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バモス!パデル部【小説】第1話-第7話

あらすじ

 高校一年生の翔が偶然出会ったのは、ガラス壁に囲まれた謎のラケット競技「パデル」。日本ではマイナー競技だが、実は世界150ヵ国・競技人口3500万人以上を誇る急成長スポーツだった。
 南米育ちの天才少年リクに導かれ“壁”、“外”、”空“も使う独特のルール、戦術と直感が交錯するゲームに、翔は次第に引き込まれていく。
 個性豊かな仲間たちとの出会い、激闘の校内トーナメント。実はそれがジュニア日本代表選考会だった。突如手にした代表への切符――そしてアジア大会へ。
 「出会い」「違和感」「勝利」「覚醒」を通じて、それぞれが自分の内面と向き合い、本気で戦う意味を見出していく。誰も歩んだことのない道を切り拓く“純パデラー”第一世代の挑戦が、ここから始まる。


プロローグ


 このスポーツに、逃げ場はない。
 四方を囲むのは、厚さ12ミリの強化ガラス。

 ここでは、ボールだけではない。
 己の判断も、剥き出しの感情も、 そして歪な人間関係までもが、等しく跳ね返ってくる。その反射は希望にもなり、絶望にもなる。
 だからこそ、壁を乗り越えない。――“制する”。

 これは、壁に魅せられた者たちが、ガラスの檻の中で紡ぎ出す青春の物語。

第1話「コートが消えた日」


 怒鳴り声が、校舎の壁を叩いた。

 「ふざけんな!!」
 「俺たちの部、どうなるんだよ!」

 体育館の前に人だかり。全員の視線が、一枚の掲示板に釘付けになっていた。

【お知らせ】
バドミントン部・テニス部は部員不足により廃部とします。
新たに「パデル部」を設立します。
校長

 蒼井翔(あおい・しょう)は、肩に落ちた桜を払ったばかりだった。

 「……パデル?」
 聞いたことのない単語。口の中でもう一度転がしかけた瞬間、重い体育館の扉が、金属音とともに開いた。

 「うわ……」
 「なんだよ、これ……」

 誰もが息を呑んだ。

 青。
 床一面を、青い人工芝が覆っていた。
 白いライン。四方を囲む強化ガラス。黒い金属製のフェンス。
 密閉された檻のようなコート。見慣れた体育館は、そこにない。

 「外もだ! テニスコートが消えているぞ!!」

 叫び声に導かれ、生徒たちがグラウンドへなだれ込む。 翔も波に飲まれるように外へ出た。

 かつてのクレーコートは消えていた。
 代わりに並ぶ、青いガラスのコート。強化ガラスが春の日差しを跳ね返し、白く光っている。

 「こんなの、テニスじゃねぇ!!」
 叫んだのは、”元”テニス部エースの小林だった。顔が怒りで赤く染まっている。足元のボールを拾い、真上に放る。そのままテニスラケットをフルスイングした。

――パァン!!
 破裂音が鼓膜を弾く。黄色いボールが一直線に伸びた。
 その先。スマホを見ながら歩く女子生徒。気づいていない。

 「危ない!!」
 声は間に合わない。
 だが、翔の右足がすでに地面を蹴っていた。視界が一点に固定される。
 女子生徒の鮮やかなピンクのメッシュ。記憶の底にある、あの横顔。
 (――マイ!?)
 思考が止まった。身体だけが動く。翔は「盾」になった。

 視界がスローモーションに切り替わる。
 飛んでくるボール。回転の唸り。フェルトの毛羽立ち。
 無意識に突き出した右手。

――バン!!
 掌に熱が走る。骨まで痺れる重さ。それでも足は引かない。
 軌道を強引にねじ曲げられたボールが、マイの数メートル横を、熱風を撒き散らして通り過ぎる。

 校庭が静まり返る。翔はジンジンと脈打つ右手を見下ろした。

 「……いいブロックだ」

 低い声。少し離れた場所に、日焼けした少年が立っていた。翔の目を真っ直ぐ射抜いている。瞬き一つしない。

 「見つけたぞ、ペア候補」
 少年の手には網【ガット】のない、無数の穴が開いた黒い板が握られていた。ボールを真上に軽く放る。コンパクトなスイング。

 (こいつ、来る――!)
 翔の本能が叫ぶより早かった。

――バァァン!!
 空気が爆ぜた。黄色い残像が翔の足元を抉りに来る。
 「速いっ!」

 反射で跳躍。股下をボールがかすめ、背後の校舎の壁に激突した。
 バィンッ!! 鈍い衝撃音。
 コンクリートに叩きつけられたボールが、鋭角に跳ね返って翔の背中に迫る。まるで意志があるみたいに。

 「ッ!!」
 翔は空中で身体をひねり、右手を伸ばす。
 ギリギリで掴み取った。着地。
 沈黙。

 「……おい!」
 翔はボールを握りつぶしながら吠えた。
 「危ねぇだろ、何しや・・・!」

 振り返ると、顔があった。
 「っ……!?」

 三メートル先にいたはずの男が、瞬きの間に翔の懐に潜り込んでいた。

 「ブロックの瞬発力と、近距離で躱す跳力」
 静かな声が、真正面から耳に入ってくる。
 「俺のペアになれ」

 その言葉は、勧誘というよりは「宣告」に近かった。
 脈打つ右手。目の前の男、リクの目が翔を離さない。
 高校初日。止まっていた何かが、翔の胸の奥で音を立てて動き出した。

♢♢♢

『所峰高等学校 入学式』
 体育館の壇上。白い文字が、やけに浮いて見えた。
 さっきまでの喧騒が嘘のように、体育館には冷えた空気が満ちている。整然と並べられたパイプ椅子の硬さが、スラックス越しに尻を刺す。

 「それでは、新設されるパデル部の顧問を紹介します。種木先生です」
 促されて現れたのは、およそアスリートとは無縁そうな男だった。 丸い腹をゆっさゆっさと揺らし、焦点の合わない、とぼけた顔。

 「どーも、どーも。種木でーす」
 軽く手を振り、マイクの前に立つ。
 「新入生のみんな、よろしくねー。パデル部、ぜひ来てねー。バモス、バモス!」
 【スペイン語で「さあ、行こう」】

 間の抜けた掛け声が、静まり返った館内に虚しく響く。 誰も笑わない。冷え切った視線の刃が、壇上の「狸」に突き刺さる。

 だが、種木はヘラヘラと笑ったまま、細めた目の奥をギラリと光らせた。
 「早速だけどねー。校内トーナメント説明会やるよー。未経験者も大歓迎」

 指を一本立て、不敵に付け加える。
 「優勝ペアには、豪華中東旅行をプレゼント。」

 体育館の空気が変わった。さっきまで死んだ目だった生徒たちが、一斉に顔を上げる。

 「マジ!?」
 「海外!?」
 「え、ドバイとか!?」

 「さらに……説明会は、焼肉の食べ放題付き!」
 一瞬の沈黙。

 「はぁ!?」
 「ありえねぇだろ! どんな部活だよ!」

 爆発的なざわめきが体育館を揺らす。
 翔はその中心で、ただ立ち尽くしていた。
 (旅行に、焼肉?……めちゃくちゃだ)

 その時、肌を刺すような視線を感じた。
 少し離れた場所、腕を組んでこちらを見つめるリク。
 『パデル』。 その単語が、翔の胸の奥に重く沈んでいった。

♢♢♢

 放課後の教室。
 頬をかすめる春風の向こう、校庭の隅にガラスのコートが鎮座している。あちこちで「パデル」という単語が飛び交っていた。翔はその熱狂から逃げるように、教科書の隅に幾何学模様を描き続けた。
 (……俺には、関係ない)

 「あっ、いた!」
 顔を上げると、そこにはマイがいた。
 艶やかなロングヘア。毛先に混じる鮮やかなピンクメッシュ。

 「翔、さっきはありがとうね」
 屈託のない笑顔。至近距離で見つめられ、翔は反射的に椅子を引いた。

 「……別に。手が勝手に動いただけだ」
 声が、喉の奥で硬くなる。
 (……マイ)
 幼馴染。かつては隣にいるのが当たり前だった。中学は別々で、高校でまた一緒になった。嬉しいはずなのに、どんな顔をすればいいか分からない。

 「もー、相変わらずなんだから。……放課後、行かないの?」
 「……パデルなら、興味ない」
 「ちがーう」
 マイは悪戯っぽく人差し指を立てた。
 「パデルじゃなくて、種木BBQ」
 「……へ?」
 思わず間の抜けた声が出た。マイが翔の腕を軽く引く。
 「てか……、一緒に行こ?」

♢♢♢

 「……なんだよ、これ」
 翔は思わず立ち止まった。
 校庭の一角に、大きな黒い網。赤々と爆ぜる炭火の上で、見たこともないほど巨大な肉の塊が、脂の音を立てている。滴り落ちる肉汁が火に触れるたびに、香ばしい白煙が空へ立ち上っていた。

 「はい、どうぞ食べてー! 食器ないから手でいってねー!」
 種木が器用に肉を切り分け、生徒たちに配っている。
 野球部も吹奏楽部も関係ない。先輩も後輩も関係ない。剥き出しの肉を頬張りながら、自然と輪ができていた。

 「これぞ南米風・豪快焼肉『アサード』だよー!」

 「マジでうまっ!」
 「なんだこれ、やばい!」

 (……なんだ、この空気)
 翔はただ、その輪を外から眺めていた。知らないはずなのに、どこか懐かしいような感覚。

 ふと、肉を捌く手つきに目が留まった。種木の隣、無駄のない動きで巨大なチョリソーを切り分けているのはリクだ。さっきの鋭い眼差しはない。火照った顔で、先輩らしき生徒に「はい、どうぞ」と穏やかに笑いかけている。
 (……さっきと、別人みたいだ)

 胸の奥がざわついた。
 マイが人混みに入り込み、サイコロほどに切られた肉を二つ摘み上げた。

 「食べよ」
 差し出された左手。口に入れると、嚙むたびに肉の繊維が弾力を返してくる。強めの塩気。素材の旨みがまっすぐに舌に届く。

 「……うまっ」
 翔は、少しだけ顔を上げた。
 青いコートの中では、すでに数人の生徒がラケットを握っていた。
 パァン、パァン。 笑いながら。ぶつかりながら。それでも楽しそうに。
 ボールが壁に当たり、跳ね返る。 また誰かが打ち返す。その繰り返し。

 (……なんなんだよ、このスポーツ)
 理解できないはずなのに。目が、離せなかった。
 
 「私も、プレーしてみようかな」
 マイが青いコートを眺めてポツリと言った。

 「バモス!」
 陽気な声。気づけばリクが二人の間に割り込み、マイの腕を軽く引いていた。翔もまた、その流れに呑まれるようにコートの中へ引きずり込まれた。

♢♢♢

 四方を強化ガラスに囲まれた空間。
 足を踏み入れた瞬間、外の声がふっと遠のいた。自分の靴が青い人工芝を踏む音だけが、やけにはっきり聞こえる。

 (……なんだ、ここ)
 リクが二本のラケットを放り投げてきた。
 受け取ると、想像より遥かに軽い。ガットのない、カーボン製の穴だらけの板。

 「まずは返してみるだけでいい。……いくよ」
 リクが、下からふわりとボールをマイに放った。 山なりの、ゆっくりした軌道。

 「え、えっと……!」
 マイが慌ててラケットを構える。でも力まなかった。ダンスのステップを踏むように、すっと体ごと前へ出る。

――ポーン。
 小気味よい音。ボールは素直な弧を描き、リクの元へ吸い込まれた。

 「うそ、なにこれ! 楽しい!」
 マイの瞳が、パッと春の陽射しのように輝く。
 「全然力いらないじゃん。勝手に飛んでく!」

 「そうだよ。力いれなくても返る」
 リクの視線が、翔を射抜いた。
 「……次は、お前の番だ」

 「っ……!」
 翔は奥歯を噛み締めた。 見様見真似でテニスのように大きくテイクバックを取り、目の前に来た瞬間、思い切り振り抜く。

――バンッ!!
 乾いた、重厚な打球音。ラケットの芯を捉えた感触が腕を突き抜ける。
 (……っ、なんだこれ!)
 本能的な、気持ちよさ。
 ボールは勢いよく前へ飛び、 リクの左隣の地面へと突き刺さるようにバウンドした。

 「よし!」
 抜けた。そう確信した、その瞬間。 リクが、動いた。
 一瞬、驚いた顔をしたまま、体を半分ひねる。 そのまま、一歩、いや、半歩だけ前に移動した。
 (……え?ボールから離れた?)

――バギィンッ!!
 翔の豪速球が背後のガラスに激突し、弾性を借りたボールが牙を剥いて跳ね返る。ふわりと宙に舞い、弧を描いてリクの元へ。

 リクは迷いなく踏み込んだ。跳ね返るボールの軌道に、ラケットを「重ねる」ように。
――シュッ!!
 「力」ではなく、しなやかなで優雅なスイング。

 ボールは翔とマイの間を、影のように突き抜けた。
 翔は僅かに反応してボールに向けて走り出す。 床でバウンドして奥の壁へ。だがボールは予想外の方向へ低く、低く跳ね返り、もう一度バウンドした。

 翔は、ただ立ち尽くす。
 (……今の……なんだよ。)

 壁に当たって、戻ってきて。 そこから、もう一度打てる。
 胸の奥で、何かがざわつく。 理解できない。

 「面白いだろ? これがパデルだ」
 リクの声が、コートに静かに落ちた。

♢♢♢

 それからも、コートの中に軽い打球音が響き続ける。
 ポン、ポン。

 リクが放つ柔らかなロブは、翔とマイが最も打ちやすい場所へ、吸い込まれるように落ちてくる。スピードは遅い。激しさもない。呼吸を合わせるようなラリー。

 いつの間にか、翔の口元が緩んでいた。追いかけ、面を合わせ、押し出す。ただそれだけのことが、錆びついた肺の奥に新鮮な空気を送り込んでいく。
 
 「ほら、いい感じ!」
 隣でマイが、弾むようなステップでボールを捉える。 軽くひねった腰が描く曲線。彼女の全身から「楽しい」という感情が溢れていた。

 だが、翔の頭に、さっきの一球がよぎる。
 (……違う)

 低かった。速かった。壁に当たったあと、さらに暴れた。
 ボールを返しながら考える。
 スピードか? 違う。
 力か? それも違う。
 着地の瞬間、一瞬だけボールが浮いていなかったか。

 視線が、コートに落ちる。バウンド、そして壁。
 (壁……あ!)

