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本音は難しい

本音を喋ろうとすると涙が出て来てしまう。いや、本音というより、自分の核心的な部分を話そうとすると涙が出る。

僕は我慢をしてしまう。自分の発言や行動によって誰かを傷つけることを常に恐れている。そしてもっと言えば誰かを傷つけたことによって自分が傷つくことを恐れている、のだと思う。

だから、もしかしたら流してしまう涙は自分の核心的な部分をそれ以上見せないためのベールなのかもしれない。


だけど、我慢によって人生はあらぬ方に行ってしまうことがしばしばある。


この我慢の癖は、おそらく教育の賜物ではないかと思っている。


小さい頃から、父の「男らしさ教育」的なものを少しずつ受けてきた結果、仕事で疲れているときに疲れたと言えば「みんな疲れてる、お前だけじゃない」という声が聞こえ、暑い寒いといえば同じく「お前だけじゃない」の声が聞こえ、腰が痛いときも「こういう仕事はみんなどっかしら痛めてる」の声が聞こえる。


いちいち当たり前のことを言って人をイラつかせてはならない、という意識がどっかにあるのだ。


こないだも仕事中に「ゆさくは全く疲れた顔しないよね、涼しい顔してる」と言われてしまったが、本当はめちゃくちゃ疲れていた。しかし、疲れた素ぶりを見せないように体が自然とそうなっていた。


こんな感じだから、お前が本当に好き勝手にやりたいこと、自由に生きろと言われても困ってしまう。今あるものを全て振り払えと言われても、戸惑ってしまう。

僕の本音なんかより、みんなが幸せでいてくれた方がいいのだ。どんなに苦しかろうが、誰かが傷つき、悲しみ、苦しむことに比べたら、なんてことないのだ。


しかし、主張しないと、ほよよんと人生の地図上でどこにいるのか分からなくてなってしまう。どこに行きたいのか、どこから来たのか。


主張しないことは現状を肯定するのに等しい。結局は、逃げているだけではないか?現状に心地よさを覚えているのではないか?


僕はたまに透明になってしまいたいと思うこともある。自分という姿は見せずに、困っている人や苦しい思いをしている人に手を差し伸べたいと思ったりする。

みんな幸せになったなら、僕はそこから風のように去っていく。誰も僕がいたことなどわからない。でも、それでいいのだ。これでいいのだ。


なんだか、自分が誰かを助ける立場であるというヒーローみたいな傲慢さを披露してしまったが、割とそういう精神性があるのだ。これは、教育なのか、洗脳なのか、はたまた僕の意思なのか。


いつかは自分の生きたい道を堂々と表現できたらな、とうっすら思っている。ほんとにうっすらと、うっすら透明な、まだ見えない意思が僕の中にある。

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