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『僕の自意識がシュヴァルツシルト半径を超えて世界を救う』⑤

【第1話はこちらから】

第5話:火曜日の倦怠と、喫茶店に沈殿する魂たち




 時計の針を、少しだけ巻き戻そう。

 午前十時。大学という名の煉獄にて。

 講義室は、昭和の遺物のような――というか、もはや高度経済成長期の化石のような建物だった。

 壁の塗装は皮膚病のように剥がれ落ち、天井には雨漏りの染みがロールシャッハ・テストのような模様を描いている。窓枠は歪んでいて、風が吹くたびにガタガタと老人の入れ歯のような音を立てていた。

 僕は、後ろから三番目の席、通称「哲学的避難所」に座っていた。
 教壇では、教授が単調な声で講義をしている。

「……このように、サルトルの実存主義哲学においては、『存在は本質に先立つ』という命題が……」

 教授の声は、耐用年数を過ぎた扇風機のモーター音のように、一定のリズムで眠気を誘う周波数を放っていた。それはもはや講義ではなく、集団催眠の儀式に近い。

 僕は、ノートに何も書いていない。
 代わりに、欄外に意味のない落書きをしていた。

 渦巻き。

 四角。

 そして、フラクタル図形のような無意味な幾何学模様。

 これは決して時間の無駄ではない。教授の言葉を右脳で受け流しつつ、左脳で宇宙の真理(カオス)を描写するという、高度なマルチタスクだ。

「……赤城せ……」

 隣の席から、小声で呼びかけられた。

 振り返ると、一ノ瀬小春がいた。
 彼女はいつもの巨大なトートバッグ(中には核シェルター並みの物資が入っていると噂されている)を膝の上に乗せ、心配そうな顔でこちらを見ていた。小動物のような瞳が、僕の怠惰を糾弾している。

「先輩、寝てました?」

「寝てない」

 僕は即答した。コンマ一秒の遅れもなく。

「瞑想していた。思考の深淵に潜りすぎて、肉体の反応速度が低下していただけだ」

「……嘘ばっかり」

 小春が、呆れたように笑った。

 その笑顔を見て、僕は少しだけ罪悪感を覚えた。
 彼女は真面目に講義を聞き、ノートを取り、未来への投資をしている。対して僕は、ただの酸素消費マシーンとしてここに存在しているだけだ。

「でも、先輩」

 小春が、僕のノートを覗き込んできた。

「この渦巻き、なんですか?蚊取り線香?」

「……銀河の構造だ」

「え?」

「宇宙は渦を巻いている。そして、僕の思考もまた、渦を巻いている。つまり、この落書きは僕と宇宙の相似形を表現した、高度な哲学的スケッチだ。蚊取り線香などという即物的な解釈は慎んでくれたまえ」

「……はぁ」

 小春は、完全に呆れた顔をした。

 だが、その顔が不思議と可愛かったので、僕は自分の屁理屈に満足した。



 午後一時。学食という名の戦場にて。

 講義が終わり、僕たちは学食へ向かった。

 昼休みの学食は、飢えた獣たちの饗宴だ。揚げ物の油の匂いと、若者たちの過剰なエネルギーが充満し、空気の密度が通常の三倍になっている。

 空いている席を探すのは、サハラ砂漠で一粒のダイヤモンドを探すより難しい。

「先輩、あそこ空いてます!」

 小春が、奇跡的に空いた奥の席を見つけた。僕たちは、ハイエナのような他の学生たちを制し、急いでそこへ向かった。

 席に着くと、小春がトートバッグから何かを取り出した。

「はい、これ」

 重箱のような大きさのタッパーだった。

「……まさか、俺の分もあるのか?」

「当然です」

 小春は、胸を張って誇らしげに言った。

「先輩、一人暮らしでしょ?コンビニ弁当ばかり食べてると、身体から防腐剤の匂いがしてきますよ。ちゃんと食べてないと思って」

 蓋を開けると、そこには色とりどりのおかずが、テトリスのように隙間なく詰まっていた。
 卵焼き、唐揚げ、ポテトサラダ、そしてミートボール。
 茶色と黄色と緑のコントラスト。それは、コンビニの棚には存在しない「生命の色」をしていた。