 回路が、繋がった。
 「違うのは……壁だ」
 独り言のように、乾いた声が出た。

 「え?」とマイが振り向く。
 翔はラケットを握り直し、ボールを返しながら言葉を絞り出した。
 「さっきのやつ……壁に当たったあと、低くバウンドしてた」

 記憶の残像が、スローモーションで再生される。
 低すぎる軌道。地面を“削る”ような動き。

 「……まるで、モグラみたいに」
 そのまま、高くロブを返す。
 「なあ、もう一回打ってくれないか。モグラみたいに、地面を這うやつ」
 自分でも驚くほど、声が熱を帯びていた。

 リクが動きを止めた。翔を見つめる瞳に、鋭い光が一瞬だけ宿る。
 「……モグラ?」
 ふっと、短く笑った。
 「違うぜ。……これはな」
 ゆっくりとラケットを担ぎ上げる。視線は、翔の眉間へ。ボールが目線の高さまで落ちてくる、その刹那。
 「地面を這うように暴れるから――」
 リクの腕が、空気を引き裂いた。
――シュッ!!
 「『ビボラ』(Víbora)。……毒蛇だよ」
 ボールは地面を舐めるような超低空でバウンドし、ガラスの最下部に激突した。翔は反射的に振り向き、右腕を限界まで伸ばす。

――ッバギィン!!
 「……っ!?」
 跳ね返りの予測が、無残に外れた。横のガラスを蹴ったボールは、手元に戻るどころか、さらに鋭角に奥の壁へと逃げていく。まるで蛇が獲物に巻き付くように。

 ラケットは、虚空を切った。ボールは足元を冷たく通り抜けて、転がっていた。

 (毒蛇……!?)
 取れなかった。悔しい。

 なのに翔は、もう一度ボールを探していた。
 「……もう一本」
 気づいたら、自分から言っていた。
 リクが笑う。ガラスの中で、またボールを掴んだ。

第2話「初めての壁」

 翔がラケットを握り直した、その時だった。

 「はーい、体育館集合~!」
 種木の間延びした声が、コートに響き渡る。肉を頬張っていた生徒たちが、一斉に顔を上げた。

 「えー、今いいところだったのに!」
 「最高にうまかったな!」

 文句を言いながらも、みんな素直に体育館へ向かっていく。胃袋を掴まれたせいか、謎の新競技への警戒感は、焼肉の煙と一緒にきれいに消えていた。

 「……とりあえず行こうぜ」
 リクがラケットを肩に担ぎ、歩き出す。
 翔は、青いコートを振り返った。 ガラスに映る、自分の顔。 壁にぶつかって戻ってきた、あの這いずるようなボール。

――ビボラ。
 右手の平に、ビリビリとした感触が張り付いて離れない。
 「……チッ」
 取りたかった。 そんな感情が自然と口から漏れた自分に、翔は少しだけ驚いていた。

♢♢♢

 壇上に立った種木が、パンッと指を鳴らす。背後のスクリーンが発光した。

【パデル校内トーナメント概要】

 「はいはい、静かにねー」
 マイクを片手に、種木がへらへら笑う。

 「男女別!」
 「経験者・未経験者問わず参加OK!」
 「ペアは同学年限定!」
 「1セットのみ、先に6ゲーム取ったら勝ち!」
 「負けたら終わりのトーナメント方式!」

 生徒たちが顔を見合わせる。
 「マジで大会やるの?」
 「いや、ルール知らねぇし」

 その時。種木が、ニヤッと笑った。

 「そして優勝ペアには――」
 種木がわざと間を空ける。
 「豪華・中東旅行プレゼント!!」

 一瞬の静寂。次の瞬間。
 「うおおおおおお!!」

 体育館が熱狂の渦に巻き込まれた。
 「マジかよ!?」
 「ネタじゃなくて、本当に!?」
 「金持ちすぎんだろ!この学校!!」

 さっきまでバカにしていた連中まで前のめりになり、スマホで「中東 高級ホテル」を検索し始めるやつまでいた。

 翔だけが、その熱狂から半歩外れた場所に立っていた。
 昨日まで、名前すら知らないスポーツだった。なのに。壁に当たって戻るボール。ガラスの軋む音。リクのあのショット。頭の中で、何度も再生される。

 説明会が終わると、体育館はさらに騒がしくなった。あちこちで欲望むき出しのペア探しが始まる。翔は人混みを避けるように、壁際へ下がった。

 背中に触れるコンクリートの冷たさだけが、今の翔を落ち着かせていた。
 その時。人混みを割って、一人の影が近づいてくる。
 (……リク)

 迷いのない歩き方。
 来る。絶対、自分の前で止まる。そう思った。

 だが、リクは翔の横を、風のように通り過ぎた。
 「……え?」
 胸の奥が、妙にザラつく。

 リクが止まったのは翔の後ろ。そこにいたのは、マイだった。
 「トーナメント、出てよ」
 声に一切の迷いがない。
 「え、私?」
 マイが目を丸くする。

 「うん。素質ある」
 即答だった。さっき僅かなラリーでマイが無意識に踏んでいた、ダンスのステップ。 力まずにボールを押し返す、あの柔らかなインパクト。 壁への恐怖心のなさ。 リクは、全部見ていたのだ。

 「ペアは、こっちで用意する」
 マイの喉が、小さく鳴る。少しだけ頬が赤い。
 期待されることに、慣れていない顔だった。やがて、小さく頷く。

 「……うん。やってみる」

 その瞬間。 翔の胃袋に、氷の塊が落ちたように重くなった。
 面白くない。
 理由は分からない。けれど、たまらなく胸の奥がモヤつく。
 リクは満足そうに頷くと、くるりと振り返り、今度こそ翔を真っ直ぐに見た。

 絶対に逃がさない、捕食者の目だった。

 「翔」
 短い呼び捨て。それだけで、周囲の空気がピンと張り詰める。
 マイも、不安そうに翔を見る。
 「……翔は、出ないの?」
 マイの上目遣い。その視線が、妙に苦しい。翔は思わず床へ目を逸らした。

 「俺と出るよな?」
 確認じゃない。決定事項だった。
 翔は眉をひそめる。
 「……無理だよ」
 「何が?」
 「いや……中東とか」
 翔はガシガシと頭を掻いた。
 「俺……英語とか、無理だし」

 数秒。 空気が止まった。
 マイがぱちぱちと瞬きをする。
 「――ッ、ハハハハハハハ!!」
 リクが腹を抱えて笑い出した。 体育館の天井を震わせるほどの大爆笑。
 「そこ!? 理由、そこかよ!」

 「うるせぇ!」
 翔の顔が一気に熱くなる。
 「ヨシ、決まりだ!」
 「はぁ!?」

 次の瞬間、リクの太い腕が、翔の首にガシッと回された。
 ヘッドロック。重い。熱い。逃げられない。
 汗と、炭火と、太陽。リクの体からは、外で暴れ回ってきたばかりの野犬のような熱い匂いがした。

 「細けぇことは勝ってから考えろ!」
 「いや、だから――」
 「英語なんか、南米育ちの俺も分かんねぇよ!」

 「威張るな!!」
 ガシガシと、乱暴に髪を掻き回される。

 「……勝手すぎんだろ、お前」
 翔は呆れながら、小さく息を吐いた。
 なのに。不思議と、嫌じゃなかった。

 「ふふっ……決まっちゃったね、翔」
 マイの屈託のない笑顔。その瞬間。翔の中で、強固だった何かが音を立てて崩れた。

 (……出るのか、俺)
 掌の中で、まだビボラの感触が脈打っていた。

♢♢♢

 朝日を浴びた青いコートは、すでに欲望のスクランブル交差点と化していた。
 「ハイ、次! 二年生、入ってー!」
 「モタモタしていると中東旅行なくなるよー!」

 種木の声がメガホン越しに響く。学校に設置されたコートはわずか二面。
 そこに集まったのは、旅行と焼肉に釣られた生徒たちだ。
 テニス部、サッカー部、バスケ部、帰宅部。順番待ちの列が、フェンス沿いに伸びていた。

 「一年の練習、残り10分!」
 「マジかよ!」
 「まだ二球しか打ってねぇ!」

 (……少なっ)
 翔は思わず顔をしかめる。
 ようやく回ってきたコートで、リクが無造作にボールをバウンドさせた。

 「サーブはワンバウンドさせてから腰よりアンダーで打つ。カウントはテニスと同じ。ツーバウンドするまでに返せ。いいな?」

 説明が短い。というか雑だ。

 「あと、壁は……」
 リクは途中で言葉を切る。
 「……まあ、打たれりゃ分かる」

 「おい、雑すぎだろ!」
 翔は噛み付くが、無情にもボールは飛んでくる。
 まともに打ち合えたのは、ほんの数回。
 壁との距離感も、カーボンの板がボールを弾く重さも、筋肉に馴染む前に無情な笛が鳴った。

 「ハイ交代! 一年男子、出て!」
 コートの外へ吐き出され、肩で息をする。

 次に入ったマイがラケットを振っていた。
 ペアはソフトボール部のカナ。
 「ナイス!」
 「ごめん、もう一回!」

 マイの柔らかなステップとスイング、カナは低く身構えボールを返していた。正反対の二人のリズムが、すでに一つの歯車として噛み合い始めている。
 (……あっちは、ちゃんと『ペア』になっているな)
 翔は、無意識に自分の右手を握り込んだ。

 「気にすんな」
 不意に、隣からリクの低い声が落ちる。
 「どうせ全員、壁の怖さを知らないド素人だ。条件は同じだ」
 翔は肺の底に溜まった熱い息を、深く吐き出した。

♢♢♢

 翌日。トーナメント初日。

 グラウンドは文化祭以上の熱気で震えていた。巨大な掲示板に張り出されたトーナメント表。翔は、自分の名前をじっと見つめる。

【男子トーナメント第1回戦】
対戦:二年バスケットボール部 横山・縦木ペア
ファースト・サーブ:リク

 リクの拳が、翔の肩を軽く叩く。
 「いよいよだな」
 「……ああ」

 強がってみせたが、肋骨の内側で心臓が警鐘を鳴らしている。
 準備は足りていない。それでも、足は震えなかった。

 コートに踏み込む。青い人工芝。透明なガラスの壁。観客のざわめきが、ガラスに遮られて少し遠くなる。

 ネットの向こう。
 「……でか」
 思わず声が漏れた。身長190センチ近い二人。Tシャツの袖から剥き出しになった、丸太のような腕。バッシュが人工芝を擦る、焦げたゴムの匂い。二人がネット際に立つだけで、視界の半分が塞がれた。

 「よろしくな、一年」
 横山が笑う。白い歯。だが目は笑っていない。
 “潰せる”と思っている顔だった。

 翔の背中に汗が流れる。
 「翔」
 リクの声。一瞬で頭が冷える。
 「お前は左、俺は右」
 短い確認。それだけで、パニック寸前の脳が落ち着きを取り戻した。

 ポジションにつく。横山がリクの正面に、縦木が翔の正面に構える。二人がネットを塞ぐように横並びになると、狭いコートが完全に「肉の壁」で封鎖されたように見えた。
 
 「プレイ!」
 審判の笛。甲高い音が、ガラスに反射してコート中に響いた。
 リクが、静かにサーブを放つ。 ワンバウンド。腰より低い位置から、ラケットを押し出す。

――パン。
 遅い。だが、不気味な回転がかかったボールは、嫌なコースへ滑り込むように伸びる。 ネットの向こう。縦木が動いた。 巨体なのに速い。床をえぐるような一歩。

 「ッ!」
 振り抜かれた力任せのスイング。黄色い弾丸が、一直線に翔の顔面を狙う。
 (速い……!)
 テイクバックの暇はない。翔は反射で、ラケットの面を盾のように突き出した。

――バコッ。
 反発したボールが、ふわりと高く浮く。力のない、絶好のロブ。

 「もらったァ!!」
 横山が吠え、巨体が宙を舞う。
 190センチの影が、翔の視界を真っ暗に塗り潰した。

 (スマッシュ――!)
 翔は奥歯を噛み締め、目を細める。 丸太のような腕が、全力で振り下ろされた。

――ブォン!!
 暴風のようなスイング音。 だが、その直後。
……ポトッ。
 横山の隣で、力のないボールが床に落ちた。
 「……え?」
 ラケットは、完全に空を切っていた。 静まり返るコート。

 「……今の、空振り?」
 観客席から失笑が漏れる。横山の顔が真っ赤になる。
 翔は、まだ理解できなかった。
 (……なんでミスした?)

 「バスケとかバレーのやつは、最初ズレる」
 リクが構えを解かず、視線は横山を射抜いたまま言い放った。
 「自分の『手』の感覚と、ラケットの『先端』の距離が合ってないんだ。……今のうちに押すぞ」
 その一言で、翔の硬直していた呼吸が、すっと静まった。

 次のラリー。また翔のボールが浮く。
 今度は横山が、慎重に距離を測り、完璧にタイミングを合わせた。

――ドン!!
 大砲のような打球音。
 (やばっ!)
 翔が反射で身構える。だがボールはそのまま後ろへ飛び、強化ガラスにノーバウンドで激突した。

「アウト!!」
「うわぁっ!?」観客席がどっと沸いた。
 ノーバウンドで壁か金網に当てると「アウト」になる。力みすぎたスイングが、コートの狭さという罠に自ら突っ込んだ。

「クソッ!!」
 横山が頭を抱える。空振り、アウト、ネット。巨漢ペアの呼吸が荒くなり、焦りが顔に張り付いていく。

 「初心者の試合は、七回続かない」
 次のポイントへ向かうすれ違いざま、リクが翔の耳元で低く囁いた。
 「壁があるからな。攻めなくていい。ただ『七回返す』ことだけ考えろ。それだけで、相手は勝手に自滅する」

 (……七回)
 翔は深く息を吐き、肩の力を抜いた。

 ラケットを強く握りすぎない。
 ボールの軌道を見る。
 派手なショットはいらない。
 ただ、返すだけ。それだけ。

 サーブ。リターン。

――ポン。一回。翔が面を合わせる。
――ポン。二回。リクが壁際から拾う。
――ポン。三回。横山のスイングが苛立ちから大振りになり、ボールがリクの足元へ深く突き刺さる。
 (速い――間に合わない!)
 「大丈夫だ! 壁を使う!」
 リクは反射的に身体を開き、ボールを自分の背後へ通過させた。 強化ガラスに当たったボールが、勢いを殺してふわりと目の前へ戻ってくる。
 リクはそれを、丁寧に相手コートへ押し出した。
――四回。決まったはずの球を「壁」で無効化され、縦木が焦って前に詰める。
――五回。「うおおおッ!!」
 横山が力任せに叩いた。だが。
――ガッ!!
 ネット。ボールが白帯に引っかかる。

