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『ポマードと、世界の終わりと、消し忘れの男』①

あらすじ

 世界中の人類から突然「髪の毛」が消滅した。

 記憶ごと消え去ったため、誰も何かを失ったとは気づかない。ただ一人、泥酔した夜にポマードを洗い忘れて寝落ちした経理部員・坂本勲を除いては。

 一糸乱れぬ七三分けを乗せ、全人類がスキンヘッド化した「球体の海」をサラリーマンとして生きる坂本は、自分が世界の崩壊を止める唯一の「観測者」に選ばれたと確信する。

 テレビ局の女性ディレクター・望月薫と手を組み、世界のバグを告発しようとする坂本。
 しかし、経理マンとしての冷徹な数字の査察が暴き出した「世界の真実」は、あまりにも残酷で滑稽なものだった。

 不条理SF×経理ミステリー、一円のズレも許さない男の観測記録。

『ポマードと、世界の終わりと、消し忘れの男』

第一章:凝固するポマード、球体の海に浮かぶ昆布

1.前夜、ヘルメットの凝固


 目を覚ますと、いつもと同じ朝だった。

 いつもと同じ、というのは坂本にとって最大の褒め言葉だった。

 カーテンの隙間から差し込む光の角度。目覚まし時計の針が6時15分を指している事実。

 そして何より、洗面所の鏡に映る自分の七三分けが、昨日と寸分違わぬ形で鎮座しているという確かさ。

 坂本にとって、朝に七三分けをセットする行為は単なる身だしなみではなかった。乱れた世界を、正しい秩序へと手動で立て直す、一日一回の小さな儀式だった。

 樹脂の塊をこめかみに押し当て、黒い髪を左七、右三の比率で分ける。その作業が完了した瞬間だけ、坂本は自分が正しくこの世界に存在していると感じることができた。

「坂本さん、それ、もはやヘルメットですよ」

 20時20分、居酒屋の安っぽいメニュー板とテーブルを挟んで、入社二百日目の若手社員、諸星琉生(もろぼし るい)が大口を開けて笑った。彼は軽やかなマッシュヘアを揺らしていた。

 坂本勲(さかもと いさお)は、手元のジョッキを机に置き、人差し指で眼鏡のブリッジを押し上げた。

「失礼だな、君は。これはヘルメットではない。七三分けだ。男の格は、額の出し方で決まる。昭和のビジネスマンはみんな、こうして戦場へ向かったんだ」

 坂本の頭髪は、大正時代から続く伝統の油性ポマードによって、1ミリの狂いもなく固められていた。現代のワックスのような「自然な束感」などという軟弱な思想は一切ない。

 樹脂と油分によって一本の強固な構造体へと変貌したその黒髪は、確かに叩けば「コン、コン」と硬質な音を立てそうだった。

「まぁ、先輩のアナログ信仰には誰も勝てないっすわ」

 若手がスマホをいじりながら笑う。坂本はそのデジタル端末から目を背け、焼き鳥のタレを口に運んだ。

 スマホも、SNSも、世間を騒がせている最新のAIアプリも、坂本の性分には合わなかった。彼は、革の手帳に油性ボールペンで数字を書き込む時間を何より愛していた。手帳の罫線の中に、狂いのない数字がピシッと整列していくその瞬間こそが、彼にとって世界が正しく機能している証だった。

「でも確かにあと50年早く生まれていたら、先輩は30歳で常務くらいにはなってましたね。先輩、仕事はできますからね」

 諸星は軽やかにフライドポテトを口に投げ入れた。

「仕事ができる、か」

 坂本はジョッキを傾け、泡の消えかけたビールを一口飲んだ。

「お前、経理の仕事で一番大事なことが何か知ってるか」

「数字を合わせること、ですか」

「帳尻を合わせることじゃない。合わない帳尻を、合わないと言い続けることだ。何者にも忖度せずにな」

 諸星は「はあ」と気のない返事をしながら、スマホの画面に目を落とした。

 その夜、坂本は珍しくひどく泥酔した。

 ワンルームの自宅に這い帰り、ネクタイだけを緩めてソファにバタンと倒れ込む。風呂に入る気力など微塵もなかった。

 意識がものの数秒で灰色のソファに溶けていく。

 彼が意識を失っている深夜、頭皮の上でポマードの樹脂成分が部屋の乾燥した空気と混ざり合い、完全にコンクリート状に凝固していった。


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