「……すごいな」

 僕は、素直に感心した。

「お前、こんなの毎日作ってるのか?俺なら三日で発狂する作業量だぞ」

「はい。朝、早起きして作ってます」

「何時起き?」

「六時です」

「……早すぎだろ。鶏だってまだ寝てる時間だ」

「先輩のためなら、全然平気です!」

 小春は、屈託なく笑った。

 その笑顔を見て、僕は胸が少し痛くなった。胃酸が逆流するような痛みではない。もっと甘く、切ない痛みだ。

(こんな俺のために、六時起きか……。俺は前世でどこかの国でも救ったのだろうか。それとも、とんでもない詐欺師だった罰を受けているのだろうか)

 僕は、卵焼きを一つ食べた。

 甘い。

 致死量に近い砂糖が入っている。
 そして、少しだけ焦げている。

 完璧じゃない。

 でも、だからこそ美味しい。工業製品には出せない、「揺らぎ」の味がする。

「美味いな」

「本当ですか!?」

 小春の顔が、パッと明るくなった。ひまわりが太陽に向くような勢いだ。

「よかった!実は、卵焼き、ちょっと焦がしちゃって……」

「焦げてるくらいがいいんだよ」

 僕は、もう一つ食べた。

「完璧な料理なんて、つまらない。焦げとか、塩加減のミスとか、そういう『失敗』が料理に人間性を与えるんだ。AIには作れない味だよ」

「……先輩らしい理屈ですね」

 小春は、笑いながら自分の弁当を食べ始めた。

 僕たちは、しばらく無言で食べた。

 学食の喧騒の中で、この小さなテーブルだけが、静かな無人島のようだった。周りの学生たちが「ウェーイ」とか「マジ卍」とかいう謎の言語で会話しているのが、遠い異国のラジオのように聞こえる。

「……なあ、小春」

「はい?」

「お前、なんで俺みたいな面倒くさい奴に付き合ってくれるんだ?ボランティア活動の一環か?」などという、自意識の暴走極まれりといった野暮な質問が喉まで出かかったが、辛うじて奥歯で噛み殺した。ここでパンドラの箱を開けてしまえば、彼女の高性能な善意フィルターが深刻な機能不全を起こす危険性があった。

 小春は、箸を止めた。そして首を傾げてこちらを見る。

「何でもない。忘れてくれ」

 ミートボールを口に入れたまま、小動物のようにせわしなく口を動かす。そしてゴクリと嚥下(えんげ)し、物理的な質量を胃袋に落とし込んでから笑った。

「先輩は面白いですね」

「面白い?ピエロ的な意味でか?」

「違いますよ。でも」

「でも?」

 小春は、はにかむように笑うと視線を逸らした。

「何でもありません。やっぱりピエロ的に面白いのかもしれません」

「なんだよ、結局ピエロか」

 僕はため息をついた。

 まあいい。いずれ彼女も、物理的な運動量と汗の爽やかさだけが取り柄の、サッカーボールを追いかけるような陽キャ男子に順当に惹かれていくのだろう。

 それまでの間、無害な暇つぶしのピエロとしてこの僕という特異点(シンギュラリティ)を観察しているのだ。なるほど、それなら宇宙の法則として極めて合理的で、納得がいく。

 食堂の窓から心地よい春風が吹き抜けた。



 午後三時。図書館という名の、静寂の保管庫にて。

 小春は午後の講義へ向かい、僕は一人、図書館へ足を運んだ。空調の効いた館内は、病院の待合室のように清潔で、そして少しだけ死の気配がした。ここにあるのは、死んだ人間たちが遺した思考の墓標(本)だ。僕はその墓参りに来たわけである。

 哲学書のコーナー、カントとヘーゲルの間で、一人の男が異彩を放っていた。金髪にピアス。安全ピンで補修された破れたジーンズ。林田だ。この神聖なる知の殿堂において、彼は明らかに異質に存在していた。

「よう、赤城」

 林田が、気だるそうに手を上げた。その手には、銀色のスカルリングが光っている。

「なんだ、お前も墓参りか」

「たまにはな。死者の言葉の方が、生者の戯言よりも聞き取りやすい時がある」

 林田の手元には、カミュの『異邦人』があった。彼は乱暴に本を閉じた。バタン、という音が静寂に響き、司書が鋭い視線を投げてくる。

「この本、図書館で読むもんじゃねえな。空気が綺麗すぎる」

「同感だ」と僕は隣に座った。

「本というものは、もっと埃っぽくて、カビ臭い場所で読むべきだ。肺を汚しながら読むことで、初めて著者の魂とリンクできる」

「なあ、赤城。今夜、スタジオ来いよ」林田は立ち上がった。チェーンがジャラジャラと音を立てる。

「バンドの練習だ。お前みたいな、理屈っぽくてひねくれた奴の感想が欲しいんだ。凡人の『いいね』なんて、俺にはノイズでしかない。七時、新宿のスタジオな。鼓膜の予備を持ってな」

