今は昔、ゼルダの伝説といふものありけり

今は昔。昭和の末の頃、世に『ファミリーコンピュータ』という遊びの器ありけり。

その傍らに黄色き札のごとき物を差し入れて遊ぶ『ディスクシステム』といふものもありて、世の子供ら、これを珍しきものとして心待ちにしたり。

その中に『ゼルダの伝説』といふ遊びありけり。

始まりの地にて見知らぬ翁より賜った剣を手にし、盾を持ち、見知らぬ山野を駆け回り、洞穴の中は神殿と呼ばれ、怪しきものどもと戦ひ、いつ果つるとも知れぬ旅を続けるものなり。

今となりては画面も小さく、音も耳元にいやーほんなるものさしたりて、聞こふるその音現世と変わることなし。

今の遊びと比ぶれば、まことに簡素なるものなれど、その頃のわれらには、あの画面の向こうに果てなき世界あるがごとく思はれたり。

草原に出づれば何処へ行くべきかもよくわからず。
洞穴を見つければ何があるのかも知れず。
壁を爆ぜれば思ひもよらぬ穴の現るることもあり。

翁より
「スキナホウヲ サズケヨウ」
などと言われれば、何やら大いなる間違い犯しリセットし
獣人より
「ミンナニハナイショダヨ」
と言われれば、大いなる施しを授けられたる心地ぞしたりける。

今で言ふ攻略の動画もなし。
解らぬことあれば友に聞き、蔵書を読みけり。それでもわからぬ時は自ら歩き回るほかなかりけり。

されど、それが楽しかりけり。

知らぬ場所へ進む怖さと、何かを見つける喜びとが同じ画面の中にありたり。
あの頃、われらはゲームを『攻略』していたのではなく、ほんとうに『冒険』していたのやもしれぬ。

それより四十年の月日流れぬ。
世は変わりたり。
ゲームの画面は美しくなり、広き世界を自由に駆け巡り、山に登り、空を飛び、遠き景色まで見渡せるようになりぬ。
人々はインターネットにて同じ遊びを語り合ひ、ゆーちゅーぶなるものにて人の冒険を眺め、Xたるものにて新しき知らせに沸き立つ。

そして今日。

『ゼルダの伝説、四十周年』と聞きて、多くの人また心おどらされたり。
若き人は新しきゼルダを語り
昔を知るものは、初めて剣を持ちし日の事を思ひ出す。
不思議なるものかな。
四十年前、ひとり小さき画面の前に座りて遊びしものが、今なお多くの人の心を動かしている。

しかもただ昔の名作として残りたるにあらず。
時代ごとに姿を変へながら、その時代の童たちに『初めての冒険』を与へ続けているのである。

思へば、ゼルダの伝説とは、物語そのものが受け継がれてきたのではないのかもしれぬ。

『知らぬ世界へ一歩踏み出す楽しさ』

これこそが、四十年の間、変はらず受け継がれてきたものなのだろう。われらがディスクシステムの画面に感じた広き世界と、今の子どもらが最新のハイラルに感じる広き世界とは、見た目こそ大きく違へども、心の内に起こるものは案外同じなのかもしれない。

初めて見つけた洞穴。
初めて倒した敵。
初めて見つけた道具。
行ってはいけないような場所へ、少しだけ足を踏み入れてみたくなる気持ち。
その一つ一つが、いつしか記憶となる。

そして四十年後、何かの知らせを目にしただけで、突然よみがえる。

あの日の画面。
あの音。
あの部屋。
あの頃の自分。

ゲームの記憶というものは、不思議なものだ。遊んでいた時間そのものだけでなく、その時代の空気まで一緒に閉じ込めている。

今日、ゼルダの伝説が大きな話題となっているのを見て、四十年前、ディスクシステムで初めて遊んだ頃のことを、まるで昨日のことのように思ひ出した。

四十年とは、長き年月なり。されど、記憶の中では一瞬なり。

かつて剣を持ち、名も知らぬ土地へ踏み出した少年も、今ではずいぶん歳を重ねたり。それでも、「ゼルダ」と聞けば、心のどこかでまた冒険の始まる音がする。

今は昔、ゼルダの伝説といふものありけり。――と言ひたいところなれど、どうやらこれは、昔話にはまだ早いらしい。

ゼルダの伝説は、今もなお続いている。

そしておそらく、これから初めて剣を取る誰かにとっては今日こそが、「今は昔」と語られる最初の日になるのであろう。

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