「動物には自意識がない」という前提からスタートし、もしあると言うならそれを実験で証明しなければならない、という厳しいルールを作りました。
そこで1970年代に、アメリカの心理学者ゴードン・ギャラップが「鏡を使った自己認識テスト」という実験を考え出しました。
これは、動物が眠っている間に、額などの自分では直接見られない場所にこっそりマーク(印)をつけます。
目を覚ました動物が鏡を見たとき、そこに映るマークを見て、自分の体のその場所に手を伸ばしてマークを取ろうとしたら、「鏡に映っているのが自分だと分かっている(自意識がある)」という証拠にする、というテストです。
このテストを行ったところ、チンパンジーやオランウータンなどの大型類人猿、ゾウ、イルカ、カササギなどが合格しました。
ニホンザルは最初は合格しないと言われていましたが、心理学者の板倉昭二先生が実験方法を工夫したところ、自分の体に手を伸ばしたため、やはり自意識があるのだろうと考えられています。
「知能が高い動物なら、自意識があるのも納得できる」と思うかもしれません。
では、もっと原始的だと思われている「魚」はどうでしょうか?
長谷川先生の知人である魚類研究者の幸田正典先生(大阪公立大学)は、「ホンソメワケベラ」という小さな魚を使って実験を行いました。
ホンソメワケベラは、他の大きな魚の口のなかや体の周りを泳ぎ、そこにくっついている寄生虫を食べて生きている「掃除屋さん」の魚です。
彼らにとって、寄生虫は大好物(ごちそう)です。
幸田先生は、ホンソメワケベラのあごの下に、まるで寄生虫のように見える「赤い点」をつけました。
そして彼らの前に鏡を置いて観察したところ、なんとホンソメワケベラは鏡に映った自分のあごの下の点を見て、水槽の底にある石に自分のあごを何度もこすりつけて、点を取り除こうとしたのです。
これは、鏡のなかの姿が自分自身だと理解し、自分の体に異物がついていることに気づいて行動した、つまり「鏡テストに合格した」という驚くべき結果でした。
さらに面白いことに、マークの色を寄生虫にはまったく見えない「緑色」に変えてみると、鏡を一瞬じっと見たものの、石にこすりつけるようなことはしませんでした。
ホンソメワケベラは、「あごの下に何か変なものがあるけれど、これはエサの寄生虫ではないし、特に害もなさそうだからほうっておこう」と自分で判断したと考えられます。
このように、鏡を見て何かがおかしいと気づくことと、それに対して手や体を動かしてアクションを起こすかどうかは、まったく別の問題です。
これまでの鏡テストで「不合格」とされてきた動物たちも、実は自分だと分かっていたけれど、「大したことではない」と判断して何もしなかっただけなのかもしれません。
動物は、植物と違って「自分で動く」生き物です。
刻々と変わる周りの環境のなかで、次の一歩をどちらに踏み出すべきか、常に決断しなければなりません。
自分の体の範囲がどこまでで、自分が動かした手がどこに向かっているのかを自覚(自意識)していなければ、野生の世界でうまく生きていくことはできないはずです。
そう考えると、ごく原始的なレベルであっても、すべての動物には自意識が備わっていると考えるのが自然なのです。
ことばと「心」の共有:人間とチンパンジーを分けるもの。
人間をこれほど特別な存在にしている最大の能力は、間違いなく「ことば(言語)」です。
ことばは、単なるおしゃべりの道具(コミュニケーションの手段)であるだけでなく、私たちが頭のなかでものを考えるときの「思考の道具」でもあります。
20世紀には、人間に一番近い動物であるチンパンジーにことばを教えようとする研究が、世界中でたくさん行われました。
チンパンジーは、人間とのどの構造(咽頭や喉頭)がちがうため、人間のような声を出すことはできません。
そこで学者たちは、記号が描かれたプラスチックの札を並べさせたり、コンピューターのタッチ画面を使ったりしてことばを教えました。
その結果、チンパンジーは特定の記号が何を意味するのかを理解し、自分を表す記号や動詞、さらには「もし〜ならば」という複雑な記号まで覚えることができました。
