《アルビノーニのアダージョ》を、アルビノーニは本当に書いたのか?

静かに下降する低音。

その上から、弦楽器の旋律が、まるで深い悲しみを抱えるように歌い始めます。

《アルビノーニのアダージョ》。

クラシック音楽に詳しくなくても、一度は耳にしたことがあるかもしれません。

映画やテレビ、追悼の場面などでも使われてきた、バロック音楽を代表するような名曲です。

ところが、この曲には奇妙な問題があります。

「アルビノーニのアダージョ」と呼ばれているのに、アルビノーニがこの曲を書いたとは言い切れないのです。

それどころか、私たちが現在聴いている曲の大部分を書いたのは、アルビノーニの死から約160年後に生まれた人物でした。

では、この美しいアダージョは、いったい誰の作品なのでしょうか。

アルビノーニは18世紀の作曲家だった

トマゾ・アルビノーニは1671年、ヴェネツィアに生まれました。

ヴィヴァルディとほぼ同じ時代を生きた、バロック時代の作曲家です。

オペラをはじめ、協奏曲や器楽曲を数多く作曲しました。

ところが、今日もっとも有名な「アルビノーニの作品は?」と聞かれれば、おそらく多くの人が《アダージョ ト短調》を挙げるでしょう。

皮肉なことに、この「代表作」こそが、アルビノーニ自身の作品なのか疑問視されている曲なのです。

物語の鍵を握るのは、アルビノーニではありません。

20世紀のイタリアの音楽学者、

レモ・ジャゾット(1910―1998)

という人物です。

戦争で失われた「楽譜の断片」

ジャゾットはアルビノーニを研究し、1945年にはアルビノーニに関する著作を出版していました。

そして第二次世界大戦後、彼はある興味深い話を明らかにします。

ドイツのドレスデンにあったザクセン州立図書館に関係する資料の中から、アルビノーニが書いたとされる楽譜の断片を入手したというのです。

ドレスデンは1945年、大規模な空襲を受けました。

街は甚大な被害を受け、図書館の建物も破壊されています。

そんな戦争の廃墟から、失われたアルビノーニの音楽の一部がよみがえった。

まるで映画のような話です。

ジャゾットによれば、残されていたのは完成された曲ではありませんでした。

低音部や数字付き低音、そしてごくわずかな旋律の断片。

彼は、それがアルビノーニの失われたソナタの一部ではないかと考え、それをもとに一つの作品へと「復元」したとされます。

それが、現在私たちが知っている

《アダージョ ト短調》

でした。

ところが「元の楽譜」が見つからない

ここから話がおかしくなってきます。

ジャゾットがアダージョを作る際に使ったという、肝心のアルビノーニの原資料そのものが確認できないのです。

ジャゾットは1958年、この作品を出版しました。

正式なタイトルも興味深いものでした。

おおよその意味は、

「アルビノーニの二つの主題と数字付き低音に基づく、弦楽とオルガンのためのト短調のアダージョ」

というものです。

つまり当初から、

「アルビノーニの完成作品を発見した」

という形ではなく、

「アルビノーニの素材をもとにジャゾットが作り上げた作品」

という性格を持っていました。

問題は、その「素材」がどこまでアルビノーニのものだったのかです。

元になったとされる断片は公に提示されず、ドレスデンの図書館にも、その原資料が所蔵されていたことを明確に証明する記録が確認できないとされてきました。

すると、当然こんな疑問が生まれます。

本当にアルビノーニの断片は存在したのだろうか?

もしかすると、ほとんど全部ジャゾットが書いた?

現在では、少なくとも私たちが耳にする《アダージョ》の大部分は、ジャゾットによって作曲されたものと考えるのが一般的です。

つまり、

アルビノーニ作曲 → ジャゾット編曲

という単純な関係ではありません。

むしろ、

ジャゾット作曲――ただしアルビノーニの断片を素材にした可能性がある

と考えたほうが実態に近いでしょう。

そして、さらに面白いことがあります。

ジャゾットの死後、彼の関係資料から、数字付き低音とヴァイオリンの数小節を含む資料が見つかったとも報告されています。

そこにはドレスデン由来を示す印があったとされます。

もしこれがジャゾットの主張を裏付けるものなら、彼がすべてを完全にでっち上げた、と簡単に片づけることもできません。

ただし、それでも現在演奏されている壮大なアダージョそのものがアルビノーニによって書かれた、という証拠にはなりません。

残されたわずかな素材から、あの長い旋律、和声、構成を作り上げたのは、基本的にはジャゾットだからです。

なぜ私たちは「バロック音楽」だと思ってしまうのか

ここでもう一度、《アダージョ》を聴いてみると面白いかもしれません。

低音がゆっくりと進み、その上に弦楽器が悲痛な旋律を歌う。

オルガンが響きを支え、音楽全体に教会音楽のような荘厳さが漂っています。

確かに「昔の音楽」に聞こえます。

けれど、この作品が出版されたのは1958年。

モーツァルトどころか、マーラーやラフマニノフよりもずっと後です。

エルヴィス・プレスリーが活躍し、ロックンロールが世界を席巻していた時代に世に出た作品なのです。

そう考えてから聴くと、不思議な感覚になります。

これは18世紀から奇跡的に生き残った音楽というより、

20世紀の人間が思い描いた「失われたバロックの悲しみ」

なのかもしれません。

だからこそ、私たちの心にこれほど直接届くのでしょうか。

「誰が書いたか」で音楽の価値は変わるのか

そして、この曲にはもう一つ面白い問いがあります。

もし昨日まで、

「アルビノーニが300年前に書いた名曲」

と思って感動していた人が、

今日、

「実は20世紀のジャゾットがほとんど書いた曲です」

と知ったら、その感動は変わるのでしょうか。

音は何も変わっていません。

弦楽器の旋律も、低音の歩みも、最後に残される静けさも同じです。

変わったのは、私たちが知っている物語だけです。

それでも作品の印象が少し変わってしまう。

音楽を聴くということは、音だけを聴くことではないのかもしれません。

作曲家の人生。

生まれた時代。

作品が書かれた背景。

そうした物語まで含めて、私たちは音楽を聴いています。

それでも《アルビノーニのアダージョ》は残った

結局のところ、

「アルビノーニは《アルビノーニのアダージョ》を書いたのか?」

という問いへの答えは、

少なくとも、現在私たちが聴いている形の曲をアルビノーニが書いたわけではない

となります。

中心となる作者はレモ・ジャゾットです。

ただし、その出発点に本当にアルビノーニの断片があったのかという部分には、今なお完全には割り切れないところが残っています。

けれど、不思議なものです。

作者をめぐる物語が揺らいでも、この曲そのものは消えませんでした。

むしろ、

「いったい誰の音楽なのか?」

という謎まで抱えて、今も世界中で演奏されています。

アルビノーニが書いたのか。

ジャゾットが書いたのか。

あるいは、失われた数小節を二つの時代の人間がつないで生まれた作品なのか。

次に《アダージョ》を聴くとき、その深い悲しみの向こう側に、もう一つの物語が聞こえてくるかもしれません。

300年前の作曲家の名前を持ちながら、20世紀に生まれた名曲。

それもまた、《アルビノーニのアダージョ》が持つ不思議な魅力なのだと思います。

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