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56歳。結婚記念日の夜、夫から「来年から別々に暮らさないか」と言われた。

結婚して、

三十二年。

その日は、

私たちの結婚記念日だった。

特別なことをする夫婦ではない。

二十代のころは、

レストランを予約したこともあった。

花をもらったこともある。

でも、

子どもが生まれて、

住宅ローンが始まって、

両親の介護があって。

いつの間にか、

結婚記念日は、

カレンダーの中にあるだけの日になった。

それでも今年は、

少し違った。

夫が言ったのだ。

「今日、外で食べない?」

珍しい。

本当に、

珍しかった。

だから私は、

少し嬉しかった。



駅前の、

小さなイタリア料理店。

夫はビール。

私は白ワイン。

「三十二年か」

夫が言った。

「長かったね」

「長かったな」

「よく続いたね」

私が笑うと、

夫も笑った。

「お互いにな」

料理が来た。

昔の話をした。

新婚旅行。

長男が生まれた日。

娘の反抗期。

家を買ったとき。

お金がなくて、

二人でスーパーの半額弁当を食べたこと。

「いろいろあったね」

私は言った。

「そうだな」

夫は、

グラスのビールを飲んだ。

そして、

少し黙った。

何か言いたそうだった。

私は、

すぐにわかった。

三十二年も一緒にいれば、

それくらいはわかる。

「何?」

「ん?」

「何かあるでしょ」

夫は、

しばらくグラスを見ていた。

そして言った。

「来年からさ」

「うん」

「別々に暮らさないか」

私は、

夫の言葉の意味が、

すぐには理解できなかった。



「……別々?」

「うん」

「どういうこと?」

夫は答えなかった。

「離婚したいの?」

「違う」

「じゃあ何?」

「別居」

「同じじゃない」

「違うよ」

「何が違うの?」

声が、

少し大きくなった。

隣の席の女性が、

こちらを見た。

私は声を落とした。

「誰かいるの?」

夫が、

驚いた顔をした。

「いないよ」

「本当に?」

「いない」

「じゃあ、どうして?」

夫は、

ゆっくり息を吐いた。

「一人で暮らしてみたい」

その言葉は、

「好きな人がいる」

と言われるより、

なぜか傷ついた。



家に帰るまで、

ほとんど話さなかった。

せっかくの結婚記念日。

私は、

新しいブラウスを着ていた。

夫は、

珍しくジャケットを着ていた。

三十二年を祝う夜だと思っていた。

でも夫は、

三十二年の最後を、

相談したかったのかもしれない。

家に着く。

私は、

すぐに聞いた。

「いつから考えてたの?」

「一年くらい前」

一年。

私は、

何も知らなかった。

「理由は?」

夫は、

しばらく考えていた。

「このまま定年になったら」

「うん」

「毎日ずっと一緒だろ」

夫は五十八歳。

あと二年で定年。

「それが嫌なの?」

「嫌というか……」

「何?」

「怖い」

私は、

思わず笑った。

「私と一緒にいるのが?」

「違う」

「じゃあ何が怖いの」

夫は言った。

「俺が、俺じゃなくなる気がする」



意味がわからなかった。

「どういうこと?」

夫は、

ソファに座った。

「会社を辞めたら、俺には何が残るんだろうって」

「家族が残るじゃない」

「そうなんだけど」

「私もいる」

「うん」

「それじゃ駄目なの?」

夫は、

黙った。

その沈黙が、

また私を傷つけた。

「私は足りないんだ」

「そうじゃない」

「じゃあ何?」

夫は、

頭を掻いた。

「自分で何がしたいのか、一回考えたいんだよ」

私は言った。

「それなら、ここで考えればいいじゃない」

「ここだと」

夫は、

一度言葉を止めた。

「夫でいるから」

私は、

何も言えなかった。



その夜。

夫はリビング。

私は寝室。

眠れなかった。

腹が立った。

悲しかった。

そして、

少しだけ怖かった。

夫がいない生活。

三十二年間、

考えたことがなかった。

夫が会社へ行く。

私は仕事と家事。

夕方、

買い物。

夕飯。

夫が帰る。

休日は、

たまに二人で出かける。

それが、

私の生活だった。

でも、

夫はその生活から、

一度出てみたいと言った。

私は、

裏切られたような気がした。



翌朝。

夫は、

いつも通りコーヒーを飲んでいた。

「昨日の話」

私が言った。

「うん」

「もう決めてるの?」

「まだ」

「どこに住むの?」

「まだ決めてない」

「期間は?」

「一年くらい」

「一年?」

「うん」

「その間、私は?」

夫が、

私を見た。

「今まで通りでいいんじゃない?」

その瞬間。

私は、

カップを置いた。

「今まで通り?」

「仕事もあるし」

「あなたは新しい生活を始める」

「うん」

「私は今まで通り?」

「……」

「ずいぶん勝手だね」

夫は、

何も言わなかった。



私は、

その日ずっと、

その言葉を考えた。

私は今まで通り。

夫だけが、

人生を考え直す。

夫だけが、

新しい場所で暮らす。

夫だけが、

自分を探す。

じゃあ私は?

