Introducing the Beatles① / The Beatles
このアルバムは、イギリス出身のバンド、ビートルズがアメリカ上陸の号砲となった記念すべきものです。それは、必然であったのかもしれません。イギリス国内で空前絶後の大成功を成し遂げ、まさに立志伝中のビートルズが狙う次なるステージは・・・「アメリカ」へ。
【上陸前夜】
歴史的にはこのアルバムがビートルズのアメリカ最初のLPとなりました。しかし、そこに至るまで若干の紆余曲折があります。イギリス国内では絶大な人気を誇る彼らですが、彼らとGマーティンにとっては、アメリカはまだまだ未開拓の処女大陸だったのです。
ビートルズというより、イギリスの音楽業界としては、なんとかしてアメリカでの成功が悲願でした。そのため、これまでもいろいろなイギリス国内のアーティストがアメリカに挑んで、その厚くて高い壁に阻まれてきました。
事実、EMIは姉妹レーベルのUS Capitolを通じて、自社のアーティストをなんとかアメリカに食い込ませようとしていたようです。元々、US Capitolは、パーロフォン同様、EMIの傘下レーベルでありEMIレコードとは緊密な間柄でした。当時、音楽の流れはアメリカからイギリスへ、でしたからEMIもCapitolへ逆輸入をかけようと必死でした。ビートルズについては、所属がEMI本体ではなく傘下の”パーロフォンレーベル”だったので、Gマ-ティンを通じてアメリカ進出への売込に躍起になっていたようです。
【Vee-Jayのブルースは哀しいか?】
まず、ここに「デイブ・デクスター」という史上マヌケなCapitolの役員が登場する。Capitolでビートルズを「蹴り続けた男」として有名です(英デッカレコードのマイク・スミスと同じ立場)。
Gマーティンは、US Capitolに売込をかけていましたが、当時Capitalがロックよりもジャズやカントリーに力を入れていたこともあり、ほとんどビートルズには関心がなかったようです。さらに、上記のデイブ・デクスターが「大のハーモニカ音楽嫌い」(ラブミードゥからPPM・フロムミートゥユーまでイントロからジョンのハーモニカが全開で炸裂!)、さらに「シーラブズユー」のキャッチ―な"yeah yeah yeah"のコーラスが「人を小バカにしている」と感じたようで、「すぐに消えるような髪の長いガキどもとは、ナッシングだ!」と頑なにビートルズとの契約を拒んだそうです。
困ったGマーティンは全米内のレコード会社の中で、いくつかの候補の中からシカゴで1953年に設立された"Vee-Jay "レーベルを選びました。このレーベルは、インディアナ州ゲイリーに住む夫婦が始めたレーベルで、黒人ミュージシャンのR&Bを専門としていて、米国内でブルースやジャズでそこそこ実績を上げてきましたが、いかんせん弱小レーベルの哀しさ、経営基盤は弱かったようです。
ともあれ、英パーロフォンはとにかく"Vee-Jay"と1963年1月25日に2年契約を結び、デビューシングル発売までこぎつけました。Vee-Jayとの契約は、シングル2枚と英国でのデビューアルバム「P.P.M」の収録曲の発売権でした。
【雲外に蒼天あり、 明けない夜はない。】
1963年2月25日、Vee-Jayは”Please Please Me"の米国盤シングル(カタログ番号はVJ 498)を発売します。これはシカゴの大手ラジオ局WLSで採り上げられ、この局が独自集計したチャートにも2週間ランク入りしました。しかし、Billboard誌の全国チャートにはまったくカスリもしませんでした。さらにVee-Jayは、このシングルでバンド名のつづりを「Beattles」と間違えていたそうで、出だしからケチがついた感じでした。
片やイギリスでは3枚目のシングル"From Me To You"が4月下旬に発表され、イギリスのシングル・チャートで7週連続1位を記録。もはや本国でのビートルズの勢いは誰にも止められませんでした。しかしアメリカでは、そうすんなりとは事が運びません。ビートルズがイギリスでチャートの首位に立ったことを受け、Vee-Jayは強気の策に出ます。二の矢でシングル「From Me To You b/w Thank You Girl」(VJ 522)を1963年5月27日に発売。これはキャッシュボックス誌の‘今週注目の一枚’に選ばれ、チャート入りはほぼ確実と思われました。ところが、ふたを開けてみれば、注目を浴びることもなくフェードアウト・・・。
それでもVee-Jayはくじけなかった。経営難に陥りながらも、ビートルズのアルバムを出す決断を下したのです。そのアルバムは『Introducing The Beatles』(VJLP 1062)というタイトルで、1963年7月22日にアルバムを発売することに一旦は決まりました。ところが、今度はVee-Jay側に大誤算がおこります。当時Vee-Jayはビジネス的にあまりにも多くの問題を抱えていたため、土壇場で発売を中止してしまいます。とにかく、この時点でのビートルズは、アメリカでは名前も知られず、ほとんど売れていなかったのです。
その後、以前から経営難に陥っていた同社は、社長交代やら印税未払い等の会社のゴタゴタで、一時的にレーベルとして新譜のリリースを見合わせることに。その間”売れない”イギリスのバンドのことなぞ、同社首脳陣以下スタッフもみんな忘れていたみたいで、この秋に同社の新譜のリリースが再開されても、ビートルズはその発売リストから漏れていたそうです。
オオオオーォォォォツッ、アメリカでのビートルズの運命はいまや風前の灯に・・・。どうなる?どうなるゥゥゥ?
