荷物のない引っ越し
段ボール箱は、一箱だけだった。
玄関に置かれたそれを見て、私は業者の男を追いかけようとした。でも、気づいたときにはすでにドアが閉まっていた。エレベーターのボタンを何度押しても、どの階にも止まらなかった。
おかしい、と思った。確かに三十箱以上は荷造りしたはずだった。食器も、本も、着ない服も、押し入れの奥で何年も眠っていたものも、全部。

箱を開けた。
中に入っていたのは、古い写真が数枚。割れたマグカップ。使いかけのノート。そして、小さな紙切れ。
あなたが本当に持っていきたかったものだけです。
筆跡は、きれいというより、静かだった。
写真の一枚は、大学のゼミ旅行のもの。自分でも忘れていた。マグカップは取っ手が欠けていて、捨てようとして何度も捨てられなかったやつだ。ノートの最初の数ページだけ文字が書いてあって、あとは白紙だった。

他のものは、どこへ行ったのだろう。
しばらく考えて、ふと気づいた。あの段ボールたちの中身を、私はひとつも思い出せない。食器が何枚あったか。本のタイトル。服の色。詰めるとき、無心だった。「生活に必要なもの」だと思って詰めていたのに、必要だったのかどうかも思い出せない。

不安だったのかもしれない。何もないことへの。
だから詰め込んでいたのかもしれない。空白が怖くて、とにかく埋めていたのかもしれない。
一箱を、部屋の隅に置いた。
何もない部屋は広くて、夕方の光だけが床に伸びていた。寂しいはずだった。でも、胸の中が、静かだった。ずっとどこかが詰まっていたのに、それが気づかぬうちにほどけたような、そんな感じ。
初めて、ちゃんと息ができる気がした。