私は、

夫が帰ってくる家を守る人?

一年間、

待つ人?

そのとき、

初めて気づいた。

私は夫の提案に怒っていたのではない。

夫だけが自分の人生を選ぼうとしていることに、腹が立っていた。



三日後。

私は、

昔の友人に会った。

大学時代の友人、

真理子。

半年ぶりだった。

「別居?」

真理子は、

ケーキを食べる手を止めた。

「うん」

「女じゃないの?」

「たぶん違う」

「じゃあ何?」

「自分探しだって」

真理子は、

しばらく黙った。

そして笑った。

「五十八歳で?」

「笑うでしょ」

「いや」

真理子は言った。

「ちょっと羨ましい」

私は驚いた。

「何が?」

「自分探し」

「は?」

「私たちって、いつ自分探した?」

私は、

答えられなかった。



大学を卒業。

就職。

結婚。

出産。

子育て。

パート。

親の介護。

気づけば五十六歳。

私は、

いつ、

自分のことだけを考えただろう。

「由美は何したいの?」

真理子に聞かれた。

「何って?」

「旦那さんじゃなくて」

「うん」

「子どもでもなくて」

「うん」

「由美自身」

私は、

何も浮かばなかった。

それが、

少し怖かった。



家に帰る。

夫はまだ帰っていなかった。

冷蔵庫を開ける。

夫の好きなビール。

夫の好きな漬物。

夫の好きな魚。

クローゼット。

夫のワイシャツ。

夫のスーツ。

洗面所。

夫の髭剃り。

この家には、

夫のものが、

たくさんある。

じゃあ、

私のものは?