【満を持してエド・サリヴァン登場!!】
当時、SNSやらYou-Tube等インターネットがない時代、情報はどう伝わったのでしょうか?アメリカの音楽関係者の中では、イギリスの音楽業界があるバンドのおかげですごいことになっている、という「ウワサ」がささやかれていました。現代でもテレビのニュース番組で「海外のニュース」みたいなコーナーってあるじゃないですか?まずはそこからでした。
あるニュース番組のロンドン特派員が「いま、イギリスで"ビートルズ”というバンドが大ブーム」というリポートとフィルムをアメリカに送ったのがきっかけと言われています。時は1963年11月頃。ビートルズ大旋風がイギリス全土に吹きまくっていたころです。ここに世界征服の芽が吹き出しました。風は吹き続けます。やっとアメリカもイギリスで大ブームが起きていることに気づき、テレビの三大ネットワークすべてがビートルズをインタビューするためにイギリスへ特派員を派遣しだしました。
エド・サリヴァン登場ーどこで、どう嗅ぎつけたのか?さすが、百戦錬磨の業界人です(一説ではイギリス出張からの帰りに、空港で大騒ぎするビートルズファンを見て、ブームを確信したことになっていますが)。ニュース番組の放送直後に放送したスタッフに連絡を入れて、ビートルズのことを根掘り葉掘り尋ねたらしく、その後速攻で自分の番組に出演させることにしたようです。目端の効く商売人は、やはり違う!!
これをきっかけに、ビートルズは全米放映のテレビ番組「エド・サリヴァンショー」に出演し、伝説を作ったのはご承知のとおり。
テレビと言う、巨大な駒は用意された。もう片方のレコードはどうか?
【バクチは、丁半駒が揃わないと勝負にならない】
我らがマネージャー”ブライアン・エプスタイン”登場ー
Gマーティンがレーベル探しに苦労する一方、エプスタインも動いていました。彼はビートルズがまだアマチュアだったころから、ロンドン中のレコード会社に彼らを売込まくった人です。断られてもへこたれません。
US Capitolの「社長」に直接電話を掛けて、「なぜ、あなたたち(Capitol)はビートルズのレコードをアメリカで出そうとしないのか?」と詰め寄ったそうです。当時社長だったアラン・リヴィングストンは語る「ある日、ブライアン・エプスタインと名乗る見知らぬ人物から国際電話がかかってきたんだ」。系列が同じのEMIレコードとも関係がありそうなので、一応、会議で諮ることにして、上記の”大のビートルズ嫌い”だが"耳の良い"デイブ・デクスターに相談します。アラン「ビートルズって、何者だい?イギリスですごい人気らしいじゃないか?」デイブ「ビートルズはダメです。忘れてください。アイツらは髪が長いだけのガキどもです」その後、新聞等でもいよいよビートルズのブーム上陸を予感させる記事を読んだアランは再度デイブに聞いたそうです。デイブ「だから、ヤツラのことは忘れてください、って。とにかく、ビートルズはナッシングなんです」と彼も頑なでした。
やはり、アランも業界人特有のカンなのでしょうか?「彼らには何かある。」と感じたのとエプスタインの熱心さに打たれたのかもしれません。
「ビートルズというバンドのレコードを出すことにした。仮に失敗してもCapitolが失うものはなにもなかった。あとは歴史が示すとおり。」
【進軍ラッパが鳴り響く】
ついにUS Capitalもビートルズに将来性があるということに気づき、1963年のクリスマスの翌日、シングル「I Want To Hold Your Hand(抱きしめたい)」を発売します。3週間後、この曲はBillboard誌のチャートに入り、1964年2月1日には首位をマーク。以降、実に7週に亘ってそのポジションを維持し続けました。
クリスマス前の時期に、Capitolは既にプロモ-ション・キャンペーンを始めていました。ニューヨーク・エリアだけで5万ドルという過去に例のない額の予算を投じ、「ビートルズがやって来る」と告知したのです。その宣伝文句通りに、ビートルズはNYに姿を現しました。『エド・サリヴァン・ショー』で7,300万人以上と言われる視聴者の前で演奏を披露しました。
社内の調整で、やや出遅れたUS Caputolは、その遅れを取り戻すため、1964年1月20日にビートルズのアメリカ編集によるアルバムをリリースすることにしました。
そのアルバム『Meet the Beatles!』のジャケットには、「ビートルズのアメリカにおける最初のアルバム(The First Album)」とうたわれていました。
【窮鼠猫を嚙む―Vee Jay VS US Capitol Round.1】
Vee-Jayはその間、どうしていたのか?