 そう言って、林田は去って行った。その背中は、図書館の静寂を切り裂くナイフのように鋭利だった。僕は、彼の音楽にはいつも「生」の匂いがすることを思い、立ち上がった。



 午後七時。新宿の地下スタジオにて。

 雑居ビルの地下深く、湿ったコンクリートの箱の中に、その場所はあった。

 防音扉を開けた瞬間、空気の密度が変わった。
 タバコの煙、安物の缶ビールの発酵臭、そして男たちの汗。それらが混ざり合い、視界が白く濁っている。

「来たか」

 林田が、レスポールを抱えて迎えた。

「こいつが、俺のバンドメンバーだ。ドラムのタカシと、ベースのユウタ。社会不適合者の選抜チームだ」

 二人の男が、気だるげに手を上げた。彼らの目は、深海魚のように光がなく、しかし奥底で何かがメラメラと燃えていた。

「じゃあ、聞いてくれ。新曲『コンクリート・ジャングル・ブギウギ(仮)』だ」

 林田が、アンプのボリュームを最大に回した。
 ジィィィィ……という、電気的なノイズが、空気をビリビリと震わせる。

 そして、演奏が始まった。

 ガシャーン!!

 最初の一音から、それは音楽ではなかった。暴力だった。

 建設現場の崩落事故を録音して、倍速再生したような轟音。

 歪みきったギター。不整脈を起こしたようなドラム。地を這うようなベース。

 そして、林田の声。

「社会が俺を殺すなら! 俺が社会を殺してやる!! 就職?結婚?老後の年金? クソ食らえだ!俺の墓場はここにある!!」

 その声は、音程という概念を放棄していた。

 ただ、喉から血が出るまで魂を擦り合わせるような、純粋な叫びだった。

 僕は、その音の壁に押しつぶされそうになりながら、立ち尽くしていた。

 うるさい。汚い。不快だ。

 でも、嘘がない。

 ここには、取り繕った「美しさ」が一ミリもない代わりに、むせ返るような「実存」があった。

 三分間の演奏が終わった。

 ハウリングの残響の中、林田が肩で息をしながら僕を見た。

「どうだ?」

「……ひどいな」僕は、素直に答えた。

「騒音規制法に抵触するレベルだ。聴いているだけで寿命が縮んだ気がする」

「ハハッ、最高の褒め言葉だ」

 林田の顔が、悪戯に成功した少年のように輝いた。

「でも、これじゃ売れないぞ。商業音楽としての体を成していない」

「売れなくていい」林田は、即答した。

「俺は、本物の音を出したいだけだ。売れるとか、評価されるとか、そんなのどうでもいい。俺の音が、誰か一人の孤独な夜に届けば、それでいいんだ」

 その言葉が、僕の胸の奥にある、柔らかい部分を突いた。

(……こいつ、かっこいいな)

 売れなくてもいい。評価されなくてもいい。
 ただ、自分の信じる「美しさ」を貫く。

 それが、林田という男の生き方なのだ。



 午後九時。再び、喫茶店『斜陽』にて。

 耳鳴りを抱えたまま、僕たちは『斜陽』の扉を開けた。
 店内には、既に一人の男が鎮座していた。

 時代遅れのダブルのスーツを着込み、六法全書と向き合っている男。田村だ。彼はまるで、その席で百年以上前から化石になるのを待っているかのような落ち着き払った態度だった。

