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あのドビュッシーも予選敗退した――天才がローマ大賞をつかむまで

「月の光」「亜麻色の髪の乙女」「海」。

今ではクラシック音楽の歴史を変えた作曲家として知られる、クロード・ドビュッシー。

その名前を聞いて、「才能がなかった」と考える人はほとんどいないでしょう。

ところが若き日のドビュッシーは、フランス最高峰の作曲コンクール「ローマ大賞」に挑戦し、最初から優勝したわけではありません。

1882年――最終的な大賞争いには残れず。
1883年――第2等賞。
1884年――ついにローマ大賞。

後世から見れば「天才」と呼ばれる作曲家も、若いころから誰もがその才能を理解していたわけではなかったのです。

しかし、この話にはさらに面白い続きがあります。

ドビュッシーは単に「失敗を乗り越えて成功した」のではありません。

彼が後に音楽史を変えることになる「新しさ」こそ、当時の音楽教育や審査の世界とは、決して相性のいいものではなかったのです。

フランスの若手作曲家が憧れた「ローマ大賞」

19世紀フランスの若い芸術家にとって、「ローマ大賞(Prix de Rome)」は非常に大きな意味を持っていました。

音楽だけでなく、絵画や彫刻、建築などの分野でも行われていた権威あるコンクールです。

音楽部門では、課題に沿ってフーガや合唱曲、さらにカンタータなどを作曲し、その能力を競いました。

大賞を受賞すれば、ローマのヴィラ・メディチにあるフランス・アカデミーへ留学する道が開かれます。

つまり若い作曲家にとっては、

「フランス音楽界から正式に認められる」

と言ってもいいほどの栄誉でした。

ドビュッシーも、そのローマ大賞を目指します。

1882年――最初の挑戦では届かなかった

1882年。

まだ20歳になる前のドビュッシーは、ローマ大賞への挑戦を始めます。

この年の試験で、彼はラマルティーヌの詩による男声合唱と管弦楽のための《Invocation》を書きました。

フランス国立図書館の解説によれば、この試験での順位は4位。

しかし、ローマ大賞を争う最終段階へ進むことはできませんでした。

今の私たちは、後のドビュッシーを知っています。

それだけに不思議な感じがします。

「あのドビュッシーが、通らなかったの?」

しかし当時の審査員にしてみれば、目の前にいるのは「未来の大作曲家」ではありません。

まだ実績のない、一人の若い音楽院生です。

しかもドビュッシーは、すでに学生時代から少し変わった存在でした。

彼の音楽には、音楽院で教えられる伝統的な理論だけでは説明しにくい響きが現れ始めていたのです。

作曲の教師エルネスト・ギローも、ドビュッシーの音楽について、響きそのものの魅力を認めながら、理論上は説明できないという趣旨の指摘をしていました。

それに対してドビュッシーは、理論よりも「耳で聴いたときの美しさ」を重視する姿勢を見せます。

後のドビュッシーを考えれば、実に彼らしい話です。

しかし、自由な発想とコンクールで勝つ能力は、必ずしも同じではありません。

1883年――今度は第2等賞

翌1883年。

ドビュッシーは再び挑戦します。

今度は予備試験を突破。

本選で書いたのが、カンタータ《剣闘士(Le Gladiateur)》でした。

結果は――

第2等賞。

前年から大きく前進しました。

しかし、第1等賞には届きません。

この年の第1等賞を受賞したのは、ポール・ヴィダルという作曲家でした。

少し皮肉な話です。

現在、世界中で演奏されているのは圧倒的にドビュッシーの作品でしょう。

しかし1883年の審査会では、ドビュッシーは「一番」ではなかったのです。

音楽史の評価と、その瞬間のコンクールの評価。

この二つが必ずしも一致しないことを、この結果は教えてくれます。

1884年――三度目の挑戦

そして1884年。

ドビュッシーは再びローマ大賞に挑みます。

本選の課題として作曲したのが、

《放蕩息子(L'Enfant prodigue)》

でした。

聖書の「放蕩息子」の物語を題材にしたカンタータです。

そしてついに――

ローマ大賞を受賞。

フランス国立図書館に残る楽譜にも、「Premier grand Prix de Rome(ローマ大賞第1位)」とはっきり記されています。

1882年には届かなかった。

1883年には第2等賞。

そして1884年、ようやく頂点に立ったのです。

普通なら、ここで物語はハッピーエンドでしょう。

「努力を続けた天才が、ついに認められた」。

ところが、ドビュッシーの場合は少し違います。

大賞を取ったのに、素直には喜べなかった

後年、ドビュッシーはローマ大賞を受賞した瞬間について振り返っています。

喜びと同時に、これから「公式な肩書き」がもたらす面倒や束縛を感じ、自分が自由ではなくなったように思った――という趣旨の言葉を残しています。

なんともドビュッシーらしい反応です。

あれほど欲しかったはずの賞。

ようやく手に入れた最高の栄誉。

ところが、その瞬間に彼が感じたのは、単純な達成感だけではありませんでした。

そして、この予感はやがて現実になります。

ローマ留学中、ドビュッシーは作品をパリのアカデミーへ提出しなければなりませんでした。

しかし彼が次第に自分らしい音楽へ向かっていくと、アカデミー側はその新しさに戸惑います。

彼の作品について、「奇妙なもの」「理解しにくいもの」を追い求めているという趣旨の批判まで受けるようになります。

つまり――

コンクールに合格したからといって、ドビュッシーの音楽そのものが理解されたわけではなかったのです。

「評価される音楽」と「自分にしか書けない音楽」

ここが、このエピソードで最も興味深いところではないでしょうか。

もしドビュッシーが、

「先生に褒められる音楽」

「審査員が安心して評価できる音楽」

だけを書き続けていたら、どうなっていたでしょう。

もしかすると、優秀な作曲家にはなったかもしれません。

しかし、

《牧神の午後への前奏曲》
《海》
《月の光》

といった、私たちが知っている「ドビュッシーの音楽」は生まれなかったかもしれません。

彼は伝統的な和声や形式から少しずつ離れ、「音そのものの色彩」や「響き」を重視する独自の世界へ進んでいきます。

そして、かつて「変わっている」と受け取られた感覚こそが、後に音楽史を変えることになります。

天才だから、最初から一番だったわけではない

ドビュッシーのローマ大賞への道を並べてみると、とても人間的です。

1882年――届かない。
1883年――第2等賞。
1884年――ついに大賞。

しかし、本当の物語はその先にありました。

最高の賞を手に入れても、彼はそこで「正解」とされた音楽の中に留まらなかった。

むしろ、そこから離れていったからこそ、私たちが知るドビュッシーになったのです。

コンクールは、その時代の基準によって才能を評価します。

けれども、歴史を変える人は、ときにその「基準そのもの」を変えてしまいます。

1882年。

ローマ大賞を目指す一人の青年が、最終的な争いに残れませんでした。

当時、その青年が後にクラシック音楽の響きを変えてしまうなど、いったい何人が想像したでしょう。

評価されなかったことが、才能がない証明になるとは限らない。

ドビュッシーの若き日の挫折は、140年以上たった今でも、そんなことを静かに教えてくれているように思います。

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