 「っしゃ!」
 翔の喉から声が漏れた。気づけば、自分もネット際まで前に出ている。
 隣でリクがニヤッと笑った。

 呼吸が熱い。胸が熱い。
 でも頭は、不思議なくらい冷えていた。それからも同じだった。

 相手の強打。壁で跳ね返ったボール【レボテ】を待ってからのリターン
 相手のミス、焦り、ネットかアウト。

 翔とリクは、ただ冷静に壁の檻の中でボールを返し続けた。
 そして――
 「ゲームセット! 勝者、翔・リクペア!」
 審判の声が響く。

 一瞬。翔は動けなかった。ラケットを握る右手が、じわじわ熱い。
 ネットの向こう。巨漢二人が、肩を落としていた。

 翔はゆっくり息を吐く。
 (……勝った、俺たちが)
 実感が、遅れて全身の血を駆け巡る。

 ゴン。 リクの拳が、翔の胸を軽く叩いた。
 「だから言ったろ。返せば勝てる」
 汗だらけの顔で笑う。翔は、ぎこちなく笑い返した。
 ただボールを繋ぐ。それだけのことが、これほどまでに血を沸騰させるなんて知らなかった。

第3話「恨みの試合」


 「廃部の恨み……ッ!! 絶対に、絶対に勝ぁぁぁつ!!」

 屋外コートに、悲鳴に近い咆哮が突き刺さった。
 ネットを挟んだ対面。三年生、元バドミントン部ペア――岡崎と山崎。
 血走った目。白く鬱血するほど強く握り締められたグリップ。

 (……そりゃ、そうだよな)
 三年間積み上げてきたものを、突然現れた青いコートに奪われた。怒りを燃料に変えて、ここへ来ている。

 「……行くぞ」
 リクの低い声が、翔の感傷を断ち切った。
 「ああ」

♢♢♢

【男子トーナメント第2回戦】
対戦:三年バトミントン部 岡崎・山崎ペア
ファースト・サーブ:リク

 リクが静かにボールをバウンドさせる。
 腰より低い打点から押し出されたサーブが、鋭く滑る。対角線上で岡崎が踏み込んだ。

――コツ。
 あまりにも軽い、乾いた音。
 ボールはシャトルのように空気を漂い、ネットを越えた直後にピタリと勢いを失って沈んだ。

 「翔! 前だ!」
 リクの叫び。だが翔の足は一歩も動かない。
 ボールは目の前で跳ね、そのままツーバウンドした。

 「バド経験者は、手首の使い方が異常に柔らかい」
 構えを解かず、リクが冷静に告げる。
 「勢いを“殺す”感覚が、他の競技と段違いなんだ」

 岡崎がニヤリと笑った。
 「どうした一年。取れねぇのか?」
 ネット越しの目は、本気だった。怒りも、悔しさも、すべてをこのボールに叩きつけてきている。

 「サーブラインに張り付いていたら間に合わない。最初から立ち位置を前にしろ」
 「……了解」

 次のポイント。
 リクのサーブ。山崎がまた、手首の返しだけでボールの芯を殺す。
――ポトッ。
 狙い澄ましたドロップショット。

 だが今度は、翔がすでに前へ踏み込んでいた。
 床スレスレ。ラケットの面を滑り込ませ、強引に拾い上げる。

――コツン。
 辛うじて返したが、体勢を崩したボールは、力なく高く浮いた。

 「もらったァ!!」
 岡崎が獣のように踏み込む。 放たれたのは逆。
 翔が空けた後方スペースへ突き刺さる、弾丸のようなフォア。
 (やばい、後ろ――ッ!)

 黄色い残像が翔の横をすり抜け、床を叩く。 そのまま背後のガラスへ向かって一直線。翔は反射的に振り返り、全力で走り出した。
 (追いつけない――)
 そう確信した瞬間、視界の端で、透明な壁が陽光を反射した。
 脳裏に、練習でリクが見せた一撃が蘇る。 壁に当て、もう一度息を吹き返したボール。

――バギィンッ!!
 背後のガラスがしなり、ボールが死なずに跳ね返る。
 観客席が騒然となる。

 「お、おい……!」
 「あいつ、どこ打つ気だ!?」
 「相手コートと逆だぞ!!」

 翔の視線は、もうネットを見ていなかった。
 跳ね返るボールの下を抉るように、ラケットを振り抜いた。
狙いは――『自陣のガラス壁』。

――ドン!!
 芯を食った重い衝撃。
 ボールが目前のガラスに激突し、爆発的な反発力を得て、垂直に近い角度で打ち上げられる。

――静寂。
 誰もが、ボールを見失った。
 次の瞬間。高く。高く。黄色い軌跡が青空を突き抜け、岡崎たちの頭上を越えていく。

 「……なっ!?」
 前衛に詰めていた岡崎と山崎が、呆然と首を巡らせる。ボールは、壁の反発を得て大きな弧を描き、相手コート最深部、サーブライン際へ静かに落下した。

――ポン。
――ポン。
 ツーバウンド。
 ポイント、翔・リク。

 一瞬、コートの時間が止まった。
 直後――。

 「うおおおおおおおおッ!!」
 観客席が爆発した。

 「なんだ、今の!?」
 「自分の壁を使ったぞ!」

 翔は荒い息を吐きながら、自分のラケットを見つめた。
 「……よしッ!!」
 掌に、炭火が爆ぜるような熱が広がる。思わず、拳を強く握り締めた。

 「ナイス、コントラ・パレッド【壁打ち返し】」
 リクが右手を差し出していた。 その瞳に、初めて見るはっきりとした賞賛が宿っている。翔は弾かれるように手を伸ばし、その掌を強く叩き返した。

――パァン!!
 痺れるような衝撃。 熱。鼓動。

 (壁は、怖いだけじゃない)
 理解できなかったガラスの檻の世界。
 翔は確かに、その“壁の中”へ足を踏み入れていた。

♢♢♢

 「フィフティーン・オール(15-15)!」
 審判の声が響く。ラリーが再開した。
 翔のボールがわずかに浮く。その瞬間、山崎が動いた。

 落下点までは、まだ数歩の距離がある。なのに、すでにラケットを振りかぶっていた。
 (あの距離じゃ――届かないだろ)
 そう思った直後。

――キュッ!!

 シューズのゴムが人工芝を削り取る鋭い音。
 山崎の右脚が、股関節が外れたかのように異様な距離を伸びた。床スレスレまで腰を沈めた、極端に低い姿勢。
 「なっ――!」
 本来なら力など入らないはずの体勢から。

――ドゥンッ!!
 空気を叩き潰すようなスマッシュ。
 黄色い閃光が、翔の顔の横を音速で突き抜けた。反応すらできない。
 ボールはそのままツーバウンドし、相手のポイントとなった。

 「今の踏み込み、見たか?」
 リクが視線を外さないまま低く言う。
 「バドミントン特有の“ランジ”だ」

 山崎がネット際で静かに構え直す。
 「コートの端から端まで、あの大股一歩で間合いを潰してくる。しかも、あの沈んだ姿勢から強打を撃つための体幹まで完成している」

 翔は小さく息を飲んだ。
 (……だから、あの距離でも届いたのか)

 「普通の距離感で考えるな。パデルに安全圏なんてない」

 翔は汗ばんだ掌でグリップを握り直した。
 「……分かった」

 そこからは、息の詰まるような攻防だった。
 ネット際へのドロップ。そして後方へのロブ。
 バドミントン仕込みの暴力的な前後の揺さぶりに、翔の体力がゴリゴリと削られていく。

 「っ、くそ……!」
 肺が焼ける。足が鉛のように重い。
 視界が揺れ、焦りがスイングを鈍らせていく。

 ゲームカウントは1対3。
 岡崎・山崎ペアのリード。

 (やばい……押し切られる……!)
 崩れかけた脳裏に、あの言葉が蘇る。
 『とにかく、七回返せ』

 翔は荒れた呼吸を、無理やり腹の底へ押し込んだ。
 (打ち合わなくていい。返すだけでいい)
 重心を落とす。相手の強打に、ただラケットの面を合わせる。

――ポン。一回。
 深く追い込まれても、無理に打ち返さない。
 壁の跳ね返りを待つ。
――ポーン。二回。三回。四回。
 しぶとく。泥臭く。ただ、生き残る。
 「チッ……!」
 ネット越し、山崎の舌打ちが聞こえた。
 五回。六回。
 決まったはずのボールが何度も返ってくることで、岡崎の呼吸も目に見えて荒くなっていく。

 「なんで返ってくんだよッ!」
 そして、七回目。焦った岡崎のボレーが浮いた。
――ガンッ!!
 奥のガラスへノーバウンドで直撃。アウト。

 「……よし」
 翔の口から、確かな実感が漏れる。流れが、静かに変わり始めていた。

♢♢♢

 次のラリー。
 再び後方へ深く振られる。だが、もう翔にパニックはない。
 (来る――!)
 ボールが背後のガラスへ激突する。
 バンッ!! 跳ね返る軌道。

 翔は、自分から壁を使いに行った。
 落下点へ潜り込む。タイミングを合わせる。そして、下から振り抜く。

――ドンッ!!
 二度目のコントラ・パレッド。
 高く舞い上がったボールが、完全にリズムを崩された相手を翻弄する。

 「ナイス、翔!」
 リクの声が弾む。

 守る。壁を使う。七回返す。崩れたのは、相手の方だった。

 「ゲームセット!! 勝者、翔・リクペア!」
 審判の笛が、試合終了を告げた。

 「っぁあ……疲れた……」
 全身が鉛みたいに重い。肺が焼けるように熱い。それでも翔は、もう壁のあるコートを怖いとは思っていなかった。

 「レボテにも慣れてきたな」
 リクは軽く笑う。
 「よし」
 勝利の余韻に浸る間もなく、リクは踵を返した。

 「次の試合前に、マイたちのコートを見に行くぞ」
 「えっ……休ませてくれよ」

 膝に手をついていた翔が顔を上げるが、リクの背中はすでに歩き出していた。 慌てて後を追う。

♢♢♢

 体育館内のコート。
 ドアを開けた瞬間、外のコートとは全く違う『乾いた破裂音』が耳に突き刺さった。透明なガラスの向こう側では、女子の試合がすでに中盤へ差し掛かっていた。

 対戦相手は、二年生の卓球部ペア。
――パァンッ! パンッ!!
 ボールが低い。速い。そして何より、テンポが異常だ。さっきまでの自分たちの試合が泥臭い耐久戦だとしたら、こちらは反射と反射の斬り合いだった。ネットすれすれを這う黄色い軌道が、瞬きする間にコートを往復していく。

 「……はえぇな」
 翔の口から、無意識に感嘆が漏れた。

 隣で腕を組んだリクが、薄いガラス越しに目を細める。
 「あの『卓球』が、実はパデルの最終形態の一つだ。レベルが上がるほど、準備する時間が消える」
 リクは視線を外さないまま続けた。
 「加速したボールが、至近距離で返ってくる。」

 (……あ)
 翔はそこで初めて気づいた。
 卓球部の二人は、ほとんどラケットを振っていない。前傾姿勢のまま飛んできた球の威力を利用して弾き返している。
 
 リクの声が、一段低くなる。
 「よく目に焼き付けておけ。それと……カナの動きだ」

 「……カナ?」
 翔は再びコートを凝視した。
 後方に陣取るソフトボール部のカナが、床を舐めるような極端に低い姿勢のまま、淡々とボールを待っているのだ。
 (……なんだ、あの低さ)

 卓球部ペアが放つ鋭いドライブ。
 普通なら慌てて触りにいくような低い球を、カナは無理に追わず、自分の横を通過させた。
 ボールが背後のガラスにぶつかる。跳ね返るレボテ。 カナはさらに腰を落とし、まるで内野ゴロを捌くように地面スレスレでボールをすくい上げた。

 翔の脳裏に、グラウンドの土煙がよぎる。
 ショート、三遊間。イレギュラーする強烈なゴロ。身体の横を抜ければ終わる、あのギリギリの攻防。
 (……ゴロの処理と同じだ)

――コツン。
 派手さはない。無理に決めない。壁から跳ね返る予測不能なボールに対し、一切の恐怖を見せずに返し続ける。
 「……すげぇ」

 「カナを選んだ理由、分かるか?」
  リクが静かに口を開いた。
 「野球やソフト経験者はな、低いボールへの恐怖が薄い。しかも、イレギュラーへの反応が染み付いている」
 「……壁に当たって変化するボールにも、反応できるってことか」
 「そういうことだ。だから、後ろを任せられる」

 前衛では、マイが軽やかなステップで相手を揺さぶっていた。
 「攻撃、全部マイか……」

 翔の呟きに、リクがわずかに口角を吊り上げた。
 「マイの最大の武器は、“知らない”ことだ」
 「知らない?」
 「ラケット競技の経験者は、どうしても『強く握って』打つ癖が染み付いている。」
 「でも、パデルは違う。腰、脚、体重移動。全身で打つ」

 翔は、背筋が冷える感覚を覚えた。
 リクは最初から見抜いていたのだ。マイの中に眠る“武器”を。

 その時。鉄壁のカナの守備に業を煮やした卓球部ペアが、焦ってふわりと甘いロブを上げた。
 空気が変わった。
 (……来る!)