「よう、田村さん」林田が声をかけた。

「今日も六法全書とデートか?その本のどこに、そんな性的な魅力があるんだ」

「愚問だな」

 田村は、分厚い本をペルシャ猫の背中のように優しく撫でた。

「条文の配列の美しさがわからないのか?これは文学だ。第一条から最終条まで、無駄な形容詞が一つもない。ヘミングウェイも裸足で逃げ出すハードボイルドさだ」

「変態だな」林田は短く切り捨てた。

 僕たちは、田村の向かいに座った。
 マスターが、無言で水を持ってきた。その水は、南極の氷山から切り出してきたかのように冷え切っている気がした。

「いつものでいいかい?」

「ああ、泥水……いや、アイスコーヒーをくれ。シロップは抜きで。人生の苦味だけで十分だ」

 僕は気取って注文した。

「……で、赤城」

 田村が、眼鏡の位置をナノメートル単位で修正しながら言った。レンズの奥の目が、取調室のライトのように光る。

「君、就活はどうするんだ?エントリーシートの進捗は?社会という巨大な歯車に噛み合うための潤滑油は用意できたのか?」

「……考えてない」

「考えてないって、君、四年だぞ。モラトリアムの砂時計は残りわずかだ。砂の一粒一粒が、君の将来の年金受給額を削り取っているんだぞ」

「知ってる」

 僕は、深く重い溜息をついた。肺の中の空気がすべて鉛に変わった気分だ。

「でも、俺、会社員になりたくないんだよな。満員電車に乗って、死んだ魚のような目で出勤する自分を想像すると、前頭葉が痺れてくる」

「じゃあ、何になるんだ?ニートか?高等遊民か?それとも光合成でも始めるつもりか?」

「作家」

「……」

 田村と林田が、顔を見合わせた。

 そして、同時に、深く、長く、湿った雑巾を絞るような溜息をついた。

「お前、正気か?」

「正気だ。少なくとも、この狂った世界においては」

 僕は、テーブルの上の砂糖壺(蓋がベタベタしている)を見つめながら答えた。

「俺は、自分の言葉で世界を語りたい。既存の言葉じゃ、僕が見ている世界の色――例えば『腐ったミカンのような夕暮れ』とかを表現できないんだ。それができるのは、作家だけだ」

「でも、作家で食える奴なんて、一握りだぞ。ツチノコを発見するより確率が低い」

「知ってる」

 僕は、運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ。苦い。まるで、失われた青春を煮詰めたような味がした。

「でも、やるしかない。俺には、それしかないんだ。言葉以外に、僕が世界と接続するインターフェースがない。USBポートが壊れたハードディスクみたいなもんだ」

 田村は、しばらく黙っていた。

 そして、小さく、自嘲気味に笑った。

「……まあ、君らしいな。非効率極まりない」
「どういう意味だ?」

「褒めてるんだよ。公務員法的には推奨されない生き方だがな」

 田村は、六法全書を閉じた。バフッ、と重い音がして、数十年分の埃が舞った。

「僕は、公務員になりたい。それも、窓口業務じゃない。国の根幹を支える官僚機構の一部になりたいんだ」

「権力が欲しいのか?」林田が鼻で笑う。

「違う。僕は『定規』になりたいんだ」

「定規?」

「ああ。この混沌とした世界に、真っ直ぐな線を引くための定規だ。感情も、情熱もいらない。ただ、規則通りに世界を運営する。僕が完璧な歯車になれば、この狂った社会マシーンも、少しは静かに回るはずだ」