しかし、人間の子どもとチンパンジーの間には、決定的なちがいがあることが分かりました。
第一に、チンパンジーが自発的に発するメッセージのほとんど(約9割以上)は、「リンゴをちょうだい」「ドアを開けて」というような、自分への「要求(おねだり)」だけでした。
彼らは「お花がピンクで綺麗だね」とか「あ、おばあちゃんだ!」というように、自分が見ている世界を相手に伝えること(世界の描写)をしません。
第二に、チンパンジーはどれだけ訓練しても、単語を組み合わせるルールである「文法(ぶんぽう)」、特に「入れ子構造(いれここうぞう)」を理解することができませんでした。
「入れ子構造」とは、小さな箱を少し大きな箱に入れ、それをさらに大きな箱に入れ込んで全体をひとつとして扱うような構造のことです。
たとえば、私たちが話す「私が今日、街で出会った友だちが飼っている犬は、毛がとても長い」という文章を考えてみましょう。
これは基本的には「犬の毛が長い」という話ですが、その犬は「友だちが飼っている」ものであり、その友だちは「私が今日、街で出会った」友だちです。
このように、文章のなかに別の文章が箱のように重なって入り込んでいるのが、人間のことばのルール(文法)です。
チンパンジーは、何百もの単語を理解できても、この入れ子構造をマスターすることは絶対にできませんでした。
また、ことばを教える実験のなかで、とても悲しい出来事もありました。
アメリカの心理学者ハバート・テラスは、「ニム」という名前の赤ちゃんのチンパンジーを使い、「人間のような愛情を持たせずに、単語の学習だけを厳しく訓練したらどうなるか」という実験を行いました。
ニムに特定の飼育係への愛着がわかないよう、担当者をしょっちゅう交代させ、ただ時間割通りにことばを教え込んだのです。
結果、ニムは言葉の能力をほとんど伸ばすことができず、実験が終わると捨てられるようにいくつかの施設を転々とさせられました。
愛情を受けずに育ったニムは、寂しさと怒りから激しいパニックや暴力を繰り返すようになり、最後はわずか26歳という若さで、心臓発作で亡くなってしまいました。
チンパンジーにとっても人間の子どもにとっても、豊かな心を育み、ことばを身につけるためには、「お互いを信頼し、愛し合う環境」がどうしても必要なのです。
人間のことばの土台には、単なる合図(シグナル)を超えた「心の共有(きょうゆう)」があります。
私たちは、 「私には心がある」 「あなたにも同じような心がある」 「私がそう思っていることを、あなたも分かっている」 「あなたが分かってくれているということを、私も知っている」 というように、お互いの「心のOS(基本ソフト)」を共有して、深くつながり合っています。
だからこそ、私たちは相手と同じ景色を見て「可愛いね」と共感したり、「楽しかったね」と気持ちを分かち合ったりできるのです。
このような心の共有ができるからこそ、人間はみんなで力を合わせて大きな家を建てたり、文明を築いたりすることが可能になったのです。
才能を決めるのは「遺伝」か「環境」か:ニュートンの物語から考える。
「あの人は生まれつき足が速い」「私は数学が苦手だから遺伝のせいだ」など、人間の性格や才能について考えるとき、私たちはよく「遺伝(生まれつきのもの)」か「環境(育ち方や努力)」かという話をします。
この問いに対して、昔から学者たちの間でも激しい論争が行われてきました。
しかし長谷川先生は、この「遺伝か環境か」という2つのどちらか一方だけを選ぶような考え方は、まったく意味のない「不毛な論争」であると指摘しています。
なぜなら、人間の心や体は、そのどちらか片方だけで作られることは絶対にないからです。
人間の体を作るすべての設計図は、染色体のなかのDNAという分子に「4つの塩基(アデニン、グアニン、シトシン、チミン)」という文字で書かれています。
その文字の数は約30億個、そのなかにある遺伝子という具体的な命令書は約2万個あります。
人間が行うすべての活動(脳の働きや行動)には、必ずこの遺伝子が関わっています。