 前衛にいたマイの身体が、羽のように浮いた。
 一歩。二歩。滑るようなステップ。それは完全に、踊りだった。

 少しだけ身体を捻り、足から腕まで一本の軸を通す。力みは一切ない。
ボールが、振り上げた左手より少し高い位置まで落ちてきた、その瞬間。 右腕が、流れるようなダンスのフィニッシュとして振り下ろされる。

――バーァァンッ!!
 炸裂音。
 高い打点から全身の体重を乗せたスマッシュが、相手コートへ突き刺さり、さらに壁へ弾けて鋭く跳ね返った。

 「……ッ!」
 翔は言葉を失った。強烈な一撃。なのに、マイは少しも力んでいない。

 「ゲームセット! 勝者、マイ・カナペア!」

 歓声が爆発する。
 「やったぁッ!」
 マイが跳び跳ね、カナとハイタッチを交わした。
 女子トーナメント、決勝進出。

 ガラス越しの勝利を見つめながら、翔は胸の奥を強く締め付けられる感覚を覚えていた。
 (……すげぇな、マイ)

 素直な賞賛。 だが、それ以上に重くのしかかってくるものがあった。
 守備の要として機能するカナ。
 攻撃の矛として輝くマイ。
 二人はもう、自分たちの武器を見つけている。

 (でも……俺は?)
 ただ返しただけ。リクに言われた通りに動いただけ。
 汗ばんだ右手を見下ろす。
 自分だけが、まだ何者でもない。その事実が、急に恐ろしくなった。

♢♢♢

【男子トーナメント準決勝】
対戦:二年野球部 鈴木・田中ペア
ファースト・サーブ:田中

 ネットの向こうに立つのは、二年生の野球部ペア。
 鈴木と田中。

 二人とも、異常なほど重心が低い。
 膝を深く折り曲げ、いつでも左右へ飛び出せる構え。それはグラブを構え、強烈な打球を待つ内野手そのものだった。

 隣から、リクの低い声が落ちた。
 「今日の相手、どっちもゴリゴリの内野手だ」

 翔は視線を外さないまま答える。
 「……昨日のカナみたいに、低いボールの処理が上手いってことか?」

 「それもある」
 リクは小さく頷く。
 「でも、本当に厄介なのは――」
 
 「プレイ!」
 審判の鋭い笛が、言葉を断ち切った。

 田中のサーブ。
 人工芝の毛足を舐めるような、異様に低い弾道。
 リクが一歩前へ入り、コンパクトにリターンを沈める。

 狙いは鈴木のバック側。
 右利きなら窮屈になり、ボールが甘く浮き上がるはずのコースだ。
――そのはずだった。
――ドグゥンッ!!
 空気を真正面から撃ち抜くような、異質な重低音。

 「っ!?」
 翔の視界の中心を、黄色いレーザーが貫いた。
 反応できない。いや、見えなかった。

 直後。 バァン!!
 背後の強化ガラスが、悲鳴のような破裂音を立てる。
 翔は数秒遅れて、自分の両足の間をボールが通り抜けたことを理解した。

 (……今の、何だ?)
 恐る恐る顔を上げる。 鈴木が、極端に低い姿勢のまま止まっていた。
 短いラケットを両手で握り込み、腰を沈めて振り抜いた姿勢。 まるで、バットのフルスイングだ。

 「……バックハンド?」
 「野球経験者は、両手で振ることに身体が最適化されている」
 リクの声は、妙に冷静だった。
 「しかも内野手は、低いライナーを打ち返す練習を何千回もやっている」
 「だから、ネットの白帯スレスレを抉るような“低空のレーザー”が打てる」

 翔の背筋を、冷たいものが走る。
 頭の中で、嫌な方程式が組み上がっていく。
 (昨日のカナみたいな守備力が二人)
 (しかも……、あのレーザーみたいな両手打ちまである)

 相手の姿勢が低すぎるせいで、視線が強制的に下へ向けられる。
 コートという空間そのものが上から押し潰されていくような、逃げ場のない圧迫感。
 「……これ、かなりキツいぞ」

 だが、隣のリクはむしろ楽しそうに、喉の奥で獰猛に笑っていた。
 「ハッ……だから面白ぇんだろ」
 その目は、すでに次の展開を読んでいる。
 ネットの向こう。野球部ペアが、再び深く沈み込む。

 翔は奥歯を噛み締め、ラケットを前に突き出した。
 (……来い!)

第4話「低空の牙」


 次のラリー。
 どれだけ左右へ振っても、野球部ペアの低い重心が崩れない。沈んだまま。滑るように。地面を這う獣みたいに。
 (……またかよ)
 翔は汗ばんだ奥歯をギリリと噛み締めた。

――ポン。
――パァン。
 激しく打ち合っているわけじゃない。
 ただ、返しているだけ。なのに、終わらない。

 翔の胸に、嫌な既視感が広がる。
 (これ……俺達が、バドミントン部にやったことだ)

 七回返す。ミスを待つ。
 粘って、削って、自滅させる。

 自分たちが武器にしてきた“泥臭い盾”を、相手はもっと分厚い装甲にして押し返してきている。精神が、やすりで削られるみたいに摩耗していく。
返しても、返しても、崩れない。焦りが生まれる。

 その焦りが、スイングをミリ単位で狂わせる。
 そして、ほんの僅かな綻びを。野球部ペアは見逃さなかった。

――ドグゥンッ!!
 空気を撃ち抜く低音。

 「っ……!」
 今度は両手フォアハンド。ネットの白帯を舐めるような低空弾道。黄色い閃光が、翔の脇腹をすり抜けた。一歩も、動けない。

 背後でガラスが震える。相手のポイント。
 (……攻めても防がれる)
 (守れば、撃ち抜かれる)

 次のラリー。
 今度は相手の返球が、珍しくふわりと浮いた。
 (チャンス……!)

 翔が前へ出ようとした、その瞬間。
 後方のリクが、地面を爆発させるように踏み込んだ。

 低く沈み込む独特の構え。肩の力が抜けている。しなる腕。
 (……ビボラ!)

――シュッ!!
 空気を裂く鋭い音。あの“毒蛇”。
 回転を孕んだボールが、嫌らしく相手コートへ沈む。
 決まった。翔は確信した。

 だが。
 「なっ……!?」

 野球部の田中が、信じられないほど深く腰を落としていた。股関節を裂くように開き、顔が床スレスレまで沈んでいる。

 まるで、ショートが難しいゴロに飛び込む瞬間。
 ラケットが、地面を舐める。

――コツン。
 死んだはずのボールが、ふわりと浮き上がった。
 ロブが高く、静かに。こちらのコートへ返ってくる。

 (あれを……返すのかよ)
 翔の胸から、熱が引いていく。冷たい手で心臓を掴まれたような悪寒。

 マイには牙があった。
 カナには壁があった。
 リクには、暴力みたいな武器がある。

 (……俺は? 何を打てばいい。どうすれば、この怪物たちを崩せる)
 思考が凍りかけた、その時。

 「翔!!」
 リクの声が、脳天を叩き割った。
 「そのロブ、ドロップで落とせ!」

 「ドロップ……!?」
 翔は反射的にラケットを構える。
 脳裏をよぎる。バドミントン部の、音もなく沈むドロップショット。
 (強く打たない、触るだけだ)

 翔はグリップの力を抜いた。
 落ちてきたボールの勢いを殺すように。そっと面を添える。

――ポトッ。
 ボールがネットを越えた瞬間、重力を思い出したみたいに沈んだ。
 完璧。距離は十分。相手は二人ともサーブライン付近。
 (決まった……!)

――キュルルルルッ!!
 ゴムが焼けるような摩擦音。

 翔の目が見開く。コートの奥から、野球部ペアが突っ込んできていた。
 前傾姿勢。腕を振り。全力疾走。それは球技の動きじゃない。内野安打に飛び込む野手の、なりふり構わない執念。
 「おおおおおッ!!」
 咆哮。スライディング。伸ばされたラケット。

――ポン。
 また返る。死に体のボールが、ふわりと宙へ浮いた。
 その瞬間。翔の中で、何かが切れた。
 (……嘘だろ、あれにも追いつくのかよ)

 戦意が削られていく。膝から崩れ落ちそうになる。
 だが、執念で返されたボールは、ほんの少しだけ甘かった。
 ネット際。わずかに高い。

 その瞬間。
 「――退け」
 リクの声。低い。静かな声だった。

 翔は反射的に身体を沈める。
 次の瞬間。
 頭上を、巨大な影が飛び越えた。

 空中で全身が弓のようにしなる。
 怒りじゃない。焦りでもない。ただ純粋な破壊。

――バァァァーーンッ!!!
 真上から叩き潰された黄色い弾丸が、相手コートへ突き刺さる。ボールは高くバウンドし、四メートルのガラス壁と金網のはるか上空を越えていった。

 「……え?」
 誰も動けない。
 ボールがコートの外で、ポーン……ポーン……と転がる音だけが響く。

 完全な静寂。その中心で。リクがゆっくり着地した。

 「これが、X4(エックス・フォー)だ」
 リクの静かな声。

 観客席が爆発した。
 「おおおおおおおッ!!」
 「外に飛んだぞ!?」
 「場外ホームランだ!!」

 野球部ペアすら、硬直している。
 ラケットを握ったまま。ただ、呆然と。

 「ちょっと待てよ!」
 野球部の田中が我に返り、審判へ手を挙げた。
 「今の、フェンス越えたら『アウト』でしょ!? 俺たちのポイントだろ!」

 「違うよー」
 騒然とするコート脇から、間延びした声が割って入った。
 いつの間にか現れた種木が、ペットボトルの水を片手にニヤニヤと笑っている。

 「コートの外に出たなら、取りに行けばいいんだよ」
 「……は?」
 野球部ペアが、揃って間抜けな声を出す。
 種木は、コートの横にある『出入り口』を太い指で指し示した。

 「パデルはね。ワンバウンドしたボールが外に飛び出た場合」
 「ドアから外へ走って取りに行き、打ち返してもいい。」

 「……!!」
 会場の空気が、一気に沸騰した。

 「マジかよ!」
 「外から打ってもいいのか……!」

 呆然とする相手を前に、リクが冷たく言い放つ。
 「外に出されるのが嫌なら……甘い球を上げなきゃいい」
 相手ペアは返す言葉もなく、悔しそうに唇を噛み締めた。

 翔は自分の足元と、ぽっかり開いた出入り口を交互に見つめていた。
 (……外、も?)

 強化ガラスと金網に囲まれた閉鎖空間。それがパデルのすべてだと思っていた。だが違う。この檻には外への扉があり、戦いのフィールドは今、枠を越えて外の世界へと繋がっている。

 翔の頭の中で、凝り固まっていた常識のブロックが音を立てて崩れ落ちていく。震える右手で、もう一度ラケットを強く握りしめた。

♢♢♢

――だが、現実は甘くない。
 リクの規格外のスマッシュで1ポイントをもぎ取ったものの、試合の流れは完全に野球部ペアが支配していた。

――バンッ!
 またしても、田中の強烈な両手バックハンドがコートを切り裂く。
 防戦一方。低空の牙に狙い撃ちされ、翔の足が完全に止まる。

 「ゲーム! 鈴木・田中ペア、4対1!」
 審判の声が、残酷な点差を青いコートに響かせる。

 (……くそっ)
 糸口すら見えない。相手は絶対に崩れない低い守備から、隙を見つけては弾丸を撃ち込んでくる。

 「よし」
 額の汗を拭う翔の横で、リクが短く息を吐いた。
 「二人で一気に前に出るぞ」
 「……え?」
 翔は弾かれたように顔を上げる。

 「俺がサーブを打ったら、お前も一緒にネット際まで走れ。壁のように張り付け」
 「前って……!」
 セオリーなら、後衛が守り、前衛が決める。
 二人で前に出るなんて、背後の広大なスペースを丸ごと空けることだ。横を抜かれれば即失点。

 躊躇する翔の瞳を、リクの漆黒の瞳が真っ直ぐに射抜いた。
 「やるぞ」
 迷いも、揺らぎもない声。

 「……分かった」
 翔は奥歯を噛み締め、ネットの向こうの二人を睨み据えた。

 リクのサーブが放たれた。二人同時に人工芝を蹴り飛ばす。猛ダッシュでネット際へ詰め寄る翔たちの圧力に、鈴木がわずかに目を見張った。だが即座に深く腰を落とす。

 狙いは明確だ。前に出た二人の、ちょうど真ん中。野球仕込みの両手打ち。これまでで一番鋭い、殺意の乗った弾丸ライナー。
――ドグゥンッ!!

 (……速い! 抜けるッ!)
 一瞬、恐怖で視界が歪む。
 だが、思考が焼き切れるより早く、翔の身体は「あの時」と同じように反応していた。無意識だった。でも、身体だけは理解していた。
――振れば、弾かれる。

 翔は迫り来る黄色い衝撃を見据えた。
 速い。重い。まともに打ち返そうとすれば、ラケットごと手首を粉砕される。

 だったら。
 (……合わせるだけだ)
 指先から、スッと力が抜けた。
 握り込まない。振り抜かない。
 ただ、最短距離でボールの軌道上にラケット面を“置く”。

――バンッ。
 乾いた、けれど重厚な衝撃。
 次の瞬間、翔の腕を破壊しかけていたはずの剛球は、嘘みたいに牙を失っていた。そして、ふわりとネットを越えた。
 
 「なっ……!?」
 鈴木の顔が驚愕に歪む。
 速くない。強くない。
 だが、威力を完全に吸い取られたボールは、生きる意志を失ったようにネット際へ力なく落ちる。

――ポト。
 「……ッ!!」
 鈴木が死に物狂いで前へ突っ込む。だが遠い。無理やり差し込んだラケットはボールの下を叩き、無情なロブとして高く浮き上がった。

 「今だッ!!」
 隣で、空気が爆ぜた。
 リクが、重力を置き去りにして跳んでいた。 全身を弓のようにしならせ、空中の一点へ、全存在をかけた暴力を叩き込む。

――バーァァァンッ!!
 黄色い残像が相手コートの床を叩き、そのままガラス壁を越えて場外へ消えた。

 「うおおおおッ!!」
 観客席から、地鳴りのような歓声が上がる。

 翔は、荒い息を吐きながら自分の右手を見つめていた。
 (……今の、俺が止めた)
 じりじりと痺れる掌。強打したわけじゃない。押し返したわけでもない。
ただ、相手の力を”無力化”にした。

 「それでいい」
 隣で、リクが短く呟く。
 「お前は、無理に撃ち抜かなくていい」
 黒い瞳が、まっすぐ翔を射抜いた。

 「お前が崩して、俺が刺す」
 心臓が、ドクンと跳ねる。バラバラだった感覚が、初めて一つに繋がった。
 守るだけじゃない。逃げるだけでもない。
 相手の力を利用してリズムを壊し、致命的な隙を創り出す。
 (……これが。俺の、戦い方――)

♢♢♢

 流れが、目に見えて変わり始めた。

 翔の「死のブロック」を警戒した野球部ペアは、これまでのように強打を打ち切れなくなっていた。
 早く打てば、止められて刺される。かといって緩めれば、ネットを制圧される。迷いという名の毒が、相手の動きをコンマ数秒ずつ鈍らせていく。

