でたらめな言葉の練習帳
昨日、おとついと、スマホから投稿した。今日はパソコンから書いてみる。
夜ごはんにポタージュを1杯飲んだ。最近あまり食べられていないけど、過食で食べ過ぎて後悔するよりはずっと気持ちが楽だ。
文章を綴ることを習慣化しておかないと、せっかくできた言葉たちをたくさん取りこぼしていく。思考しては沈み、また思考して浮き上がってきた言葉は、そこですくいあげていかなければ何も残らない。書けなくなった私はその「言葉を浮き上がらせる方法」がよくわからなくなってきた。
今も頭を搔きながら絞り出すようにこれを書いているけれど、私が「書けている」と認識できるのはもっと、自然に、もっと呼吸のように言葉が溢れてくる状態のことで、今の私はやっぱりまだ書けていない状態だと思う。
ああ、何を書こう。
こんなでたらめな言葉の練習帳なんて誰か読んでいるのだろうか。高校生の時から私がネットに向けて文章を書くときいつも「読者」という存在がいた。それはファンという名になったり、アンチという名になったりさまざまで、好意か、嫌悪か、憎悪か。なんだかわからないけど私の文章を読む人 というひとが必ず1人はいた。
そのまま20年ほど経ち、そのスタイルはずっと変わらず誰かが読んでくれていて、私は誰かに読まれているという、適度な緊張感を少し持ち合わせながら、言葉を綴っていく。それが私の昔からの当たり前で、日常。たまに誰も観ていないところで文章を書くこともあるのだけど、「読者」がいるといないとでは、張り合いがないしなんだか物足りなくなって、そんな時は高校の頃の後輩であり、私の追っかけのような子がいてその子にだけはこっそりその場所を教える。
その子たったひとりの読者のために私は発信をする。それだけで私は書く気が出るし、見られている緊張感も心地いい。
彼女も、私の日常を観ることがあまりにも自然に生活に溶け込んでいて、私が発信の場を教えるといつも「助かる」と言う。読者と書き手がなぜか助け合いという形になる、不思議な関係をもうかれこれ何年もしていて、それがこの先も続いていくのだと容易に想像がつく。
そう思うと、私の言葉は私だけのものじゃなくて、誰かに見せるために、伝えるためにいつも存在していて、そしてそれが自己表現にもなっているのか。ただこの文章とかは誰が読んでいるのか、読む人がいるのか全く分からない。読者がいないって私には特殊で普通じゃなくて、だから少し心細かったり不安になったりして、でもそれでも書こうと奮闘するのは、やっぱりただ単純に私は文章を書くことが好きなんだろう。
今日は思考がめぐるまま書いてみた。1日目より少し元気が出てきているような。
今日の嬉しかったこと
ポタージュがおいしかった。研究会がとても楽しかった。
それでは。
山口葵
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