しかし、遺伝子があるからといって、すべてが生まれつき決まっているわけでもありません。
近年、「エピジェネティクス」という非常に重要な仕組みが明らかになってきました。
これは、遺伝子の設計図そのものは変わらないのに、その遺伝子の働き(スイッチ)をオンにしたりオフにしたりする仕組みが、育つ環境からの刺激によって変化する現象です。
身近な例でいうと、若いころはお酒がまったく飲めなかった人が、大人になってから少しずつ飲めるようになることがあります。
これは、アルコールを分解する酵素の遺伝子のスイッチが、お酒を飲むという環境からの刺激(練習)によって「オン」に切り替わったからです。
また、アレルギーが途中から突然発症するのも、遺伝子のスイッチのオン・オフが切り替わるためです。
さらに深刻な例では、妊娠中のお母さんが強いストレスを受けると、お腹の赤ちゃんの遺伝子のスイッチが切り替わり、生まれてくる子どもの性質が変わってしまうことも分かっています。
また、勉強やスポーツの「才能(パフォーマンス)」が伸びるかどうかには、ふたつの大きな要素が関係しています。
それは「本人の好み(適性)」と、「周りからの賞賛(ほめられる環境)」です。
たとえば、ピアノを弾く素晴らしい遺伝的な能力を持って生まれてきたとしても、本人がピアノを弾くこと(音楽)に全く興味を持たず、色彩の美しさにばかり目を奪われる性格(好み)であれば、才能は花開きません。
さらに、本人が一生懸命に練習していても、周りの大人から「そんなことより、家の手伝いをしなさい!」と怒られ、一言もほめてもらえない環境にいたら、やる気はなくなってしまいます。
これに関して、歴史上もっとも偉大な物理学者・数学者であるアイザック・ニュートンの面白いエピソードがあります。
ニュートンは生まれつき天才的な数学の能力を持っていましたが、実家は農家でした。
お母さんは彼に農作業を手伝わせようとし、ニュートンが農作業を手伝ったときだけほめ、部屋に閉じこもって難しい計算ばかりしているときは全くほめず、むしろ怒り飛ばしていました。
しかし、ニュートンはどれだけ怒られても、自分の大好きな研究(好み)を絶対にやめませんでした。
最終的には、親戚のおじさんが彼の才能を理解し、研究に専念できる環境を整えてくれたおかげで、万有引力の法則などの大発見が生まれました。
このように、生まれ持った性質(好みや適性)と、育つ環境やほめてくれる人との出会いが複雑に絡み合って、初めて私たちの個性や才能は形作られるのです。
ですから、「遺伝がすべて」という考え方も、「努力(環境)ですべてが変わる」という考え方も、どちらも間違いなのです。
人間は生まれつき優しいの?:赤ちゃんの実験と「争い」が起こる理由。
人間は本来、生まれつき他者を思いやる優しい心を持っているのでしょうか(性善説)
それとも、生まれつき自分のことばかり考える自分勝手な生き物なのでしょうか(性悪説)
発達心理学や進化生物学の研究から導き出された答えは、「人間は生まれつき、他者に優しい存在である(性善説が正しい)」ということです。
生まれたばかりの赤ちゃんは、自分ひとりでは何もできず、何年もの間、まわりの大人に育ててもらわなければ生きていけません。
そのため、赤ちゃんは出会うすべての相手をまず「信頼する」ことからスタートするようにできています。
生後半年ほどの赤ちゃんを対象にした、とても興味深い実験があります。
赤ちゃんに、コンピューターの画面で次のような短いアニメーションを見せます。
丸い顔をしたキャラクターが、一生懸命に坂を登ろうとしています。
そこに「優しい三角形」が登場し、お尻を押して坂を登るのを助けてあげます。
別の場面では、「いじわるな四角形」が登場し、上から押して坂を登るのを邪魔します。
このアニメーションを何度も見せたあと、赤ちゃんの前に本物の「三角形のぬいぐるみ」と「四角形のぬいぐるみ」を並べて、どちらを触るか観察しました。
すると、ほとんどの赤ちゃんが、他者を助けてくれた「優しい三角形」の方を好んで手に取りました。