 「チッ……!」
 ついに田中の舌打ちが漏れた。

 翔はその瞬間を逃さない。
 昨日、自分たちがバドミントン部に対して行った「七回返し」。
それを今は、前衛の「圧」でやり返している。

 そして、運命のラリー。再び、鈴木の強烈な両手打ち。
 翔は半歩だけ横へスライドした。最短距離。面を合わせる。

――バンッ。
 またしても、ボールが死ぬ。
 短いブロック。前へ走らされる相手。苦しい体勢。浮くロブ。

 「終わりだ」
 リクが踏み込んだ。

――バォォォンッ!!!
 爆音。叩き込まれたスマッシュがコートを貫いた。

 「ゲームセット!! 勝者、翔・リクペア!!」
 審判の声が、青い檻の中に響き渡る。

 一瞬、翔はその場に立ち尽くした。
 肺が焼けるように熱い。全身が鉛みたいに重い。 だが。胸の奥だけが、不思議なほど軽かった。

 「……勝った、のか」
 汗で張り付いた前髪をかき上げながら、翔は膝に手をつく。
 準決勝、突破。

 観客席の地鳴りのようなざわめきが、少し遅れて耳に戻ってくる。
 「いい動きだったな」
 リクが歩み寄り、拳を差し出した。

 翔は荒い呼吸のまま、その拳を強く打ち付けた。
――コツン。

 「でもさ……」
 呼吸を整えながら、翔は率直な疑問を口にした。
 「この作戦、どっちかが抜かれたら終わりだろ」

 ネット際へ二人で張り付く超攻撃型。
 一歩間違えれば、即失点。

 リクはあっさり頷いた。
 「そうだよ」
 「おい」
 「だから、素質がいる」

 リクは、翔の右手を顎でしゃくった。
 「最初に会った時のこと、覚えているか」
 「……テニス部の球?」
 「ああ」
 マイへ飛びかけたボール。翔は、考えるより先に素手で叩き落としていた。

 「人間ってのは、自分に直撃しないって脳が判断した瞬間、防御反応を切る」
 淡々とした口調。だが、その視線だけが鋭い。
 「でも、お前は違った」
 翔の胸に、その言葉が静かに落ちる。

 「横から来たものを、面で止める感覚がある。反射神経だけじゃない。狂った軌道を瞬時に捉えて止めるやつは、少ない」」

 リクはネットを軽くラケットで叩いた。
 「パデルの前衛はな。強打できる奴より、壁になれるやつの方が重要なんだよ」

 振らない。ぶつけない。吸収する。
 (……これが、俺の役割)
 「だから、お前を選んだ」
 リクの言葉に、翔は何も返せなかった。 ただ、どうしようもなく、胸が熱かった。

 「……まあ、理由はそれだけじゃないけどな」
 ボソっと独り言のように言い残して、リクはラケットを肩に担いだ。
 「どういう意味だ」
 「明日、分かるよ」
 そう言って、リクは歩き出した。

 「明日は決勝だぞ」
 「……相手、誰だ」
 「テニス部の小林だよ」
 翔の足が、一瞬止まった。
 入学初日。あのテニスラケットのフルスイングした男。右手の平に、あの日の熱が蘇った。

 西陽が、青いコートを赤く染め始めていた。

♢♢♢

 校門へ向かう翔の視界に、体育館の窓から漏れるオレンジ色の光が刺さった。
 (……誰だ?)
 重い扉の隙間から覗くと、一人の影が壁打ちを繰り返していた。
 キュッ、と人工芝を鳴らす乾いた音。だが、昼間のような軽やかさはない。 一打ごとに、振り抜く肩がわずかに重く沈んでいる。

 「マイ」
 声をかけると、影がピタリと止まった。
 「あ、翔」
 振り返ったマイは、いつもの笑顔を貼り付けていた。だが、額を伝う大量の汗、浅く速い呼吸、小刻みに震える肩。
 限界を越えていることは、その場の空気でわかった。制汗剤のシトラスと、激しい運動が撒き散らす熱が混ざった匂い。

 「明日、決勝だろ。……調子はどうだ」
 翔がコートに足を踏み入れると、マイはラケットを見つめ、力なく笑った。

 「……実は、ヤバいかも。全身、鉄板が入っているみたい」
 翔もまた、自分の太ももを拳で叩いた。
 「……分かる。俺もだ」
 パデル特有の、膝を深く折る低姿勢。瞬発的なストップ。
 そして、金網を蹴る予測不能なボール。
 普段使わない深層の筋肉が、じりじりと火を噴いている。

 「地味にキツいよな、この競技」
 「うん。……それとね」
 マイが、穴の空いたラケットを強く握りしめた。

 「リクに、『握るな』って言われているの。強く握ると、衝撃が逃げ場を失って腕が固まるからって」
 翔は昼間の、リクの鋭いスマッシュを思い出した。
 脱力して、面を作る。 強く振るんじゃない。力を“流す”。

 「でもさ」
 マイの指先が、グリップを白くなるほど締め上げる。
 「『絶対決めたい』って思うと、指が勝手に食い込んじゃうんだよ」
 「……分かる。勝ちたいって思うほど、身体は石みたいに硬くなるよな」
 力を抜く方が難しい。

 「……まあ、とにかく、あと一勝だ。お互い、決勝……頑張ろうぜ」
 不器用な言葉。だが、マイは弾かれたように顔を上げた。
 「うん!」
 一歩、距離が縮まる。

 「なんか、不思議だね。パデルを始めてから、翔と……また、話せるようになって」
 まっすぐな瞳。翔は彼女の視線から逃げられなかった。
 「私、嬉しいよ」
 体育館の空気が、ふっと密度を増した。
 翔の胸を焦がしていた「ざらつき」が、霧散していく。代わりに、鼓膜を打つ自分の心臓の音が、体育館の静寂を塗り潰した。

 「……俺もだ」
 気づけば、声が漏れていた。
 マイが「ん?」と小首を傾げる。

 翔は慌てて顔を逸らし、ぶっきらぼうに背を向けた。
 「……帰るぞ」
 「うん、一緒に帰ろう!」

 マイが弾んだ声で続き、並んで歩き出す。
 久しぶりにマイと一緒に帰宅する、道中の他愛の無い会話が心地よかった。

 空っぽだった日常が。少しずつ、熱を持って回り始めていた。

第5話「空を使う戦い」


 決勝戦当日。
 所峰高校のグラウンドは、もはや一校の行事とは思えない異様な熱狂に震えていた。

 内コートでは女子、外コートでは男子。
 二面同時に、運命の幕が上がる。

 翔は外コートの人工芝を強く踏みしめ、無意識に天を仰いだ。どこまでも高く、吸い込まれそうなほど透明な春の空だ。
 (……広いな)

 その解放感に反して、胸の奥には重い石が詰め込まれている。
 ネットの向こう。元テニス部エース・小林と宮木。
 初日、マイに弾丸を放った小林が、今は冷徹なアスリートの佇まいでそこに立っていた。焦りも殺気もない。ただ、“完成された競技者”だけが持つ静かな圧があった。
 ラケットを軽く回す仕草ひとつまで洗練されている。

 「翔」
 リクが、隣で短く熱い息を吐いた。
 「今日はリターンを徹底して『ロブ』でいく。」
 「……は?」
 翔は弾かれたように隣を見た。

 「ロブ? バカ言え。あいつらはテニス部だぞ。スマッシュの餌食になるだけだ」
 「いいから上げろ」

 リクの瞳は、一点の曇りもなく小林を射抜いている。
 「ただし、ただのロブじゃない。空に溶けるくらい『高く』、サーブラインを抉るくらい『深く』だ」

 「……分かったよ」
 翔は頷き、重心を落とした。
 「さぁ、バモス!」

♢♢♢

【男子トーナメント決勝戦】
対戦:三年テニス部 宮木・小林ペア
ファースト・サーブ:小林

 小林のサーブ。
――ドンッ!!
 速い。鋭い。空気を撃ち抜くような重い一撃。これまでの相手とは、明らかに球質が違う。
 リクはその威力を逃がすように一歩踏み込み、ラケットを真下からすくい上げた。

 フワリ。
 心臓を掴み出すような、異常な滞空時間。
 黄色いボールが、真っ青な深淵へと吸い込まれていく。
 (……高っ)

 誰もが首を痛めるほど、空を見上げた。
 太陽の光に溶け、一瞬消失したかのように見えた球が、垂直に落下してくる。落ちる場所は、コートの最奥。背後のガラス壁から、わずか数十センチのデッドゾーン。

 「小林!」
 「分かっている!」

 後退する小林。
 太陽を背に受け、得意のスマッシュで仕留めるべく、空中でラケットを大きく担ぎ上げる――。
 (……ッ!?)

 振れない。 視界の端、背後にそびえ立つ透明な強化ガラスが、目前まで迫っていた。テニス特有の大きなテイクバック。ラケットをこれ以上引けば、間違いなく壁に激突する。
 距離感が狂う。ほんの一瞬の迷い。その躊躇が、致命的だった。
――ポン。
 床に落ちる。
――ポン。
 一度も触れられないままボールが二度、床を叩いた。

 「ポイント、翔・リク!」
 地鳴りのような咆哮が、グラウンドを揺らす。

 翔は目を見開いた。
 「……壁際へ落として、スイングを封じたのか!」
 「それだけじゃないぞ、翔」
 リクが、獰猛に薄く笑う。
 「パデルのコートは、テニスの常識をバグらせる罠だらけだ」

 次のポイント。
 小林のサーブを、翔が受ける。
 (やってやる……!)
 見様見真似。リクに倣い、ラケットの面を空へ向けて高く放り出す。
 だが、焦りからかスイングが甘くなった。

 (……浅いッ!)
 ボールは理想より手前、相手にとって絶好の「打ち場所」に落ちる。
 小林が完璧なタイミングで待ち構えた。弓なりにしなる身体。完璧な打点。

 (やられる……!)
 翔は反射的に目を伏せた。
 だが、響いたのはコートを砕く爆音ではなく、ネットが激しく揺れる鈍い音だった。

――ボフッ!!
 「……え?」
 顔を上げると、ネットに引っかかったボールを呆然と見つめる小林の姿があった。あり得ない。あんなチャンスボールを、彼がミスするなんて。

 「慣れすぎているからだ」
 リクの声は、どこまでも残酷だった。

 「テニスのスマッシュは、ガットの反発を使う。でもパデルは違う」
 リクが、自分のラケットを軽く叩く。
 「短い。硬い。板で当てる感覚になる」

 翔の脳内で、点だった情報が繋がっていく。
 「つまり……」
 「長年染み付いた感覚ほど、簡単には修正できない」
 リクの口角が、獰猛に吊り上がる。
 「だから、打たせるんだよ。一番自信のある『スマッシュ』を」

 翔の背筋に、痺れるような戦慄が走った。
 誘っている。勝利の味を知る強者を、その自信を逆手に取って崩す。

 これまでの戦いとは違う。力比べじゃない。心理。習慣。
 身体に染み付いた“常識”そのものを利用して崩している。
 (……これが、決勝)

 翔はラケットを握り直した。
 高く。深く。空すら使う。
 パデルの戦場は、もうコートの中だけじゃない。青空まで含めて、自分たちのフィールドになっていた。

♢♢♢

 怒涛のロブ戦術でテニス部ペアを翻弄し、序盤の2ゲームを先取した。
 このまま押し切れる――翔がそう思い始めた、その時だった。

 サーブ位置へ向かう宮木を見て、観客席から笑い混じりの声が漏れる。
 「おい……あれ、宮木だろ?」
 「ネットの神様だよ」
 「ははっ、またネットに突き刺すぞ」

 嘲るような笑い。翔は眉をひそめた。
 だが、その横でリクだけが、険しい顔をしていた。
 「……まずいな」

 「え?」
 聞き返すより早く、宮木のサーブが放たれる。

――バシュッ!!  
 鋭い回転。
 リクは反応し、フォアでリターンした。
 ネットを超える、お手本のような返球。

 宮木が、静かに一歩踏み込む。
 そして、片手でラケットを引いた。
 (……片手?)

 翔の脳が、一瞬だけ誤った計算をする。
 両手じゃない。なら、威力は落ちる。
 その認識は、次の瞬間に粉砕された。

 宮木の身体が、大きく捻れる。深く入る肩。しなる背筋。後方へ優雅に流れるラケット。テニスという競技の中で何万回も磨き上げられた、完成されたフォームだった。

――バォォンッ!!
 「っ!?」
 視界から、黄色が消えた。低い。あまりにも低い。
 ボールはネットの白帯を舐めるように通過し、着弾と同時に獣のようなドライブ回転で加速する。
 リクですら、動けない。

――ポイント。

 「……なんだよ、今の」
 翔の喉が引きつる。昨日の野球部の弾丸とは違う。
 力任せじゃない。技術だ。積み重ねられた時間そのものが、あの一球に圧縮されている。

 「片手で……あんな球、出せるのか?」
 「それが、型を極めた人間の力だ」
 リクが低く呟く。
 「全身の捻転。遠心力。回転。全部をボールへ乗せている」

 翔は奥歯を噛み締めた。強い。今までとは格が違う。
 だが、リクの視線は、まだ宮木のラケットを追っていた。
 「しかも、厄介なのはそこじゃない」
 「……え?」
 「パデルのネットは、テニスより三センチ低い」

 その言葉に、翔の脳内で何かが繋がった。
 観客席の笑い声、ネットの神様。
 テニスでは、ネットへ掛かる失敗ショット。

 だから、誰も磨かなかった軌道。けれど。
 この三センチ低い世界だけは違う。
 ネットミスだったはずの低空弾道が、ここでは誰にも触れられない“キラーショット”へ変貌する。

 「……そういう、ことか」
 翔の背筋を冷たいものが走った。
 宮木に向けられた「ネットの神様」という蔑称の正体。
 テニスでは欠点だった。
 だが、環境が変わった瞬間、それは才能へ裏返る。

 「宮木にとってここは聖域なんだよ」
 リクの声が、静かに沈む。
 「失敗が、武器になる場所だ」
 言葉の重みが、翔の胸へ沈んでいく。

 片手強打。異常回転。低空弾道。
 これまで戦った相手の武器を、すべて高水準で兼ね備えた怪物たち。

 「……どうするんだよ」
 思わず漏れる弱音。
 だが、リクはそこで、小さく笑った。

 「だから、ここからは――」
 ラケットを、くるりと回す。
 その視線が、ガラス壁、金網、そしてコートの“外”へ流れていく。

 「パデルで戦う」
 「……パデル?」
 「ああ。壁、空間、外。テニスには無いもんを、全部使う」

 翔は、ゆっくり息を吸った。
 その時だった。

 「ちょっと、ストップいいかな?」
 熱を帯びたコートに、間の抜けた、けれど逃れられない制止の声が響いた。のそりとコートに足を踏み入れたのは、種木コーチだった。

 「え……?」
 審判でも選手でもない男が、当然のように試合へ割り込んでくる。
 種木はそのまま宮木の前へ歩み寄った。
 「ちょっとそのラケット、貸してみ?」

 種木は宮木からラケットをひったくると、持ち方の指導を始めた。
 「スマッシュ打つ時さ。そのままだと、面が寝るんだよ」
 宮木と小林が、怪訝な顔から一転、真剣な眼差しで覗き込む。
 種木は、ニヤニヤ笑っていた。敵も味方も関係ない。
 ただ、劇薬を投与された実験動物がどう暴れるかを楽しみにしているような、底知れない顔で。

