生と性と死。すべては「生きる」につながっている話。
「生と性と死」
この三つの言葉を並べると、少し重たいテーマに見えるかもしれません。でも、釧路から帰ってきた今、私の中に残っているのは、不思議なくらい「生きる」ということでした。
先日、北海道・釧路で開かれた仏教青年会の集まりで「生と性と死を考える ~性とどのように向き合うか~」をテーマにお話をさせていただきました。
福岡から北海道へ。
正直、このテーマについて話すことになったとき、私自身もまだ答えを持っていたわけではありませんでした。
ただ、13年間、AVという「性」を扱う世界にいた私には、どうしてもこのテーマを他人事として考えることができませんでした。

「死」は、私にとって遠い話ではない
この業界では、男優も女優も、そして制作者も、自ら死を選んでしまった人たちがいます。
一緒に仕事をした人。
同じ時代を生きていた人。
名前を知っていた人。
そういう人たちが、ある日いなくなってしまいます。
だから私にとって「死」は、決して遠い場所にあるものではありません。
私事ですが、幼い頃から母と一緒に私を育ててくれた叔母が、今、入院しています。毎日、病院に行ったり電話をしたりする中で、体調の変化を感じるたびに、身近な人を失うことへの怖さも感じています。こうして死について考えていても、簡単には受け止められない気持ちがあります。
そして「性」もまた、ずっと私の人生のすぐそばにありました。
でも今回、改めて思ったんです。
そもそも「性」って、セックスのことなのでしょうか。
セックス=性、ではない
私たちは、どうしても
「性=セックス」
と考えてしまいがちです。
でも「性欲」というものをもう少し深く考えてみたら、単純にセックスがしたいということだけではないのかもしれません。
誰かと繋がりたい。
誰かの温もりを感じたい。
触れたい。
触れられたい。
自分の存在を受け止めてほしい。
そう考えると、それは「欲」というより、むしろ「愛」に近いものなのかもしれません。
誰かを求めることも、
寂しいと思うことも、
温もりが欲しいと思うことも、
全部、生きている人間の自然な感情なんじゃないかと思いました。
性を排除しない、という考え方
今回、私がとても印象に残ったのが、浄土真宗の考え方でした。

古川先生のお話の中に、
「思い通りにならない世の中で、思い通りには生きられない『私』をそのまま救う」
という言葉がありました。
性も、欲も、死も、
人間から切り離して「ないもの」にしようとするのではなく、
それを抱えた人間そのものを見つめます。
私は、その考え方がすごく好きでした。
「欲をなくしなさい」ではなく、
欲も弱さも迷いもあります。
そのままの人間として生きています。
それを前提に考えていくのです。
私が長くいた「性」の世界とも、不思議なくらい重なるものがありました。
紅音ほたるちゃんから繋がったご縁
そして、今回この会を開いてくださった浄土真宗本願寺派の僧侶・古川潤哉先生。
佐賀県伊万里市の浄誓寺で、ホスピスや緩和ケアへの関わりから、HIV/AIDSの支援、性教育や若者の生きづらさに向き合う活動を続けてこられた方です。
実は古川先生は、紅音ほたるちゃんのお別れ会のときに、お経を読んでくださっていた方でした。
あのときは、ひとりの人の「死」を見送る場所でした。
そして何年もの時間を経て、今度は「生と性と死」について一緒に考える場所で、再びお会いすることになりました。
あの頃には想像もしていなかった巡り合わせです。
「死」という場所で一度繋がったご縁が、
今度は「どう生きるか」を考える場所に繋がっていました。
今回のご縁には、どこか不思議な意味を感じました。
森林原人さんの言葉
今回ご一緒した森林原人さんのお話も、本当に勉強になることばかりでした。
一つひとつの言葉をとても丁寧に紡いでいて、
優しくて、
それでいて時々、ふっと笑えるユーモアがあります。
「性」や「死」というテーマは、どうしても重くなりがちです。
でも原人さんの話を聞いていると、性の話も結局は特別なものではなく、
「人間ってこうだよね」
というところに戻ってきます。
難しいテーマを、ちゃんと人間の話に戻してくれます。
その話し方も、考え方も、私にとってたくさんの学びがありました。
性も、死も、生の中にある
「性」という言葉も、
「死」という言葉も、
どこか暗かったり、隠したかったり、触れてはいけないものとして扱われることがあります。
でも、
生きているから性があります。
生きているから誰かを求めます。
生きているから誰かの温もりが欲しくなります。
そして、生きているからこそ死について考えます。
性も、生も、死も、
本当はそれぞれ別々に存在しているわけではないんだと思います。
全部、繋がっています。
性を受け入れることも、
死を見つめることも、
結局は
「私はどう生きるのか」
という問いに繋がっていきます。


ちなみに釧路では、こんな可愛いものにも出会いました。
重たいテーマについて考えた時間の合間に、こういう何でもない時間があることも、なんだか「生」そのものだなと思いました。
会場の本行寺には「石川啄木資料館」もあり、文豪とアルケミストとのコラボにも出会えました。素晴らしい場所を提供してくださった菅原住職にも、感謝です。

石川啄木イケメンだった・・・
「生と性と死」を話しに行って、「生」を持ち帰った
「生と性と死」について話しに行ったはずでした。
でも私が釧路から持ち帰ったものは、
結局、
「どう生きるか」
という問いでした。
性も、死も、
「生」の反対側にあるものではありません。
誰かを求めることも、
寂しいと思うことも、
欲を持つことも、
死を考えることも、
すべて、生きている私たちの中にあります。
それを排除するのではなく、
全部抱えながら、生きていくのだと思います。
そんなことを考えた釧路での時間でした。

最後は皆さんと食事をして、笑って、話して。花火を見ました。
「生と性と死」という大きなテーマについて考えた一日の最後が、こうして人と囲む食卓だったことも、なんだか象徴的だった気がします。
浄土真宗の僧侶の皆さま。
釧路市役所の皆さま。
教職員の皆さま。
そして、素晴らしい場所を提供してくださった本行寺の皆さま。
普段なかなか真正面から語ることのない「性」について、立場や職業を越えて一緒に考える機会を作っていただき、本当にありがとうございました。
そして、森林原人さん。
古川先生。
この巡り合わせにも、心から感謝します。
これからも、愛を持って生きていきたいです。