赤ちゃんは自分自身が助けられたわけではないのに、他の誰かを助ける「優しいキャラクター」を応援し、他者を邪魔する「いじわるなキャラクター」を嫌う心が、生まれつき備わっているのです。
さらに、2歳くらいの子どもを対象にした実験もあります。
お母さんと子どもが部屋の椅子に座っていると、両手に重い荷物をたくさん抱えた実験者が入ってきます。
実験者は足を使ってドアを開けようとしますが、荷物が重くてうまく開けられず、とても困った様子を見せます。
すると、それを見た2歳の子どもは、誰に指示されるでもなく、自分からスタスタと歩いていって、ドアを「ガチャリ」と開けてあげるのです。
2歳の子どもは、「人助けをしてほめられよう」などと頭で計算しているわけではありません。
「あの人はドアを開けたいのに困っている。自分は開けられるから、開けてあげよう」という、純粋な思いやり(他者の欲求の理解)だけで動いているのです。
しかし、子どもも7歳くらいになると、お母さんから「ちょっとゴミ出しに行ってきて」と頼まれても、「今、ゲーム(遊び)をしているからイヤだ!」と拒否するようになります。
これは、成長にともなう学習によって、「ゴミ出しをしてお母さんに感謝される喜び」と「今そのまま遊び続ける楽しさ」を頭のなかで天秤にかけ、自分の欲求を優先することを覚えていくからです。
さらに、「知らない人には簡単についていってはいけない」という社会のルールを学ぶことで、幼いころの「誰でも無条件に信頼する優しさ」にブレーキをかけるようになります。
そうしないと、悪い大人にだまされてしまうかもしれないからです。
では、生まれつき優しい心を持っている人間が、なぜ戦争などの残酷な争いを起こしてしまうのでしょうか。
その原因は、人類が長年にわたって「我ら(身内・内集団)」と「彼ら(よそ者・外集団)」を厳しく区別して生きてきた歴史にあります。
人間は進化の歴史のなかで、ずっと数十人程度の小さなグループで協力し合って暮らしてきました。
言葉や習慣、ルールを共有する身内のグループ(内集団)のメンバーに対しては、お互いを強く信頼し、命がけで助け合います。
しかし、言葉も神様も違うよそ者のグループ(外集団)に対しては、自分たちの食べ物や縄張りを奪い合うライバルとして、恐怖や敵意を抱くように進化してしまったのです。
人間には、初対面の人たちをただ「くじ引き」などで2つのチームに分けただけでも、無意識のうちに「自分たちのチームのメンバー」をひいきし、もう一方のチームに対して意地悪に振る舞うという、強い心理的なバイアス(偏見)があります。
戦争が始まるときには、国の上層部(指導者たち)のなかに「戦争の文化」と呼ばれる5つの心の罠が働きます。
1,自分たちに都合の良いようにしか考えない「思考のバイアス」
2,反対意見や批判をまわりから追い出す「異論の排除」
3,自分たちの国が一番正しいと思い込む「極端なナショナリズム」
4,敵の強さや知恵を甘く見る「敵への過小評価」
5,相手の国の人々に対する「文化的一種的偏見(差別)」
ロシアのウクライナ侵攻をはじめ、歴史上の多くの悲惨な戦争は、この「戦争の文化」によって引き起こされてきました。
人間は個人としてはとても親切で優しいのに、ひとたび「国」や「集団」という枠組みに入り、よそ者との対立が煽られると、恐ろしいほど利己的で残酷な生き物へと変わってしまうのです。
体と心が悲鳴をあげる「現代病」:砂糖の活望と運動不足のひみつ。
現代の日本には、昔は存在しなかったさまざまな「病気」や「不調」があふれています。
アトピー性皮膚炎などのアレルギー、肥満、そして運動不足による生活習慣病などです。
これらはすべて、人間の進化のスピードに比べて、社会や暮らしの環境が変わるスピードがあまりにも早すぎたために起こっている「進化のミスマッチ(現代病)」です。
人間(ホモ・サピエンス)が地球上に現れたのは、およそ30万年前です。
そして、1万年前に農業や牧畜(動物を飼うこと)が始まるまでの約29万年間、人類は一箇所にとどまらず、食べ物を探して毎日10キロメートル以上も歩き回る「狩猟採集生活(しゅりょうさいしゅうせいかつ)」をしていました。