 田村の目は本気だった。彼は、自分自身を書類の山に埋葬することを夢見ているのだ。ある種の殉教者に見えなくもない。

「俺は」林田が割り込んだ。

「ロックスターになりたい。世界を破壊するために。定規なんてへし折ってやる」

「僕は」田村が返す。

「エリート官僚になりたい。世界を管理するために。へし折られたら、予備費で新しい定規を買うまでだ」

「僕は」最後に僕が言った。

「ミリオンセラー作家になりたい。その『破壊』と『管理』の様子を、安全な場所から記述するために」

 三人の視線が交差した。

 みんな、無謀だ。確率論で言えば、全員が野垂れ死ぬか、あるいはコンビニの深夜バイトで一生を終える未来が一番濃厚だ。だが、それがいい。

「おう」林田が、拳を突き出した。

「俺たち、バカだけど、本物だろ。混ぜ物のない、純度一〇〇%のバカだ」

 僕は、林田の拳に自分の拳を合わせた。

 田村も、少し照れくさそうに、しかし「公務執行妨害には当たらない」と判断したのか、力強く拳を合わせた。

 ゴツン。

 三つの拳が、ぶつかり合う音がした。

 映画のようなカッコいい音ではない。冷蔵庫の奥で干からびたハム同士がぶつかるような、鈍くて、情けない音だ。

 でも、その音が、僕たちの「重たい絆」の証明だった。



 午後十一時。夜の帳と、長い影。

 喫茶店を出ると、夜風が吹いていた。
 昼間の熱気を冷ますような、冷たくて優しい風だ。どこかの家で焼いているサンマの匂いが微かに混じっている。

「じゃあな、赤城」

「また明日。明日は憲法の判例を暗記する日だ」
 二人は、それぞれの夜へ――林田は騒音の中へ、田村は条文の森へ――帰って行った。

 僕は、一人、夜道を歩いた。

 アパートまでの道のりは、十五分ほど。
 街灯が、僕の影を長く伸ばしていた。アスファルトに張り付く黒い影。それは僕の実存そのものであり、同時に、僕がこの世界に落としたインクの染みのようにも見えた。

(……僕は、幸せなのかな)

 就職もしてない。将来も見えない。財布の中には千円札が一枚と、期限切れの割引券が数枚。
 客観的に見れば、社会的底辺だ。プランクトンの方がまだ生産的な活動をしているかもしれない。

 でも、不思議と不安じゃない。
 なぜなら、僕には「仲間」がいるから。

 バカで、無謀で、でも地面に足をつけて、それぞれの地獄へ向かって行進している仲間が。

 アパートに着いた。
 鍵を開けて、部屋に入る。
 六畳一間の、狭い部屋。

 床には、読みかけの本が地層のように積まれている。雪崩が起きたら僕は圧死するだろう。
「知の雪崩による名誉の死」だ。悪くない。
 机の上には、万年筆と、白い原稿用紙。

「……明日も、書くか」僕は、机に向かった。

 白い紙。

 まだ、何も書かれていない雪原のような白さ。この白さが、可能性であり、同時に「お前には何も書けない」と嘲笑う悪魔の顔でもある。

 僕は、万年筆を握った。

 そして、最初の一文字を書いた。

『僕』

 その文字が、紙に染み込んでいく。
 インクの匂いが、鼻をつく。鉄と、化学薬品と、そして深夜の憂鬱が混ざった、冷たくて知的な匂い。

 この匂いが、好きだ。

 これが、僕の「生きている」匂いだから。ファブリーズでは決して消せない匂いだ。



 深夜、僕はまだ書いていた。

 頭の中には、壮大な伽藍のようなイメージがある。でも、それを言葉にしようとすると、雨ざらしの段ボールハウスになってしまう。

「……くそ」

 僕は一度、万年筆を置いた。才能がないのかもしれない、という思考が喉の奥にせり上がってくる。だが、僕はそれを黙って飲み込んだ。作家になるというのは、そういうことだ。

 下手でもいい。不器用でもいい。書き続けるしかない。それが、僕の戦い方だから。重力に逆らわず、泥の中を這いずり回るナメクジのような、みっともない戦い方だから。

 夜明け頃、原稿用紙の束を見た。二十枚。魂を大根おろし器ですり下ろした残りカスのような二十枚だ。論理は破綻し、比喩は過剰で、登場人物は全員僕に似て性格が悪いだろう。

 でも、書ききった。そこに意味がある。たぶん。

 僕はベッドに倒れ込んだ。その重さが、今は少しだけ心地よかった。これが「生きた」証拠だから。

9

 翌朝、僕は盛大に寝坊した。
 十一時の太陽が、僕の惰眠を嘲笑っていた。

「……やべ」

 一限の講義、実存主義の続きを完全に寝過ごした。存在が本質に先立つ前に、睡眠が講義に先立ってしまった。サルトルも草葉の陰で呆れているだろう。

 でも、まあいいか。

 今日は火曜日。
 何も起きない、平凡な火曜日。

 世界が滅びる予定もないし、救世主が現れる予定もない。だが、このモラトリアムという名の巨大な岩を背負い、無意味に坂を登り続けることにこそ、僕の実存は宿っていた。

 僕は、起き上がった。

 顔を洗い、よれたTシャツを着替え、アパートを出た。

 外は、晴れていた。
 太陽が、眩しい。影が、濃く落ちている。

「……さて、今日も生きるか」

 僕は、大学へ向かって歩き出した。

 ザッ、ザッ。

 その一歩一歩が、不恰好な足音を立てて確かに地面を踏みしめていた。

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