もちろん、

ある。

でも、

「私が好きだから」

選んだものは、

どれくらいあるのだろう。



その夜。

夫が帰ってきた。

「ねえ」

「何?」

「別居の話」

夫の顔が、

少し緊張した。

「してもいいよ」

「え?」

「一年」

夫は、

驚いた。

「本当に?」

「ただし条件がある」

「何?」

私は言った。

「私も引っ越す」

夫は、

しばらく固まっていた。

「……どこに?」

「まだ決めてない」

「この家は?」

「貸す」

「え?」

「あなたが自分を探すなら、私も探す」

夫は、

何も言えなかった。

私は、

少し気持ちがよかった。



それから、

私は物件を探した。

最初は、

近所でいいと思っていた。

でも、

見ているうちに楽しくなった。

駅の近く。

海の近く。

小さな町。

古いマンション。

新しいマンション。

ある日。

一つの物件が目に止まった。

鎌倉。

小さな1LDK。

駅から少し遠い。

築二十五年。

でも、

窓から山が見える。

私は、

見学に行った。

一人で。

部屋に入った瞬間、

不思議な感じがした。

小さい。

今の家の半分もない。

でも、

ここなら、

全部自分で決められる。

カーテン。

テーブル。

食器。

夕飯。

寝る時間。

起きる時間。

誰にも聞かなくていい。

「ここにします」

気づいたら、

そう言っていた。



夫は、

東京の小さなマンションを借りた。

会社に近い場所。

「定年後なのに会社の近く?」

私が聞くと、

夫は笑った。

「結局、慣れた場所がいいみたい」

「自分探しなのに?」

「うるさい」

二人で笑った。

少し前なら、

笑えなかったと思う。



引っ越しの日。

三十二年間暮らした家を、

二人で出た。

家具の一部は、

倉庫に入れた。

子どもたちは驚いた。

長男は言った。

「離婚するの?」

「しないよ」

娘は言った。

「仲悪いの?」

「たぶん普通」

「じゃあなんで?」

夫と私は、

顔を見合わせた。

「ちょっと休憩」

私が言った。

娘は、

呆れた顔をした。



鎌倉での生活が始まった。

最初の一週間。

寂しかった。

夜が、

静かすぎた。

テレビをつけた。

消した。

またつけた。

夫に電話しようと思った。

やめた。

二週間目。

私は、

朝、

散歩を始めた。

知らない道。

知らない店。

小さなパン屋を見つけた。

店主は、

私と同じくらいの女性だった。

「最近越してきたんですか?」

「はい」

「お一人?」

少し迷って、

答えた。

「今は、一人です」

その言葉が、

妙に嬉しかった。



一か月。

二か月。

私は、

少しずつ変わった。

料理をしない日が増えた。

夕飯が、

パンとワインだけの日もあった。

誰にも文句を言われない。

朝から映画を観た。

一人で電車に乗った。

陶芸教室にも入った。

下手だった。

でも、

楽しかった。

五十六歳。

私は初めて、

誰かのためではなく、

自分の予定で、

カレンダーを埋め始めた。



夫とは、

週に一度くらい連絡した。

「元気?」

「うん」

「そっちは?」

「まあまあ」

最初は、

それだけだった。

三か月目。

夫から電話が来た。

「今度、会わない?」

「いいよ」

待ち合わせは、

結婚記念日に行った、

あのイタリア料理店。

夫は、

少し痩せていた。

「痩せた?」

「料理が面倒で」

「知らない」

「冷たいな」

私は笑った。

夫も笑った。



食事をしながら、

夫が聞いた。

「楽しい?」

「何が?」

「一人暮らし」

私は考えた。

「楽しい」

夫は、

少し寂しそうに笑った。

「そっちは?」

「最初は楽しかった」

「今は?」

「ちょっと飽きた」

私は笑った。

「早いね」

「一人って、思ったより暇だな」

「私は忙しいよ」

「何してるの?」

陶芸。

散歩。

パン屋。

映画。

私は、

いろいろ話した。

夫は、

驚いた顔で聞いていた。

「なんか」

「何?」

「楽しそうだな」

「うん」

私は答えた。

「楽しいよ」



その帰り。

夫が言った。

「戻りたい?」

私は、

すぐには答えなかった。

「まだ」

夫は、

少し驚いた。

「そっか」

「あなたは?」

「少し」

「少し?」

「かなり」

私は笑った。

「一年って言ったの、あなたでしょ」

「そうだった」

駅で別れた。

昔なら、

夫と別々の電車に乗るなんて、

変な感じがしただろう。

でも、

その日は自然だった。

「またね」

「うん、また」



一年後。

私たちは、

約束通り話し合った。

元の家に戻るか。

このまま別々に暮らすか。

離婚するか。

夫が聞いた。

「どうしたい?」

以前の夫なら、

「戻ろう」

と言ったと思う。

でも、

聞いた。

どうしたい?

私は、

それが嬉しかった。

「半分戻りたい」

「半分?」

「平日は別々」

「うん」

「週末だけ一緒」

夫は、

しばらく考えた。

「いいかもな」



私たちは、

元の家を売った。

小さなマンションを、

新しく一つ買った。

そこを、

二人の家にした。

でも、

私は鎌倉の部屋を残した。

夫も、

自分の部屋を残した。

金曜日。

どちらかが、

二人の家へ行く。

日曜日の夜。

それぞれの家へ戻る。

変な夫婦。

子どもたちは、

そう言う。

友人にも、

珍しがられる。

でも、

私たちには、

ちょうどいい。



結婚して、

三十三年目。

夫が、

夕飯を食べながら言った。

「来年の結婚記念日、どうする?」

「またあのお店?」

「いや」

夫は笑った。

「旅行でも行く?」

「いいね」

「どこ?」

私は言った。

「それぞれ行きたいところ考えて、現地集合にする?」

夫は、

呆れた顔をした。

「そこまで別々にする?」

私は笑った。



五十六歳。

結婚記念日の夜。

夫から、

「別々に暮らさないか」

と言われた。

あの日、

私は、

夫婦が終わると思った。

でも、

終わったのは、

夫婦はこうあるべきだ、という思い込みだった。

毎日一緒にいるから、

仲がいいわけではない。

同じ家に住んでいるから、

夫婦なのでもない。

離れて初めて、

見えることもある。

そして、

一人になって初めて、

見つかる自分もいる。



今でも、

夫に腹が立つことはある。

夫も、

私に腹を立てる。

三十三年一緒にいても、

わからないことだらけだ。

でも、

以前と一つだけ違う。

私は、

夫の人生の中に住んでいるのではない。

夫も、

私の人生の中に住んでいるのではない。

二人とも、

自分の人生を生きている。

そして時々、

同じ場所に帰ってくる。

それくらいが、

私たちには、

ちょうどいい。

五十六歳。

人生の後半。

私はようやく、

「一緒にいること」と「自分でいること」は、両方選んでいいのだと知った。
             白石 灯

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