電気もガスも水道もなく、冷蔵庫もないため食べ物をためておくこともできません。
私たちの体や脳、内臓の仕組みは、この気の遠くなるほど長い「狩猟採集の暮らし」にぴったり合うように、長い時間をかけて進化してきたのです。
そのなかでも、特に重要だったのが「直立二足歩行(立って2歩で歩くこと)」と「火を使った調理(ちょうり)」です。
人間は、立って歩くことで両手が自由になり、器用に道具を作ることができるようになりました。
さらに、肉や植物に火を通す「調理」を発明しました。
火を通すことで食べ物は格段に消化しやすくなり、食べ物から得られる栄養やエネルギーの吸収効率が劇的に上がりました。
これについて、とても面白い研究があります。
人間の体重を基準にして、他のチンパンジーなどの霊長類と内臓の重さを比べてみます。
すると、心臓や肝臓などの重さは他の霊長類と同じくらいだったのですが、人間の「脳」は期待値の3倍以上も大きく、逆に「腸」の重さは半分ちょっと(およそ半分半分)しかありませんでした。
脳と腸は、生きていくだけで非常にたくさんのエネルギーを消費する「維持コストの高い内臓」です。
人間は、火を使って調理をすることで「腸」での消化の手間を省き、腸をコンパクトに縮小させることに成功しました。
そして、その余ったエネルギーをすべて「脳」を大きくすることに回したのです。
つまり、「料理をすること」こそが、人間の知能をここまで発達させた一番の要だったのです。
しかし、この進化の歴史が、現代の私たちを苦しめる原因にもなっています。
第一に、「砂糖、塩、脂肪の摂りすぎ」です。
大昔の野生の世界では、甘いもの(エネルギー源となる糖分)や脂肪、筋肉を動かすのに必要な塩分は、めったに手に入らない超貴重品でした。
そのため、人間はこれらを見つけると「おいしい! もっと食べたい!」と強く渇望し、お腹いっぱいになるまで食べるように脳が進化しました。
ところが、現代のコンビニやスーパーには、安くておいしいケーキやポテトチップス、ジュースなどの甘い飲み物がいくらでも並んでいます。
私たちの体には、進化の歴史上「栄養を摂りすぎる危険」など一度もなかったため、「砂糖や塩、脂肪を食べすぎてはいけない」というブレーキの赤信号を出す仕組みが備わっていません。
その結果、世界中で肥満や糖尿病が急激に増えているのです。
第二に、「慢性的な運動不足」です。
現在でもアフリカのタンザニアで狩猟採集生活をしている「ハザ」という人々を調べると、男性は1日に平均1万9000歩、女性は1万6000歩も歩いています。
一方、現代の私たちは、車に乗り、ボタンひとつで洗濯や掃除が終わり、一日中オフィスや学校の椅子に座って過ごすことも珍しくありません。
私たちの体は本来、毎日1万歩以上歩き、全力で獲物を追いかけ、木の実を採るために全身の筋肉をあらゆる方向に伸ばすように設計されています。
しかし同時に、人間は「野生の世界で無駄なエネルギーを消費しないよう、動かなくていいときはできるだけサボる(セーブする)」ようにも進化してきました。
そのため、現代社会であえて「運動をしよう」と言われると、脳がエネルギーを節約しようとして、どうしても「おっくう」だと感じてしまうのです。
さらに、「過度な清潔の流行」も問題です。
現代の日本では、少しの汚れもバイ菌も許さない超清潔な暮らしが好まれています。
しかし人類は、もともと泥や動物の毛、多様な細菌にあふれた「汚い環境」のなかで、免疫システムを鍛えながら進化してきました。
あまりにも部屋を綺麗にしすぎて、幼いころにバイ菌に触れる機会を完全に奪ってしまうと、体の免疫システムが「何が敵で、何が味方か」を正しく学習できなくなります。
その結果、体に害のないホコリや花粉、食べ物に対して免疫が暴走して攻撃を始めてしまう、アトピーやアレルギーという現代病が引き起こされているのです。
学校や分業の仕組み:人間が作った便利な社会の落とし穴。
みなさんは、「子どもは毎日、学校に通うのが当たり前だ」と思っていますよね?