 「……あの狸め」
 隣で、リクが忌々しそうに舌打ちをした。

 「どういうことだよ?」
 翔は目を見開く。
 だが、種木は気にしない。
 勝敗よりも、進化したぶつかり合いそのものを楽しんでいるようだった。
 「すぐに分かる。……テニス用の矯正グリップだ」

 試合再開。
 種木の介入からわずか数十秒。
 だが、コートの空気は劇的に変質していた。
 宮木の片手ボレーが壁を叩き、不規則に跳ねる。リクが思わず超高ロブで返した。 ボールが上がる。小林が動く。
 構えはテニス流のスマッシュの構えだ。

 (……来る!)
――ドォォンッ!!
 振り下ろされた一撃が、コートを爆撃した。
 ネットに掛からず、奥の壁にも直接当たらず、相手の足元で鋭く変化し、ガラスに当たった後も死なない。
 「ポイント!」
 翔が手を伸ばすが、ツーバウンドに間に合わない。

 どよめき。歓声。
 「……本当だ!全然違うぞ!」
 小林自身が、自分のラケットを見つめながら目を見開いていた。

 「……っ、今のスマッシュ」
 翔の額を、嫌な汗が流れる。
 スマッシュの“芯”の食い方が別物だった。

 「ラケットの持ち方だ」
 リクが低く言う。
 「持ち方だけで、あんな変わるのか?」
 「ああ」

 リクがグリップを握り直す。
 「テニスの感覚のままだと、パデルの短いラケットは打点がズレる」
 そして、自分の手元を少し傾けた。
 「でも今の握りなら、勝手に当たる」

 翔は息を呑んだ。
 「クローズグリップ。テニス経験者が、最短でパデルのスマッシュへ適応するための補助輪だ」

 テニスの技術。そこへ、パデルの補正。
 種木は、たった数分で彼らを“進化”させた。

 そこから先は、一方的な試合展開となった。
 テニスの圧倒的なスイングスピードで叩き込まれるスマッシュ。

 歓声が上がるたび、スコアボードだけが無情に書き換わっていく。
 気づけば、奪ったはずの流れは完全に消えていた。

 「どうするんだよ、リク……。あんなの、手が付けられないぞ」
 絶望に近い言葉が漏れる。
 けれど、リクは微かに、挑発するように口角を上げた。

 「決まっているだろ。……こっちも、変える」
 手元へ視線を落とし、リクは指先でグリップをゆっくり滑らせた。
 「向こうが“クローズ”なら、こっちは“オープン”で行く」
 手首が、わずかに時計回りへ捻れる。
 「クローズの逆だ。時計で言えば“四時方向”。面を開いて、回転を横へ逃がす」

 翔はその微細な角度変化を食い入るように見つめた。
 「……それで、どうするんだ?」
 焦りを滲ませた翔の問いに、リクは一歩踏み込み、耳元へ顔を寄せた。
 翔は思わず息を呑み、目を見開いた。

 「……本気か? それで、本当にいけるのか?」
 「いける。……お前の右手を信じろ」

 一切の揺らぎがない即答。
 翔は深く息を吸い込み、強く一度だけ頷いた。

♢♢♢

 リクのサーブが火を噴いた。
 宮木が死に物狂いで食らいつき、高くすくい上げる。
 フワリ。
 (来た……!)

 高く上がった、甘いロブ。
 翔の頭上へボールが落ちてくる数秒の滞空時間。
 その刹那、翔は右手の中でグリップを回した。
 (オープングリップ!)
 さらに。
 (――握らないッ!)

 持つのは、グリップの最下部。指から、腕から、余分な力をすべて剥ぎ取る。ラケットが手からすっぽ抜けそうなほどの、完全なる脱力。

 視線は一点。ボールの正面ではなく『右側』を射抜く。

 膝を深く沈め、足から腰、肩、腕へと力を繋ぐ。
 身体の軸を中心に、頭上に掲げたラケットを、しなやかな鞭のように振り下ろした。力を振るのではなく、流す。

――シュバァァァンッ!!
 鼓膜を突き破るような甲高い打球音。
 直後。翔の視界から、黄色いボールが完全に「消失」した。
 (……え?)

 前へ飛んでいない。ラケットの面を滑り、強烈なドライブ回転を帯びたボールは、斜め上空へと弾け飛んでいた。

 「なんだ!?」
 「斜め横に飛んだぞ!?」

 数秒の遅れ。そして、静寂を切り裂いて観客席から悲鳴が上がる。

――バギィンッ!!
 狂った軌道を描いた弾丸は、バウンドしてから奥のガラス壁を蹴り、あり得ない角度で跳ね上がった。
 そのまま、高さ三メートルの横壁をあっさりと越え、コートの真横――『外』の世界へと逃げていった。

 宮木も小林も、一歩も動けない。誰も追えない。
 「ポイント!」

 一瞬の静寂の直後。
 「おおおおおおおおおおッ!!」
 コート全体が、地鳴りのような歓声に包まれた。

 翔は、その場で固まっていた。
 「……今の、俺がやったのか?」
 自分の右手を見る。痺れがない。むしろ――軽い。

 「ナイス、X3(エックススリー)ドライブ」
 歩み寄ってきたリクが、獰猛に笑う。
 「横回転で側壁の上を越える、パデル特有のスマッシュだ」

 翔はゆっくりと右手を開閉した。
 (握っていない……なのに、なんであんな球が出るんだ)

 頭では理解できない。だが身体は理解していた。
 脱力。角度。回転。重力。力任せではない。
 身体全体を“流れ”として使う感覚。

 その瞬間、翔の脳裏にマイの姿が浮かぶ。
 軽やかに舞うようなスマッシュ。
 (……そうか)
 翔の口元が、自然に歪む。
 (……そうか。俺も、知らなかった側なんだ)

 球技の常識も。力む癖も。完成されたフォームもない。
 だからこそ。パデルの“理屈”を、そのまま身体へ通せる。

 背筋が震える。
 (……気持ちいい)
 檻の中で、空間を支配した者だけが感じられる感覚だった。

 「まだ終わってねぇぞ、翔!!」
 リクの怒号が飛ぶ。
 翔は弾かれたように顔を上げた。

 ネットの向こう。宮木と小林が、完全に目の色を変えていた。
 さっきまでの余裕はない。

 「相手の武器はまだ残っている!」
 リクがラケットを構える。

 「ここからは――気力勝負だ!!」
 「おうッ!!」
 翔の喉から、自分でも驚くほどの野太い声が出た。

 技術も。経験も。常識も。全部、檻の中で溶け始めている。
 残るのはただ一つ。
 どちらが最後まで、この“青い檻”の中に立っていられるか。

第6話「跳べる者、決着」


 コートの中は、もはや理屈を超えた消耗戦と化していた。
 ゲームは4対4。 同点。あと二ゲーム先取で勝利。
 
 汗で湿った人工芝。荒い呼吸。限界まで酷使された脚が、鉛のように重い。それでも、誰一人として止まらない。

 リクと翔が同時に前へ詰める。
 リターンをブロックし、そこから始まるのは逃げ場のない至近距離の殴り合い。

――パンッ!!
――バンッ!!
――パァンッ!!

 至近距離で火花を散らすボレー戦。
 瞬き一回の遅れが、そのまま失点へ直結する極限速度。
 抜けたボールはガラス壁が拾い、ロブとなって再び空へ返る。そしてテニス部ペアは、クローズドグリップによるスマッシュを叩き込んでくる。

 だが、翔は荒い呼吸の中で気づいていた。
 (成功率が、下がってきている)

 小林のスマッシュが、わずかにネットへ近づく。
 宮木のボレーが、数センチ浮く。
 ほんの小さなズレ。けれど極限速度のラリーでは、その数センチが致命傷になる。

 疲労が、精密機械だったテニス部のフォームを、少しずつ狂わせ始めていた。た。

 「っ!!」
 小林のバックハンドが炸裂した。
――ドゴッ!!

 「ぐっ……!!」
 翔の腰へ、弾丸のような打球が突き刺さる。鈍い衝撃。
肺の空気が強制的に吐き出された。

 「ポイント!」
 地鳴りのような歓声。翔は奥歯を噛み締める。
 (痛ぇ……ッ)
 腰の奥が痺れる。だが、止まる暇はない。

 「翔」
 隣に並んだリクが、低く呟いた。

 「次、足元に来たら――跳べ
 「……は?」
 聞き返す余裕なんてなかった。

 次のラリー、小林が低く沈む。 嫌な予感。
 ラケットが鋭く振り抜かれた瞬間、翔の背筋に悪寒が走った。

 (今度は足元……!)
 一直線。狙いは翔の膝。疲労で止まった脚を、完全に撃ち抜くための一撃。
 (無理だ、反応が間に合わない――)
 その瞬間、脳裏にリクの声がフラッシュバックする。
――跳べ。

 身体が思考を追い越した。  
 翔は真上へ跳ねる。不格好なジャンプ。高くもない、綺麗でもない。
ただ、生存本能だけで宙を舞った。

 黄色い閃光が、空中に浮いた翔の足元のわずか数センチ下を、無慈悲に切り裂いていった。
 (やった、避けた――)

 だが、直後、翔の血の気が凍った。抜けたボールが、そのまま背後のガラスへ激突したのだ。

――ドォォンッ!!
 跳ね返ったボールが、高く、垂直へ舞い上がる。
 その強烈な軌道は、ネットを越え、そのまま無防備な相手コートへ向かって「帰還」しようとしていた。

 (やばい……!)
 空中で、翔の思考が白く染まる。
 その時。視界の端に、黒い影がいた。

 「っ!」
 いつの間に。リクが、ネット際へ低く滑り込んでいた。
まるで最初から、ボールがその位置へ帰ってくることを知っていたかのように。ラケットを振り上げ、全身のバネを極限まで圧縮させている。

 「ナイス、ジャンプ!」
――バァァァァァァンッ!!!
 今日一番の、鼓膜をぶち破るような爆発音。
 リクのスマッシュが、空間そのものを叩き潰した。

 黄色い弾丸が相手の人工芝へ突き刺さる。
 そして、高く跳ね上がったボールは、奥の壁を駆け上がり……さらにその上、高さ四メートルの金網すらあっさりと飛び越え、外の世界へと消えていった。

 「ゲーム!! 翔・リクペア!! 5対4」
 一瞬の静寂。そして。
 「うおおおおおおおおおおおおッ!!!」
 会場が爆発した。誰もが立ち上がっている。

♢♢♢

 翔は着地したまま、呆然とその光景を見つめていた。
 呼吸がうまくできない。震える脚。心臓だけが、狂ったように肋骨を叩いている。

 翔はふらつきながらリクへ駆け寄った。
 「ナイス、リク……!お前……俺が跳ぶって分かって――」
 「ああ」
 リクが短く頷く。肩で荒く息をしながら、真っ直ぐ翔を見た。その目は、これまでで一番真剣だった。

 「でもな、翔。今の、普通はできねぇ」
 「……え?」
 リクはラケットを掲げ、背後のガラス壁を軽く指した。
 「人間は普通、自分へ向かってくる球を見たら、止めようとする。」
 「ラケットを盾にしてな」

 獰猛に。だが、どこか嬉しそうに。
 「お前は、避けろと言ったら避けた。……それは教わってどうにかなるもんじゃねぇ。才能だ」
 翔の胸が熱くなる。
 「お前は、パデル向きなんだよ」

 (……俺が?)
 何かに選ばれたことなんてない。特別だったこともない。
 だが、この青い檻の中では、自分の反射も、逃げる感覚すらも、すべてが“武器”へと変わっていく。

 視界が、少しだけ滲んだ。
 翔はそれを誤魔化すように、力いっぱい笑った。

 リクが背を向ける。ラケットを握り直し、コート奥で肩を落とす怪物たちを見据えた。

 「さあ――あと1ゲーム」
 空気が、最後の一線まで張り詰める。
 「決着をつけようぜ、相棒」
 「おうッ!!」
 声が一つに重なった、その時だった。

 「今の! 完全にオーバーネットだろ!!」

 小林の猛烈な抗議が、コートの静寂を切り裂いた。
 ネット際、リクのラケットがわずかに対戦相手側の空間に侵入していたのだ。

 観客席から野次とどよめきが上がる中、のそりと「あの男」が姿を現した。
 「はい、ストップ。パデルはね――」
 種木コーチが、ペットボトルを片手にコートへ踏み込む。

 「ボールが壁に当たって戻ってきた場合だけ、ネットを越えて打つことが許されているんだ。」

 「……!」
 観客席がどよめく。
 「ただし」
 種木は続けた。
 「身体でもラケットでも、ネットに触れた瞬間アウト。そこは厳しい」

 そしてリクを見た。
 「……触ってないよねぇ?」
 「触ってねぇよ」
 リクの冷淡な即答に、観客席が再び沸騰した。
 テニスの常識を塗り替えるルールに、誰もが翻弄されていた。

 (そんなルールまで……)
 翔は荒い息を整えながら、汗を袖で拭った。

♢♢♢

 次のポイント。
 リクが、小林のリターンを高く持ち上げた。
 超高ロブ。空へ吸い込まれるような軌道。長い滞空時間。

 ふと、翔の視線が観客席へ流れた。
 「……あれ?」
 見覚えのある、しなやかな人影。
 「……マイ?」

 だが、翔の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
 マイの額に、真っ白な包帯が巻かれていた。
 (包帯……? なんで……。女子の試合はどうなった!?)

