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何者にもなれなかった男の、その後:2022年の映画『夜を走る』

 例えばとりわけ親しくもない人と必要に迫られて社交辞令的に笑顔で話している時、目の前の机に置かれたコップの水を相手の顔にかけたらどうなるだろうと考える。相手はそれまでの社会的態度を瞬時に放り捨ててこちらに殴りかかってくるかもしれない。あるいは一瞬激したとしても冷静さを取り戻し、自分の品格を表現するために相変わらず笑顔で話し続けるかもしれない。どちらの展開にせよ、その光景は遠巻きに見ている人がいたとしたらとても異様で不気味なものに見えるだろう。

 とても脆い薄皮一枚隔てた先に予測不能な不可解さが待ち受けている。信号を待っている時に後ろの人に急にナイフで刺されることだってあるかもしれない。平穏無事に過ごしているように見える人の中に、抑圧された感情が溜まっている。その感情はいつもどこかで発散されるタイミングを虎視眈々と狙っている。配信サービスやゲーム、暴飲暴食や風俗通いでは気晴らしになっても根本的な解決にはならない。ある日、脈絡もなくそれまで見て見ぬ振りをしてこれたはずの些細なきっかけによって噴出するかもしれない。それも取り返しのつかない形で。

 『夜を走る』という映画も、自分から目を背け感情を覆い隠し続けたまま中年になった秋本という男の感情の発露を描こうとしている。秋本は常にマスクを着用していて、周りの人から身の上話を聞かれても平板な応答しかしない。まるで違法に住みついたことが明るみに出るのを恐れる難民のように自己開示の扉を固く閉ざしているのは、自分の平凡さが場を冷めさせることと諦めているからだろうか、それとも自らの本性を悟られることによって場を凍りつかせることを恐れているからだろうか? パワハラ気味の上司にはいつも怒られ、同僚にも後輩にも軽んじられている。ゆえに彼の世界に対する態度はいつも及び腰で、自分への攻撃をいかに回避するかということへもっぱら注力しているように見える。しかしたまたま酒席を共にすることになった女性へ不器用に連絡先を尋ねるあたり、情欲や承認への関心は人並みに持ち合わせているようにも思える。

 無個性で無害な装いはある日突然崩壊する。後輩の谷口と2人で飲んだ帰り、主人公は日中に勤務先の工場を訪れていた取引先の営業・橋本とばったり出くわし、そのまま流れで3人は別の居酒屋に入る。妻帯者で女慣れしており人生をそれなりに謳歌している(ように見える)谷口と、花のように美しくじっとしていても人が寄ってくるような女性の橋本との3人きりの宴会のシーンは秀逸だ。美人の隣で棒のように固まってしまい、口数がいつにも増して少ない主人公を傍目に谷口は世俗的だが軽妙なトークで女と打ち解ける。そして後輩は女日照の先輩を表面上は思いやるように、けれど実際は秋本よりも自分の方が選ばれることを確信しているような余裕を見せながら橋本に向かって彼のような人は交際相手としてどうかと尋ねるのだ。

 帰り道、深酔いした橋本を家まで送り届けるために社用車を回した秋本は、彼女がスマホを触っている様子をみて唖然とする。居酒屋で谷口がトイレに立った隙に不器用にも秋本が連絡先を尋ねた時、「スマホの充電がない」という理由で断っていたのだ。スマホを触る自分を秋本が信じられないといった様子で眺めているのに気づいた橋本が「は?」と言った瞬間、秋本は反射的に彼女を殴り倒してしまう。

 そこから紆余曲折を経て、2人はこの女を殺害するという共犯関係を持ってしまうのである。

 罪を共有してからの2人の行動はまるで対照的でそれまでの生き方の違いを如実に表している。アリバイ作りに奔走し職場の嫌な上司を自分たちの代わりに犯人に仕立て上げようとする谷口と、谷口の指示のもと手足となって車を駆り遺体を遺棄したり上司の車にそっと乗せる秋本。罪を受け止め背負うことから身を逸らし、いつも通りの日常を継続しようとする谷口と、罪を真正面から受け止め自責の念に押しつぶされそうになりながら息を潜めて暮らす秋本。ここで事件を起こす以前の2人の半生の対称性が浮き彫りになる。他者に好かれ、それなりに社会に受容されて今では家庭も持っている谷口と、(少なくとも劇中で描かれる範囲では)誰にも求められないまま沈滞するように人生を紡いできた秋本。逆を言えば谷口には事件が明るみに出れば失ってしまうものが多く存在し、秋本にはそれがないのだ。事件や被害者に対する姿勢に大きな差異が出るのは当然のことである。谷口は「夫」「父親」「会社員」としての肩書きを死守しようとし、何ものも持たない秋本は谷口の分も肩代わりするかのように自分が犯した過ちを全身で受け止め、罪の意識に囚われる。そして実際のところ、劇中では連絡先交換の一件で秋本が橋本を殴った結果気絶させたものの、我に帰った秋本が水を買いに行った間に谷口が手を下したように描かれているのだ(つまり秋本は殺していない)。

