写ルンです放置論― 再び不確かな写真へ ―
私は「自由に撮ってください」と書いた写ルンですを、街の中に置く。
そこにあるのは、明確な指示でも、完成像でもない。
ただ、誰かが手に取るかもしれないという可能性だけである。
1968年の『Provoke』において、中平卓馬らが行った自己解体は、
「写真を撮る主体としての私」を疑い、
視線や意図の不確かさを露呈させる行為だった。
彼らは、写真の解体を突き詰めることで、
作者という存在そのものを揺るがした。
本作もまた、その思考の延長線上にある。
しかし私が立っている場所は、
フィルム写真の時代ではなく、SNSが前提となった現在である。
現代において写真は、
自己を演出し、最適化し、承認を獲得するための装置となった。
SNSは「自分を見せる場所」であるという前提のもと、
写真は撮られる前から目的を与えられている。
SNSの普及とAI技術の到来によって、
現代写真は再び Provoke以前の状態へと逆行している ように見える。
私は、このような現代写真のあり方を、
外部から否定するのではなく、
その内側に潜り込むことによって解体したいと考えた。
自己を消すためにSNSを離れるのではなく、
あえてそこで、自己を成立させない写真を流通させる。
この企画では、
作者である私がシャッターを切らない。
誰が撮ったのかは重要ではなく、
撮影の技術や意図も問われない。
そこに写るのは、演出された自己ではなく、
偶然的に結ばれた人と人との関係である。
写ルンですというメディアは、
有限で、不可逆で、結果を即座に確認できない。
この制約は、撮影者に他者の存在を想像させる。
次に手にする誰か、
元の場所に戻すという行為、
そしてこの写真を見る見知らぬ人。
この作品における自己解体とは、
作者を消去することではない。
自己を街と他者に分配し、
写真を撮影者個人の表現から関係の場へと移行させることである。
よって写真はもはや、
自己の主張を示すための証明ではなく、
「誰と、どのように時間を共有したか」「そこに、かつて在ったこと」を再び示す痕跡となる。
私はこの写真群を、
結果としてのイメージではなく、
SNS時代において写真が再び関係を結びうるかを問う、
一つの実験として提示する。
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