 一瞬で脳内が真っ黒なノイズで埋め尽くされた。
 意識が、コートの外へと引き剥がされる。

 「おい、翔!!」
 リクの怒声が響いた時には、すべてが遅かった。
――ドォォンッ!!
 宮木の執念のスマッシュが、翔のすぐ横を弾丸となって通り過ぎる。

 (しまった……ッ!)
 ボールは奥のガラスの上部を殴り、鋭角に跳ね返った。
 その勢いのまま、コートの「出入り口」から外の世界へと逃げていく。

 返せない。誰もが諦めた、その瞬間。
 「任せろ!!」
 リクの影が、翔の視界を飛び越えた。迷うことなく、開口部から檻の外へと飛び出す。

 「外に出たぞ!?」
 「取りに行くのか!?」

 リクは重力に抗うように疾走し、コンクリートの上でシューズを悲鳴させながら落下地点へ滑り込んだ。

――ポン。
 極限のタッチ。
 放たれたのは、高く、柔らかい弾道。ボールは横の壁を越え、空を描いてコートの中へと「帰還」した。落下地点は、相手コート最奥のコーナー。

 「っ……!!」
 前へ詰めていた宮木たちが、慌てて振り返る。だが届かない。

――ポン、ポン。
 無機質なツーバウンドの音。

 「ポイント!! 翔・リクペア!」

 地鳴りのような大歓声。
 翔はラケットを握ったまま、立ち尽くしていた。
 「……すげぇ」
 コートへ戻ってきたリクは、肩で荒く呼吸していた。全身から凄まじい圧力が滲み出ている。

 「ぼーっとすんな。まだ試合中だぞ」
 乱れた前髪を掻き上げながら、リクが睨む。

 「……っ、悪い」
 翔は淀んだ空気を吐き出し、視線を上げた。

 だが、観客席のマイの姿が頭から離れない。
 再び探してみたが、何処にもいない。
 (……何があったんだ)

 胸がざわつく。不安が消えない。
 それでも。
 (……今は勝つ)
 リクの執念。ここまで繋いできたすべて。無駄にはできない。

 「あと2ポイントだ」
 リクがボロボロのラケットを構える。

 「ああ」
 翔も前へ出た。

♢♢♢

 世界から音が消える。歓声も、風の音も、何も聞こえない。
 小林の放った渾身の強打が、サイドの金網を直撃する。

 ――カンッ。
 「っ……!」
 ノーバウンドでアウト。
 観客席がどよめく。
 理屈を超えた「流れ」が、完全に翔たちを後押ししていた。

 運命の最終ポイント。
 リクのサーブに対し、宮木が死守のリターン。
 リクがネット際へ沈める芸術的なドロップ。
 「くそっ!」
 小林がスライディングしながら、死に物狂いでラケットを差し出す。

 高く、甘く。空中に、無防備なチャンスボールが舞い上がった。

 (――今だ)
 頭上に落ちてくる黄色いボール。
 翔はラケットを握り直した。いや、握らない。
 中指を浮かせるようなオープングリップ。狙うのは、ボールの右側面。

 屈伸。 鞭のようなしなり。
 全身の導線を右手に集中させ、振り下ろす。

――バァァァーンッ!!!
 鼓膜を突き破る爆発音。
 強烈な横回転を帯びたボールは、あり得ない角度で奥の壁を叩き、そのまま三メートルの横壁を越えた。
 誰も追えない、誰にも届かない場所へ。
 静寂。

 「ゲームセット!! 勝者、翔・リクペア!!」
 「うおおおおおおお!!」
 地鳴りのような歓声が、コートを飲み込んだ。

 「一年が勝った!!」
 「ジャイアントキリングだ!!」

 翔はその場に立ち尽くした。
 肺の奥の熱を、ゆっくり吐き出す。
 (……勝った)

 歩み寄ってきたリクが、少しだけ疲れた顔で拳を出した。
 翔は笑みを堪えきれず、その拳に自分の拳をぶつけた。
 「やったな、相棒」

♢♢♢

 そこへ、歓声を切り裂くように種木が現れた。
 「いやあ、おめでとう! 本当に素晴らしい試合だったよ!」
 腹の底から愉快そうに笑いながら、両手を広げる。
 「なんと今回のトーナメント!男子も女子も、一年生ペアが優勝しました!」

 「……え?」
 翔が、息を切らしたまま顔を上げる。その時だった。

 「翔――っ!!」
 聞き慣れた声が、熱狂の向こうから飛び込んできた。
振り返る。そこには、マイとカナが立っていた。

 「マイ……!」
 駆け寄ろうとした翔の視線が、彼女の額で凍りつく。
 痛々しい、白い包帯。

 「その頭……!」
 「あー、これ?」
 マイは照れくさそうに笑い、額の包帯を指先で軽く叩いた。

 「決勝のスマッシュで、ちょっと派手に転んじゃって。」
 「大丈夫だって言ったんだけど、保健室の先生が“念のため”って」
 「……っ」
 翔の肩から、泥のように力が抜け落ちた。
 肺の奥にへばりついていた冷たい恐怖が、ゆっくりと体温に溶けていく。

 「……よかった」
 思わず漏れた声は、自分でも驚くほど震えていて、弱かった。
 「本当に、よかった……」

 マイが、一瞬だけ目を丸くする。
 そして、夕陽のせいだけではない赤みを頬に差して、ふわりと笑った。
 「……心配してくれたんだ」
 「当たり前だろ」
 翔は反射的に言い返し、焦って視線を逸らした。

 その横で。
 「よくやったな、カナ」
 低く、落ち着いた声。リクだった。
 彼は極めて自然な動作で、カナの肩へポンと手を置く。

 「……はい」
 カナが小さく頷く。普段の鉄壁の守備からは想像もつかないほど潤んだ瞳で、真っ直ぐにリクを見上げていた。
 その距離感。空気。互いを呼ぶ声の熱。
 どれもが、明らかに普通じゃない。
 翔は数秒遅れて、その強烈な違和感の正体に辿り着いた。

 (……あれ?)
 マイが、間抜けな顔をしている翔を下から覗き込む。

 「ねえ、翔」
 「ん?」
 「あの二人、付き合っているんだよ?」
 「…………は?」
 思考停止。 一秒。二秒。三秒後。

 「ええええええええええええええッ!!?」
 コート全体に、翔の素っ頓狂な絶叫が突き抜けた。

 「翔、鈍すぎ……」
 マイが肩を揺らして笑う。そして、不意に。
 その視線が、ほんの少しだけ真っ直ぐで、柔らかいものに変わった。
 「南米の人ってさ」
 「……?」
 「好きって思ったら、ちゃんと伝えるんだよね。すっごく真っ直ぐで、積極的」
 春の風が、マイの汗ばんだ髪とピンクのメッシュを揺らす。
 彼女は翔の目をじっと見つめたまま、小さく笑った。
 「……ちょっとだけ、カナが羨ましくなっちゃった」

 「――っ」
 試合中よりも激しく、心臓が跳ね上がった。
 言葉が出ない。肺が熱い。頭が真っ白になる。

 何か言わなきゃいけない気がした。でも、何を言えばいいのか分からない。 マイが、翔の沈黙を見て、ほんの少しだけ唇の端を上げた。勝ち誇った顔じゃない。照れを隠した顔だった。

 だが、その甘い硬直は、拡声器のノイズによって強制終了させられた。

 『さて皆様!』
 種木がマイクを握り直し、ニヤリと笑う。
 『優勝したペアには、事前に約束していた“豪華プレゼント”があります!』

 「きたあああああ!!」
 観客席が再び爆発する。

 「中東旅行!?」
 「マジでドバイか!?」

 種木は、わざとらしくたっぷりと間を置いた。
 そして、口角を限界まで吊り上げる。
 「行き先は――サウジアラビア」

 「…………は?」
 熱狂が、一瞬で凍りついた。
 「サウジ?」

 種木は四人を順番に指差した。
 翔。リク。マイ。カナ。

 「二か月後、かの地で開催される――」
 その瞬間だけ。種木から“狸”の空気が消え失せた。

 「CIP(国際パデルクラブ)主催、第一回アジア・ジュニア大会」
 声に、鋼のような重みが宿る。
 「君たち四人には、U18日本代表として出場してもらいます」

 静寂。
 春の風だけが、青いコートの金網を揺らした。

 「…………え?」
 翔の口から、間抜けな声が漏れる。
 「日本代表?」
 今度こそ、本当に全員の思考が停止した。

 「ほっほっほ。実はのう、種木先生は――」
 校長が、そんな空気を心底楽しむように穏やかに笑いながら歩み出る。
 「日本パデルクラブ、JPCの初代会長なんじゃよ」

 「それでねぇ」
 種木が肩を竦める。ニヤリ。嫌な予感しかしない笑みが復活した。
 「ジュニア代表を探していた。……つまり、このトーナメント」

 一瞬の静寂。
 「実は、即席の“日本ジュニア代表選考会”だったんだよ!」

 「勝手すぎるだろ!!」
 「聞いてねぇよ!!」
 悲鳴とツッコミがコートに飛び交う。

 だが、その大混乱の中で、マイだけは、どこか遠くを見るように呟いた。
 「……アジア大会」
 額の包帯に触れる。その瞳には、恐怖より強い光があった。
 「ねえ。それって……世界にも繋がっているの?」

 「パデルって、一体なんなの……?」
 カナの震えるような問いに。
 リクが、一歩前へ出た。
 ガラスの檻の向こう。どこまでも広がる夕焼け空を見上げる。  
 「パデルはな」
 静かな声。けれど、その奥にはマグマのような確かな熱があった。
 「日本じゃまだ誰も知らない。……でも、世界が今、熱狂しているスポーツだ」

 その鋭い視線が、翔を射抜いた。
 「だからこそ、俺たちがなるんだ。」
 「日本における、純パデラーの第一世代に」

 その言葉が翔の胸の奥を、真正面から撃ち抜いた。
 翔は、ゆっくりと右手の拳を握り込む。
 (……もう、逃げない)

 マイナーでもいい。誰も知らなくてもいい。
 熱狂も、価値も、歴史も、全部俺たち自身で創り出せばいい。
 「……やってやる」
 翔が前を向く。瞳に、夕陽の炎が宿る。
 リクがニヤリと牙を見せて笑った。
 「あぁ――バモス!!」
 四人の声が、夕空へ突き抜ける。

 歓声。熱狂。そして、途方もない始まりの予感。
 閉ざされた青い檻の物語は、今ようやく、果てしない世界へと繋がった。

♢♢♢

【二か月前 校長室】

 西日が、校長室を血のように赤く染めていた。
 種木が、重厚なデスク越しに校長を真っ直ぐに見据える。
 「四年後――」
 その声には、普段の飄々とした軽さは一切なかった。
 「オリンピックで、パデルが正式種目になる。ほぼ確実です」

 校長は眉をわずかに上げた。
 「ほぼ、とは?」
 「世界の上の方では、もう動いています」

 校長は黙ったまま、種木の強い瞳を見返す。
 「だから今、育てなきゃいけない」
 種木の瞳に、狂気じみた情熱の炎が灯る。
 「日本が、アジアで――いや、世界で初めて」
 拳が、デスクの上で静かに握られた。
 「パデルで金メダルを獲る、その『第一世代』を」

 重い沈黙が降りた。
 やがて校長は、一枚の書類――パデルコート建設計画書に、静かにサインを書き込んだ。
 「……面白い」
 ゆっくりと顔を上げる。
 「乗ろうじゃないか、アミーゴ。その途方もない夢に」

 夕陽が、二人の大人の影を長く、どこまでも長く引き延ばしていた。

第7話「3つの理」


 夢の跡は、全身の軋みとなって残っていた。
 校内トーナメントから三日後の日曜日。

 蒼井翔は、自室のクローゼットの前で、ぼんやりと立ち尽くしていた。手には、着替えかけのパーカー。
 窓からは柔らかな朝日が差し込んでいる。けれど鏡の中の自分だけが、どこか現実から切り離された別人みたいに見えた。
 (……一週間前まで、ラケットなんか握ったこともなかったのに)

 視線が机へ落ちる。そこには、一通の封筒。
『アジア地区ジュニアパデル大会 日本代表選手 遠征資料』

 仰々しい文字が、現実感のない未来を突きつけてくる。
 二か月後、自分は中東へ行くらしい。日本代表として。
 (……そんなこと、あるのかよ)

 あの日、種木は鼻歌まじりに言ったのだ。
 「あ、翔くん。パスポートだけは早めに取っといてねー」
 あまりにも軽い声。けれど、その裏側に横たわる重さに、翔は数日間、押し潰されそうになっていた。

♢♢♢

 数日前、夕食の席で翔は味噌汁を啜りながら切り出した。
 「……あのさ。パスポート、取りたいんだけど」
 
 その瞬間だった。
 「はぁぁぁぁぁッ!?」
 母が、椀を持ったまま絶叫した。
 「ちょっと待って!? なんで!? どこ行くの!? 何したの、あんた!?」

 横から姉がスマホを置き、食卓へ身を乗り出してくる。
 「え、なに? 海外逃亡?」
 「違ぇよ!」

 翔はため息を吐きながら、種木から渡された資料をテーブルへ置いた。
数秒。二人の動きが止まる。
 紙面をなぞる目が、みるみる見開かれていった。
 「えぇぇぇぇぇぇぇぇッ!?」
 母の悲鳴が、リビングを揺らす。
 「中東!? サウジ!?」
 「え、待って、待って、このホテル五つ星じゃん! 何これ、詐欺!?」
 「翔が!? 代表!?」

 一瞬で食卓は大混乱に陥った。
 「いや、だからパデルっていうスポーツで……」
 「パデル!?」
 母と姉の声が見事に重なる。

 聞いたこともない単語に、リビングの時が一瞬だけ止まった。
 姉が猛烈な勢いでスマホをタップし、検索結果を読み上げた。
 「あ、これ見て。パデルって世界競技人口3500万人だって。150か国でやっている。……これ、日本が知らないだけじゃない?」

 小さなリビングが、台風のような熱気に包まれていく。
 翔は、その中心からそっと立ち上がった。
 「……俺、疲れたから寝る」
 背後から飛ぶ家族の声を聞き流し、自室へ逃げ込む。

 ドサリ、とベッドへ倒れ込んだ瞬間。身体の奥に沈んでいた疲労が、一気に噴き出した。
 「っ……」
 太ももの裏側、肩甲骨の周辺、脇腹。これまで使ったことのない筋肉が、パデルという競技によって無理やり目覚めさせられている。関節を動かすたび、鈍く鋭い痛みが走る。
 天井を見上げる。指先に、まだ感触が残っていた。
 カーボンラケットの硬質な振動。壁へ叩き込まれ、軌道を変えて戻ってくる黄色いボール。空間ごと戦う、あの異様な感覚。 それらが、自分の中の“空白”を強引に埋めていく。
 まるで、ずっと見つからなかったピースが、ようやく形を持ったみたいに。

 (……父さんは今、どこにいるんだろう)
 もし今の自分を見たら、どんな顔をするだろうと思った。

 その瞬間、長い間蓋をしていた記憶が浮上した。
 両親が離婚したのは、翔が八歳の時だった。それ以来、一度も会っていない。けれど、幼い頃の記憶だけは、妙に鮮明だった。

 父が出張土産として持ち帰ってきた、北欧のゲーム「モルック」。木のピンを倒し、ぴったり五十点を目指す競技。考えて投げるのが、たまらなく好きだった。

 「僕、日本で一番のモルック選手になる!」と叫んだ時、父は少し困ったように笑った。
 「それは難しいな、翔」
 優しく。でも、どこか寂しそうに。
 「これはマイナーだから。日本では大会が無いんだ」

 当時は意味が分からなかった。けれど、友達に話した時。
 「なにそれ?」
 「知らない」
 「それよりサッカーやろうぜ」
 言葉だけで、十分だった。気づけば、モルックには触れなくなっていた。
 “マイナーだから”。たったそれだけの理由で、好きだったものを、自分から手放した。去年、日本で大会がある事を知っても再開しなかった。