しかし、30万年にわたる人間の歴史のなかで、現在のような学校のシステムができたのは、ほんの最近(およそ150年前)のことです。
日本の学校制度は、明治5年(1872年)に定められた「学制(がくせい)」から始まりました。
その目的は、西洋の強い国々に対抗するために、国を強くし、産業を発展させる(富国強兵)ためでした。
工場で効率よく働く労働者や、法律を理解して社会を動かす国民を育てるためには、すべての子どもに読み書きや計算を同じペースで教え込むのが一番効率が良かったのです。
それより前の江戸時代には、近所の子どもたちが集まる「寺子屋(てらこや)」がありました。
寺子屋は、今のように年齢ごとにクラスを分けることはせず、異なる年齢(バラバラの年齢)の子どもたちが同じ部屋に集まっていました。
そこでは、年上のお兄さんやお姉さんが下の子どもたちに勉強を教え、遊びを伝え、ときには大人に隠れてちょっとした冒険を企画していました。
年齢が違う集団のなかで、子どもたちは「年下を思いやる心」や「憧れの年上を手本にして成長する意欲」を自然に身につけていたのです。
しかし、明治以降の学校制度は、同じ年齢のライバルばかりを一部屋に集めて、一斉にテストの点数で競い合わせる仕組みになりました。
この「同じ歳の集団のなかでの強制的な競争」は、人間の進化の歴史から見ると、極めて不自然で息が詰まる環境です。
そのため、学校の人間関係に馴染めずに「学校に行きたくない(不登校)」と思ってしまう子どもが現れるのは、生物学的に見れば当然のことなのです。
また、現代社会は「専門化(分業化)」が極限まで進んでいます。
これは、人間の体を構成する「多細胞生物の仕組み」によく似ています。
私たちの体には約37兆個の細胞がありますが、胃の細胞は食べ物を消化することだけ、肺の細胞は呼吸をすることだけというように、それぞれの細胞が特定の仕事だけを分担(専門化)して、全体で命を維持しています。
人間の社会も同じです。
大昔の狩猟採集の時代は、ひとりひとりが「獲物を狩る、火を起こす、家を建てる、看病する、子育てをする、喧嘩の仲裁をする」というように、生きるために必要なすべての仕事を自分でこなす「万能な存在」でした。
それが、1万年前に定住が始まって社会が大きくなると、鍛冶屋は道具を作るだけ、農家は野菜を作るだけ、というように仕事の専門化が始まりました。
現代ではさらに細分化され、私たちは自分の仕事でお金を得て、他の必要なサービスはすべて「専門家」からお金で買うシステムになっています。
この分業のおかげで、社会全体の効率は劇的に上がり、ものすごいスピードで文明が発展しました。
しかしその一方で、私たち「個人」は、何かの専門的なことしかできない、とても不自由で弱い存在になってしまいました。
そして、この「豊かすぎる社会」が、もうひとつの大きな問題を引き起こしています。
それが「少子化(しょうしか)」です。
チェコのSF作家カレル・チャペックが1920年に発表した戯曲『ロボット(R.U.R.)』のなかで、「人間に代わってすべての労働をしてくれるロボットを開発した結果、人間は働かずに遊んで暮らせるようになった。
しかし、そのユートピアのなかで、なぜか人間から子どもが生まれなくなってしまった」という不思議な話が描かれています。
これは、現代の先進国で起こっている現実をそのまま予言したような話です。
野生の動物は、エサが豊富で安全な環境(豊かな年)になると、育てるのが簡単になるため、子どもの数を増やします。
しかし、人間だけは、国が豊かになって生活水準が上がれば上がるほど、子どもを産まなくなってしまうのです。
その理由は、人間が「頭で将来のことを予測し、心配しすぎる」からです。
社会が豊かになると、ひとりひとりの「自己投資(勉強、教養を高めること、趣味、旅行など)」にかけるエネルギーがどんどん増えていきます。
