【掌編小説】暗闇のトンネルを抜けて、私は私の空を飛ぶ
「お前、俺と結婚できて幸せだろ?な?幸せだよなぁ」
得意気な顔で饒舌に語る夫は
「原田さんなんてな、奥さんをスナックで働かせてるんだぞ。お前はそんなことさせられなくて良かったよなぁ」
と続けた。
(は?待て待て、何を言ってる?比べるレベルが低すぎではないか?)
困惑して紀子は返事を濁した。
「う、うん。まぁ…」
返事の違和感にも気づかず上機嫌で、雅人はさっさと先をゆく。
紀子は呆れた。
自分が散歩に誘ったクセに、言うだけ言ったら満足して紀子を置いてゆく。
夜道の暗がりで紀子が足を止めても、振り返りもせず、早足で歩き続ける夫の背中を紀子は恨めしく見つめた。
姑の仕打ちにも耐え、雅人のわがままにも合わせてきたのに、なんにもわかっちゃいない。紀子の努力も知らない、不満も気づかない男なのだ。
(私は愛されているのだろうか。なんのために尽くしてきたのだろう。)
そんな疑問が紀子の心で膨れ上がってくる。
これまで正面から聞いたことはなかったが、雅人に聞いてみようと思った。
「どうして私と結婚しようと思ったの?」
子供たちが寝室に行ったあと、2人きりの時なら、照れずに愛してるからだと言ってくれるはず。
「そりゃあ、お前、家を建てたしな。親と住めるしさ」
(え?それが答えなの?)
冗談のつもりだったとしても、紀子には通用しなかった。
「それ、どういうこと?」
堰を切ったように紀子の不満が溢れ出して止まらない。
雅人も興奮して言い返してくる。
「お前こそ、俺の親の不満ばかり言ってただろ!俺の親ならお前の親だ!大事にしろよ!」
紀子は、自分の気持ちを受け止めてくれると期待して本音をぶつけたのに、雅人は恐ろしいほどの勢いで跳ね返してくる。
ふざけた答えなど笑い飛ばせれば良かったけれど、紀子は自分の思いをぶつけずには居られなかった。
ただでさえ、雅人のガッツリした体格と大きな声は威圧感がある。こんなに怒鳴られるとは思っていなかったから、衝撃と恐怖で頭が真っ白になった。
その時から紀子は絶望して、体が全く動かなくなった。
鬱病を発症していた。
投薬とカウンセリングで治療を始めても、真っ暗闇の出口のないトンネルを這いつくばる感覚から抜け出せない。
探しても探しても出口が見えない。ひとすじの光さえ見えない。
食事は砂を噛むようで味がしない。テレビを見ても何も面白くない。笑うことを忘れ、風呂も入らず、ただ横たわり天井を見つめるだけの日々はいつ終わるのかわからない。
そんな中で、紀子を支えたのは、心の奥底の底の底の底で、ほんの一粒ほどの隙間に居座り続けた1つの問い。
治るか治らないかではない。
どうやって治っていくのだろうという問いだけだった。
なぜそう思うのかわからないが、治ることが前提となっているこの問いかけが、灰の中に隠れた仄赤い熱のように消えずにいた。
その問いかけの答えを知るように、長い年月を掛けて鬱病を克服できたあと、紀子は羽根を広げて飛び立つことを決めたのだった。
紀子は、昔、雅人の上司に呼び出され、雅人と3人でお酒を飲んだとき、上司から言われた言葉を思い出した。
「雅人君、君、大事にしないとこの人は何処かへ行っちゃうぞ。この人は目を離したら飛んで行ってしまう人だよ。ちゃんと見てないとだめだぞ」
その時は、まだ離婚することなど夢にも思わない紀子だったのに、なぜか
「なんでわかるのだろう。その通りだわ。雅人、よく覚えておきなさいよ」
心の中で、そう呟き、雅人に視線を向けたが、雅人は気づかない。上司の忠告にもヘラヘラ笑う雅人を見て、気にも留めていないのだと思った。
あれから10年、雅人の上司の予言通り、紀子は飛ぶことを選択した。もう、どこにでも好きな所へ飛んでいける。
まるでサナギのように身動き取れずにいた、その長い間に、紀子の背中には羽ばたくための美しい羽根が育っていた。
今、サナギから羽根を広げて飛びたつ時が来たのだ。
見上げれば、あの日、雅人と散歩した夜は明け、天高く青い空が紀子を励ますように果てしなく澄み渡っていた。
── 完 ──
※この物語は、著者の実体験をベースに再構成した、一話完結のフィクション小説(掌編)です。
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