 部屋の静寂の中、翔はゆっくりと目を閉じる。
 リクの声が、耳の奥に残っている。

 『純パデラー第一世代に』

 マイナーであることを「理由」にして逃げるのは、もう終わりだ。
 それを証明するために、自分はあのアジアの熱砂へ向かう。痛む身体だけが、自分がもう昨日までとは違う場所に立っているのだと、不器用に証明し続けていた。

♢♢♢

 日曜日、午前十時。
 翔は住宅街の細い路地を抜けていた。
 (……マジか。こんな近くにあったのかよ)
 不意に視界が開け、鮮やかな「青」が目に飛び込んできた。
 パデル施設『UNO(ウノ)』。

 パンッ、とガラスを叩く乾いた音。
 キュッ、と人工芝を噛むシューズの音。
 住宅街の静寂の中に、心地よいリズムだけが響いている。

 「嘘だろ……」
 翔は思わず立ち止まった。視線の先で繰り広げられていたのは、戦場ではなかった。
 手前のコートでは、五十代くらいの男女が穏やかにラリーを続けている。
強烈なスマッシュも、怒号もない。ただ一球一球、会話を交わすようにボールを繋いでいた。

 「見て、翔! あの子たち、すっごく可愛い!」
 マイとカナの弾んだ声。

 別のコートでは、小学生の兄弟が両親を相手に夢中でボールを追っている。壁に当たって跳ね返る不規則なボールに、転んで、笑って、また追いかける。ミスをしても、誰も責めない。ただ次の一球を待つ笑顔があるだけだった。

 (……なんだよ、これ)
 翔は混乱していた。彼にとってパデルとは、肺を焼き、脚を痙攣させ、勝利を奪い合う格闘だったからだ。

 「世代を超えて、誰でも楽しめる。それがパデルの本来の姿だよ」
 いつの間にか、隣にリクが立っていた。
 「楽しむパデルと、競うパデル。どっちも本物だ」
 その二つが矛盾なく共存している事実に、翔の世界が音を立てて広がっていく。

 「おぉーい! 全員揃っているねぇ!」
 種木コーチが大きく手を振った。四人は屋内コートへ移動する。

 そこにいたのは、いつもの胡散臭い狸ではなかった。獲物を射抜くような鋭い視線を持つ、一人の指導者だった。
 「ここから先は、遊びじゃない。相手は全員パデル経験者になる」
 種木が指を一本立てた。
 「だから今日は、世界で戦うための“三つの理”を叩き込む」
 静まり返るコート。

 「まず一つ目。――“スピンのかかった球しか来ない”と思え」

 「え?」
 翔が思わず聞き返す。
 「でも、速いボールの方が強いんじゃ……」

 「それは外の競技の常識だ」
 種木が透明な壁をバチンと叩く。
 「パデルでは、速い直線的なボールほど返しやすい。なぜだか分かるか?」

 「……壁、ですよね」
 静かに答えたのはカナだった。
 「その通り。速くても、単純な軌道であれば、壁から正確に返ってくる。つまり相手に“次の攻撃機会”を献上しているだけなんだ」

 リクが横から補足した。
 「だから上級者ほど、スピードより“回転”を使う。」
 「壁に当たった後、伸びない球。跳ねない球。ズレる球」
 「速いだけの奴から、順番に食われる」
 翔は、冷たい汗を感じていた。
 (速いからこそ……反撃も速い)

 種木が二本目の指を立てる。
 「二つ目――“決めようとするな”

 「えっ?」
 マイが目を丸くした。
 「でも、決めないとポイントにならないんじゃ……」

 「その“決めたい”が、一番危ない」
 種木の声が低くなる。
 「パデルは“決めるスポーツ”じゃない。相手のミスを誘うスポーツだ」

 静かな言葉なのに、妙な重みがあった。
 「スマッシュを打った側より、返された後に『えっ』と足を止めた側が負ける。だからまずは返せ。泥臭く、しぶとく繋げ。」

 三人の表情が変わっていく。攻めるから、耐えるへ。競技そのものの見え方が変わり始めていた。

 「そして、最後の一つ、――“0.2秒で戻れ”
 種木が、静かに告げた。

 「0.2秒……?」
 「打ったら終わりじゃない。打った瞬間、もう次のボールは来ていると思え。」
 「リク、見せてやれ。アルマードだ」
 リクが構える。膝を軽く曲げ、つま先重心。ラケットは胸の前。一切の無駄を削ぎ落とした基本姿勢。

 「打った瞬間、この形へ戻る。コンマ数秒で準備を完了させるんだ」
 リクの短いシャドースイング。コンパクト。鋭い。無駄がない。

 種木が翔を指差した。
 「翔。ネット際でブロックされたら?」
 翔は、自分の失点シーンを思い出していた。至近距離。反応不能。
 「……間に合わない」
 「そうだ」
 種木は即答する。
 「だから常に、次の準備をしろ」

 翔の脳裏に、テニス部との試合が蘇る。
 強烈なスイング。だが、返された瞬間。相手は体勢を崩し、動けなくなっていた。勝負を分けていたのは、『打った後』だった。

 「スピン。つなぐ。戻る。この三つを骨まで染み込ませろ」
 屋内コートに沈黙が落ちた。翔たちは、自分たちの浅さを思い知らされていた。同時に、目の前には果てしない深淵が広がっている。

 「……はい!!」
 四人の声が、青い檻の中に共鳴した。

♢♢♢

 「次は実践だ。相手の脳と陣形を壊す『三つの毒』を教える」
 その言葉の響きに、四人の背筋がピンと伸びた。
 「これから先のレベルでは、嫌というほどロブを上げられる。特に、サーブライン付近」

 種木はサーブライン付近をラケットで軽く叩いた。
 「特に、この辺り。後ろに下がりながら処理しなきゃいけない、中途半端に高いボール。ここで対応を間違うと、あっという間に狩られる」

 「そこで、まずはこれだ。落ちてくるボールに対して『バンデッハ』
 種木が右手を空へ向け、見えないトレイを運ぶような独特のフォームでスライスを放った。
 「スマッシュじゃない。これは、ネット際の陣形を死守し、深い回転で相手のミスを誘うための布石だ。パデルでは『遅い球』こそが、最強の防御になる」

 「二つ目。壁を味方にする一撃、『バハーダ』」
 背後のガラスから高く跳ね返ったボールを、種木は振り向きざまに叩き潰した。
 「壁際から放つスマッシュだ。あえて相手にブロックさせ、その甘い返球を前衛で仕留める。パデルは二手、三手先を読んだ奴が勝つ」
 翔たちは、その合理的なまでの「罠」の仕組みに息を呑む。

 「最後は『クリスタルショット』。壁沿い数センチの死道を射抜く、精密なショットだ」

 種木がサイドのガラス壁スレスレに、吸い込まれるような直線を放った。 「人は本能的に斜めを狙いたがる。だからこそ、この真っ直ぐが、相手の脳をバグらせる」

 「……よし、御託はここまでだ。あとは身体で覚えろ!」

♢♢♢

 約一時間後。
 戦術の波に揉まれ、脳の処理限界に達しつつあった四人は、ふと我に返った。

 「あれ? ……種木コーチは?」
 翔がラケットを下ろして辺りを見回す。
 マイもきょろきょろと首を振った。
 「さっきまでいたよね?」
 「ほんとだ……」
 カナが不思議そうに呟く。その時だった。

 密閉された屋内コートの向こう。
 換気扇の奥から、ざわめきと共に妙な熱気が流れ込んでくる。
 「……なんか外、騒がしくないか?」
 翔が眉をひそめた瞬間、マイがぴたりと動きを止めた。
 「……っていうか」
 鼻をひくつかせる。
 「なんか、めちゃくちゃいい匂いしない?」
 「あ……」
 カナの目が丸くなる。
 「魚介と……ガーリック?」

 極度の集中と疲労で忘れていたが、そういえば朝食から何も口にしていない。 四人は抗えない本能に引き寄せられるように、匂いの源泉へと吸い寄せられていった。

 屋外コートへの扉を開けた瞬間。
 「な、なんだこれは……!」
 翔の視界に飛び込んできたのは、クラブハウスの脇に鎮座する巨大な鉄鍋だった。魚介とオリーブオイルの香り。焦げたニンニクの刺激。黄色く色づいた米から立ち昇る凄まじい熱気。
 スペイン名物、パエリア。どう見ても、スポーツ施設の光景じゃない。

 そして、その巨大鍋の中心で木べらを振り回している人物を見て、翔はさらに頭を抱えた。
 「はいはい、順番ねー!焦げ目が一番うまいから、底からしっかり取れよー!」

 頭にタオル。満面の笑み。完全に屋台の親父。
 ――間違いない。自分たちのコーチだった。
 「……またあの人かよ」
 翔のツッコミも虚しく、種木は完全にその場の中心人物として機能していた。

 大学生くらいの若者から、五十代近いベテランまで。年代も職業もバラバラな大人たちが、笑いながら皿を片手に談笑している。

 「おぉーい! 高校生たちもこっち来い! ちょうど炊き上がったぞー!」
 その大声に、群がっていた大人たちの視線が一斉に翔たちに突き刺さる。

 「えっ、高校生? 若っ!」
 「マジでJK、眩しいな!」
 「おじさん、急に緊張してきた」」

 一瞬で押し寄せる好奇と歓迎の熱量。翔は思わずたじろいだ。
 (……なんだこの距離感)

 「学校でパデルやっているの?」
 「すげぇな、時代変わったなぁ」
 「種木さんの教え子?」

 気さくに飛んでくる声に、翔たちはたじろぎながらも、なんとか愛想笑いで頷く。けれど、不思議と嫌じゃない。
 勝敗だけじゃない。年齢も関係ない。遊びと競技が、ごちゃ混ぜになっている。翔は、そんな空気に軽く目眩を覚えていた。

 和やかな交流。パエリアの湯気。
 だが、その緩んだ空気を、誰かのぽつりと零した一言が切り裂いた。

 「……ねえ、せっかくだしさ。『日本代表』と試合、してみる?」

 翔の鼓膜が、その言葉に過剰反応した。
 (日本代表……?)
 一瞬、自分たちのことだと理解した。
 (いや違う、“と”試合?)
 主語が逆だ。周囲は一気に盛り上がる。

 「いいね、それ!」
 「種木会長、いいでしょ? 1セットだけでいいからさ!」
 「男子と女子で分けよう!」

 悪ノリみたいな熱狂の中、種木は鍋の前でタオルを外し、ゆっくり眼鏡を押し上げた。その顔に浮かんでいたのは、いつもの胡散臭い笑みではない。
面白がっている顔だ。

 ニヤリ。
 「……いいんじゃない?」
 「せっかくだ。やってみなよ」
 その一言で、空気が完全に切り替わった。

 「よっしゃ!」
 「外コート空けろー!」
 「高校生、潰されんなよー!」

 翔の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てる。
 (……実戦?)
 しかも相手は、国際大会経験者。

 リクは静かにラケットを拾い上げた。
 マイとカナも、さっきまでの和やかな顔を引き締めていく。

 リクは手元のラケットを独楽のように回しながら、獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべていた。
 「いいじゃん。……『外の世界』ってやつ、拝ませてもらおうぜ」

 逃げ場はない。翔はじっとりと汗ばんだ掌でラケットを強く握り直した。胸の奥で、恐怖を上回る得体の知れない熱が、警鐘のように大きく脈打ち始めていた。

 その時だった。
 外コートでアップを続けていた四人の男女が、同時にピタリと手を止めた。談笑するでもなく、ただ静かに、値踏みするようにこちらを射抜く視線。
 彼らだけ、身に纏う空気の密度が明らかに違っていた。

 リクが目を細め、喉の奥で小さく呟く。
 「……なるほどな。そういうことか」
 「え?」
 「俺たちはあくまで『U-18』の代表だ。って、ことは……当然、その『上』のカテゴリーが存在する」
 リクの言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が一段階、ピンと張り詰めた。

 ギャラリーの一人が、わざとらしく芝居がかった声を張り上げる。
 「ジャーン! ご紹介しましょう!」
 周囲が一気に沸き立った。
 「今度のアジア大会に出場する男子A代表、桃瀬・カールソンペア!!

 彫りの深い顔立ちの長身。金色混じりの髪。無造作にラケットを掲げた男――カールソン。流暢な日本語で「よろしく」と言った。
 その声に、わずかに異国のリズムが混じっていた。

 その隣には、無駄な肉を削ぎ落としたようなしなやかな体躯の男、桃瀬。
 二人とも、ただ立っているだけなのに妙な圧があった。

 「そして女子A代表! 大塚・持田ペア!!

 マイとカナが、思わず息を呑む。
 大塚と呼ばれた女性は、赤いリップを浮かべて柔らかく笑った。
 「へぇ〜。現役女子高生なんだ?」
 隣の持田も肩を揺らす。
 「可愛いじゃん。怪我させないようにしなきゃね」
 周囲から笑いが起きる。

 大人の余裕。完全に、からかい半分の空気だった。

 カールソンが髪を掻き上げながら肩をすくめる。
 「高校生って聞いたけど、子供じゃん……?」
 その一言で、翔の胸の奥に何かが引っかかった。
 怖い。正直、かなり怖い。

 けれど同時に、別の感情がよぎる。
 (……待てよ)
 A代表。つまり、現時点の日本トップ。
 ということは――
 (この人たちに勝てば……)

 心臓が、ドクンと強く跳ねた。脳裏に蘇る。幼い頃の自分。
 『僕、日本で一番のモルック選手になる!』
 一度、手放した夢。マイナーだからと諦めた、日本一。
 (俺たちが正真正銘の『日本一』ってことじゃないか?)
 恐怖より先に、熱が来る。

 その横で、マイがげんなりした顔をしていた。
 「うわぁ……なんか面倒なことになった」
 「……パエリア食べたい」
 カナが真顔で呟く。

 「いやー」
 リクがニヤニヤしながら女子代表ペアを見た。
 「大人の女性って、やっぱ色気があって魅力的だなぁ」

――ゴスッ。
 鈍い音。次の瞬間、カナの肘がリクの脇腹に深々と突き刺さっていた。
 「ぐはっ……!ちょ、おま……肋骨……!」
 悶絶するリクの姿に、張り詰めていた緊張の糸が、ほんの少しだけ弛む。

 そして、その様子を満足そうに眺めていた種木が、パンッと大きく手を叩く。
 「さぁ!」
 レンズの奥の目が、残酷なほど愉悦に歪む。
 「特別試合――開始だ」

♢♢♢

……第8話へ続く!


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