「波の音⋯」シロクマ文芸部
波の音を聞くと、なぜ人間はほっとするんだろう。
人間は海から進化した、なんて話を聞いたことがある。
何か関係があるんだか、ないんだか。
僕は、海がすぐ近くにある環境で生まれ育ちました。
夏になれば自転車で海へ向かい、朝から夕方まで遊び倒していました。
簡単なテントを張り、近くのコンビニでカップラーメンや弁当を買って、小学生なりのキャンプをしたり。
釣りをするのはもちろん、銛で魚を突き、ウニや貝を取り、焚き火をしてその場で簡単なバーベキューをしたり。
岩場から海へ飛び込むこともありました。
思い返せば、海を百パーセント堪能していたなと思います。
それは中学生になっても、高校生になっても変わらない世界でした。
岩場にはフナムシが走り、トンボが飛び、セミが鳴き、気がつけば蜘蛛が巣を張っている。
虫と共に生き、魚と触れ合いながら過ごした夏。
そして今、僕は東京に住んでいます。
このコンクリートジャングルの中では、視覚でも嗅覚でも聴覚でも、故郷の気配をほとんど感じることができません。
仕事で向かう先も埼玉が多く、俗にいう海なし県。
気がつけば、僕の心は拠り所を失っていたのかもしれません。
東京に出てきて数年たったある日、耐えきれなくなった僕は、車で数十分の場所にある海釣り公園へ向かいました。
ネットで見た景色とは全く違う、誰もいない寂しい公園でした。
砂浜はなく、きれいに整えられた岸壁があるだけ。
確かに波の音はする。
潮の香りもする。
でも、何かが違う。
潮の匂いが薄い。
海の姿はしている。
でも、僕の知っている海ではない。
例えば、豚骨ラーメンを食べに来たのに、出てきたスープが妙に薄かったときのような感じです。
確かに豚骨ラーメンではある。
見た目も、ちゃんと豚骨ラーメン。
でも、僕が食べたかった豚骨ラーメンはこれじゃない。
目の前にあるのは確かに海なのに、僕の身体はずっと「これは違う」と言っていました。
そんな思いを払拭するかのように、とりあえず釣りを始めました。
これは海なんだ。
僕の知っている海なんだ。
そう自分に言い聞かせるように、昔と同じように釣り糸を垂らしました。
いつまでたっても沈まない浮きを眺めながら過ごす時間は、何とも言えないプライベート空間です。
釣りに来ているのか、人生を問いに来ているのか。
本当に魚が釣りたいのか、ただ一人になりたいのか。
それがわからなくなるところが、僕はとても好きです。
とはいっても、一匹も釣れないのは寂しい。
ある程度の時間がたつと、寂しさが哲学を上回ります。
一時間もしたら、もう帰りたくなってきました。
そうすると、また現実に引き戻されます。
ここは、本当に海なのかと。
故郷を思い出すこともできず、逆に寂しさだけが増したまま帰ったことを、今でも忘れられません。
僕は毎年一度だけ実家へ帰ります。
その道中、僕は少し遠回りをして海岸線を走ります。
コインパーキングに車を止め、浜辺に腰を下ろして波の音を聞きます。
少しだけ、ほんの少しだけ昔の自分に戻れるような気がします。
その一方で、また東京に戻らなければならないという、もどかしい気持ちもあります。
あの頃のように、ただ純粋に波の音に包まれているだけではいられなくなった自分に、歳を重ねたことを感じます。
それから、僕は実家に顔を出します。
当たり前ですが、東京育ちの妻にはこの感情を全くわかってもらえません。
もちろん帰り道まで、遠回りになる海岸線を走ってはもらえません(笑)
僕は、耳に残った波の音を、鼻に残った潮の香りを、目に焼き付けた海の姿を、東京へ持ち帰ります。
そして、色濃く蘇った昔の記憶も。
それらが東京という場所で擦り切れてしまわないように。
僕はまた実家に帰る日まで、大事に抱えながら生きています。
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