 結果的に会社の上司を犯人に仕立て上げることに成功した2人。事件は丸く収まったかと思いきや秋本はもう1人の自分の幻影に導かれるように、とある新興宗教団体の施設に入る。そして秋本は、どうやら実社会で不遇を託っているらしい他の入信者たちと共に声を張り上げて叫び、日常に埋没させていた行き場のないやるせなさや怒りを解放する。施設の「外」の世界は秋本にとってまるで戦場そのものである。他者は絶えず自らを蔑み攻撃するのに、秋本の声に耳を傾け、心の中身を覗こうとする人間はいない。一方「弱者」の居場所としての宗教団体では外の世界とは打って変わり、秋本を責めるものは誰もおらず、みんなは輪になって秋本の声に耳を傾けようとする。この出来事をきっかけに秋本は仕事を無断欠勤し、サラ金から借り入れた湯水のような金をフィリピンパブのコンパニオンや費やしたりするようになる。その表情は気取られるのを強迫的に恐れていた今までとは打って変わり、まるで全てを嘲笑うかのように不気味な微笑で固まっている。

 やがて彼の逸脱した行動は宗教団体でも持て余されるようになり、「新しい世界」へ行くという美名の下で秋本は多数決で施設から追放される。会社からも施設からも見放され、精神のたがが外れた状態でまっさらな世界に放り出された秋本は最終的には谷口からも拒否された末にある男から拳銃をもらう。

「…でもさ、“新しい世界”ってどんな感じなの?」
「分からない。ちょっとワクワクしてきたけど」
「フフ…もう来んなよ。いってらっしゃい」


 ひょんなきっかけからもらった拳銃を手に宗教施設にどしどしと押し入り、教祖へ向かって撃ち放つ。その直前、幹部たちと教祖が会議をしている場に現れてから秋本が突如踊り始めるダンスはこの映画のひとつの山場でもある。暗黒舞踏にも近いものだろうか。華やかであるとか美しいといった形容を拒絶するようなユーモラスな動きの中に時折天に向かって救いを求めるような切実な仕草が混じる。その様子、あるいは孤独な中年男が社会への復讐の扉を開ける前後で不定形な踊りを舞うという構図は、映画『JOKER』でホアキン・フェニックス演じるアーサー・フレックが地下鉄で3人のサラリーマンを撃ち殺した後に公衆便所で独り踊る舞踏を思い出させる。

 教祖の顔を捉え損ねて壁に風穴を開けた銃弾は秋本が去った後も世界に残り、彼が存在した確かな痕跡としての主張を続ける。と同時に、秋本がこれまで閉じ込められていた「現実」に風穴を開けて別種の次元(つまり“新しい世界”)の入り口に立ったことを暗示するかのようだ。実際にこの後のシーンでは秋本が谷口の代わりに一家の父親になっていたり、教祖の代わりに秋本の声に合わせて体を動かす信者たちが描かれる。並行世界とでも言うべきこれらの光景は、まるで一個体としての秋本が雲散霧消して世界中に染み込んでいったようでもある。

佐向 ベランダから部屋を覗く場面も、秋本があの世界の外側から見つめているようなイメージだったんです。家族を持っている秋本とか、美濃俣の代わりになった秋本とか、いくつもの秋本の現実っていうのがばーっと拡散していって、それを本人が外から見ているという視点にしたかったんですよね。

-佐向監督インタビュー(『夜を走る』パンフレット)より

 秋本が最終的に踏み込んだ境地とは、俗世からの遁走だったのか? それとも一見、遁世のように見えながら俗世への未練ゆえに出てくる反抗、つまり「何者にもなれなかった自分」を「何者にもならなかった自分」に変換し、最終的に「何者にもなれる(可能性がある)自分」へと接続して肯定的な意味を付与していくことなのか。映画はその辺りを明確に描くことのないまま終わる。1人だけ日陰になった場所で死人のように俯く谷口の表情と共に。谷口は自らの罪をどうにか他人に転嫁して元の日常に戻った。けれど戻った日常の中で徐々に生きながら死んでいくような翳りを見せる。秋本という「共犯者」を失った今、谷口はこのまま罪を誰にも打ち明けられずにたった1人で抱えたまま残りの人生を生きなければならないのだ。

 罪を犯す前の2人の半生の対称性が、ここに来て奇妙な反転を見せていることがわかる。半生を充実して過ごしてきた谷口は、それにしがみつき、牢獄のような日常に閉ざされる。反対に何ものも持たなかった秋本は、まさにそれゆえにこれまでとは別次元の世界へと飛翔した。その別次元の世界が一体どのような光景なのかは分からないが、常人としての規範をかなぐり捨てた先に谷口が過ごす日常よりも遥かに風通しの良い世界があるいは待ち受けていたのではないかと私は思うのである。


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