1963年12月初めに『ニューヨーク・タイムズ』や『CBSイブニング・ニュース』などがビートルズの特集記事と特集番組を組み、いよいよ全米にビートルズのブームがやってくる気配が濃厚でした。Capitolも宣伝に5万ドルを費やすとの話です。ここに、Vee-Jay社は乾坤一擲の勝負に出ます。
Capitolが大々的にビートルズを売り出す計画があることを察知したVee-Jay社は、Capitalを出し抜く形で夏ごろに凍結されていたアルバムのリリースを本格的に再始動することにしました。Capitolが1964年1月20日に「Meet the Beatles」をリリースすることが判明したので、VeeJay社は駆け込みで1964年1月10日に1stアルバムを発売。間一髪、滑り込みセーフで同社は歴史上、ビートルズのアメリカにおける「The First Album(アルバム発売第一号)」を販売したレコード会社との名声を得たのです。
そして世に出たのが「Introducing The BEATLES」です。
「Love Me Do / P.S.I Love you」入りの1st ver.
UKオリジナルPPMから、1963年にVeeJay社から先行発売されたシングルの「Please Please Me / Ask Me Why」をのぞいた12曲入りのアルバムが発売されました。UKオリジナルのPPMからタイトル曲が省かれたので、アルバムタイトルも「Introducing The BEATLES」と、平凡なものになったようです。
【激闘は死闘になった-Vee-Jay VS Capitol Round.2】
ついに全面戦争となった両社ですが、歴史が示す通り1st.アルバム米国内発売第一号の栄誉はVee-Jay社です。栄誉を目のまえで横取りされたCapitolは屈辱に燃えて反撃に出ます。著作権に関して「 Love Me Do / P.S.I Love you」の収録について提訴したのです。
この間の成り行きについて、Vee-Jay社のオーナーだったヴィヴィアンの弟カルヴィン・カーターはこう語っています。「Vee-Jayがあのアルバム(Introducing・・・)を出すと、EMIがCapitolを通して販売停止を求める法的措置を執ってきた。毎週のように販売停止命令が来たよ。月曜日にその命令が来たら、こちらも裁判所に訴え出て、金曜日には命令が取り消される。だから週末にレコードをプレスして月曜日に出荷してしまう。週末になるたびに、休みなしでプレスを続けていた」。
元々、弱小レーベルで経営の厳しいVeeJay社はCapitolと裁判で争う気力も体力もないので、やむなく曲の差し替えを選択。こうして、1964年1月27日(2月10日とも)に「Please Please Me / Ask Me Why」と「Love Me Do / P.S.I Love you」を差し替えた第二版が発売されることになりました。
ほぼ同時期に発売された両アルバムですが、やはり大会社キャピトルの宣伝力もあり、チャートアクションでは「Meet -」が1位であり「Introducing - 」は2位で追走する形になりました。確かに「Meet -」は、"Capitalからリリースされた最初のビートルズのアルバム”だったことは事実です。「Meet-」は1964年2月15日のBillboard誌のアルバム・チャートの1位に到達。それから11週間もその位置に留まり、発売後2か月で365万枚も売れたそうです。その後は同じくビートルズの『The Beatles’ Second Album』に首位の座を明け渡しています。
対する「Introducing… 」はどうだったか?同じくアルバム・チャートで2位に達し、そこに9週間留まりました。Vee-Jayは、ここで追い打ちをかけるべく、アルバムを出すだけに飽き足らず、まだ販売権を有していたシングルも再発売することにしました。1964年1月30日、Vee-Jayからシングル「Please Please Me / From Me To You」(VJ581)が発売されました。
その後、Vee-Jay社は商魂逞しく、4曲分とフランク・アイフィールドなるシンガーとのカップリング・アルバムやジャケットを変えた第二版を2種類発売するなどしました。しかし、アメリカのファンもさすがに推しきれなかったのか、あまり売り上げには貢献できず、Capitolの後塵を拝するのが精いっぱいだったようです。
【戦いすんで日が暮れて・・・】
提訴合戦の末に、1964年4月両社は和解に達し、1964年10月まではVee-Jay社がすでに所有していたマスター音源からレコードを発行し続けることを認め、それ以降はビートルズに関するアメリカでの全販売権はUS Capitolに戻ることになりました。※細かいようですが、元々販売権は"EMI=パーロフォン"がVee-Jayに与えたものであり、法的にはEMIの姉妹会社であるCapitolにも販売権があったと言われています。
1964年でVee-Jayは、世界で最も人気のあるバンドのレコードを発売し、空前の利益を上げたことになります。このレーベルは1960年代、全米レコード協会(RIAA)の監査を受けませんでしたが、後に関係者がVee-Jayの会計係から売上データを入手し、精査したことで1964年に発売されたアルバム『Introducing... the Beatles』と他のビートルズのシングル3枚がプラチナ認定(100万枚以上販売)されています。
ビートルズのおかげで空前の利益を上げたVee-Jayですが、すでに転落の兆しはありました。元々の経営基盤の弱さや引きずってきた借金問題等により、どれだけ利益を上げても開いた穴は塞がらず、結局1966年にレーベルは破産を申請しました。販売権もそのままCapitolの手に渡りました・・・。
夢破れて山河あり
夏草や、つはものどもが夢のあと
⇒ ②へ続く。次は、レコード購入編です。
