ファストフード化する言葉(第4回)
意味の源泉が変わるとき──生成AI以後の人間への懸念
生成AIの登場によって、私たちは容易に整った文章を手にすることができるようになった。ChatGPTに問いかければ、すぐに「もっともらしい答え」が返ってくる。しかも、その言葉は、文法的にも語感的にも整っていて、一見すると意味の通ったもののように見える。しかし、私はそこにある違和感を拭えない。
それは単に、「子どもが考えなくなるのでは」といった教育的な懸念とは異なる。もっと根本的な、人間の「意味を感じる力」が変質してしまうのではないかという不安である。
かつて、人間は感情から意味を生成していた。嬉しさ、悲しみ、怒り、不安──そうした感情が心の底から立ち上がり、それにふさわしい言葉を探し、つかみ取り、形にする。その過程で、意味が生まれた。たとえ拙くても、それはその人の体験に根ざした「生きた言葉」だった。詩も、手紙も、日記も、そうして生まれてきたものだ。
ところが今、私たちは“整った言葉”を、あらかじめAIから受け取ることができる。その言葉は、膨大な過去データをもとに、確率的に「それらしい並び」として生成されたものである。つまり、意味は経験や感情から立ち上がっているのではなく、統計的に組み立てられた“構文的な正しさ”から来ている。
このような言葉にばかり囲まれていると、私たちは次第に「意味を感じ取る」という感受性を失っていくのではないだろうか。感情から言葉を生み出す回路が弱まり、言葉とは「うまく構成するもの」「選んで並べるもの」だという感覚だけが残る。
私が懸念しているのは、意味の生成の源泉が変わることによって、人間の在り方そのものが変質してしまうのではないかという点にある。言い換えれば、感情に根ざした言葉を紡ぐ人間と、構文的に意味を構築する人間は、もはや異なる「人間種」になってしまうのではないかという問いである。
AIは、私たちにとって便利な道具であると同時に、「人間らしさ」を測る鏡でもある。だからこそ、私たちは問わなければならない。
「私たちは、いま、どこから意味を生み出しているのか?」
感情から言葉を立ち上げる営みは、遅く、面倒で、時に苦しい。だが、それこそが人間にとっての思考の重みであり、言葉の尊厳であったはずだ。
生成AIの時代にあってもなお、私は願いたい。
意味とは、操作されるものではなく、感じ取られ、分かち合われるものであってほしいと。
#生成AI #ChatGPTと人間 #言葉の重み #意味の源泉 #感情と思考 #AI時代の人間性 #哲学的エッセイ #深く考える #言語と思索 #教育とAI