もし子どもを産むとなると、「この子を自分と同じように豊かで幸せに育てなければならない。
それには莫大な教育費や養育費(コスト)がかかるはずだ」と、頭のなかでコストを非常に大きく見積もって不安になってしまうのです。
その結果、結婚や出産をためらうようになり、国全体で子どもが急激に減っていくことになります。
これからの地球で私たちが考えていくべきこと。
人間は、素晴らしい芸術(アート)を生み出す美しい心を持っている一方で、ときに大がかりな戦争や環境破壊を引き起こす、恐ろしくて残酷な本性もあわせ持っています。
私たちの脳は、地球上で最も大きい部類に入り、論理的に物事を考えるための「前頭葉(ぜんとうよう)」が大きく発達しています。
しかし、この優れた前頭葉は、大昔の爬虫類や原始的な哺乳類が持っていた「本能や感情、情動(好き・嫌い・怖い・うれしい)」を司る古い脳の上に、バタバタと急ごしらえで積み上げて作られた、進化の継ぎ接ぎ(パッチワーク)のような臓器です。
そのため、私たちはどれだけ頭のなかで「論理的」に正しい答えを出したとしても、心の奥底にある「感情(お腹が空いた、甘いものが食べたい、あいつが憎い、仲間を助けたい)」に引っ張られて、簡単に間違った行動を選択してしまいます。
論理的な思考は、結局のところ、古い感情や欲求の「奴隷(どれい)」にすぎないのです。
これまで、人類は目の前の「不快」や「不便」を取り除くために、たくさんのテクノロジーを発明し、社会を便利で清潔な「進歩」の方向へと動かしてきました。
しかし、その進歩のスピードがあまりにも早すぎたため、私たちの30万年間変わっていない「体と遺伝子」は、もう限界を迎えています。
さらに、私たちが作り上げてきた「大量生産・大量消費・大量廃棄」の経済システムは、地球全体の温暖化や気候の乱れ、生き物たちの絶滅を引き起こし、今や地球そのもののバランスを壊しつつあります。
これまでの20世紀までは、欧米や日本などの「先進国」がお手本を示し、他の「途上国」がそれを追いかけるという構図がありました。
しかし、地球全体のシステムが壊れかけ、今までのやり方(大量消費の豊かさ)を根本から変えなければ文明が長続きしないと分かった今、「どうすれば持続可能な社会を新しく作れるのか」という正解のルートを知っている国は、世界中にひとつもありません。
その意味では、今やアメリカも日本もアフリカの国々も、新しい未来へ向かうための「すべての国が途上国」なのです。
長谷川先生は、1980年代にアフリカのタンザニアの奥地で、電気もガスも水道もない泥壁の小屋に住み、野生のチンパンジーを観察して暮らしていました。
そこでは毒蛇が部屋に入ってきたり、すぐ近くまでライオンがやってきたりする過酷な環境でしたが、現地の人々は自然のリズムに合わせて、その日その日を楽しく、今を一生懸命に生きていました。
これからの時代を生きるみなさんには、ただ便利で清潔なもの(テクノロジー)に支配されるのではなく、「人間は本来、どのような環境で、どのように生きていくときに一番幸せを感じる生き物なのか」を、生物としての歴史(進化)の目から、もう一度見つめ直してほしいのです。
私たちの脳は、絶滅の危機を前にした恐竜たちのように、小さくて頼りない「クルミの脳」ではありません。
もっと大きな脳を使い、ことばを交わし合って、地球の未来のために正しい知恵を共有することができるはずです。
みなさんが、人間という少し変わっていて、不完全で、それでも美しくて優しい本性を持ったこの不思議な生き物について、深く考え、より良い未来を自分たちの手で切り拓いていくことを願っています。
現代の私たちの暮らし(食事や運動、睡眠など)が、どれほど大昔の「狩猟採集生活」からズレてしまっているのか、自分の1日の生活リズムを書き出して比べてみるのはいかがでしょうか。

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