フォスター 生誕200年 ケンタッキーの我が家 独立記念日に生まれ 内戦中に没した不遇な作曲家
本日 2026年7月4日は
「ケンタッキーの我が家」で知られる
Stephen Collins Foster
スティーヴン・コリンズ・フォスター
(1826年7月4日-1864年1月13日)
の「生誕200年」にあたる日です
私は子供のときから フォスターの
歌曲が大好きでした
【左右逆版】
Wikipedia などに掲載されている
フォスター の有名な写真は おそらく
写真湿板 ではなく ダゲレオタイプ
(ダゲール式 という意味です)
で撮影されたもののようです
ダゲレオタイプによる写真は
使用されていた銀板が不透明なため
像は感光面側から見る つまり
鏡を見ているのと同じ状態 と
考えればわかりやすいと思いますが
左右が逆になっているのです

フォスター の写真の場合
現在の印刷物やネットなどでも
あえて直さないのか……おそらくは
気づかなかったまま
流通してしまったのでしょう……
いわゆる 左右逆版 という形です
なので タイトル図版では
フォスターの二面性 という意味も込めて
直したものと併せて載せておきました
【フォスター 生い立ち】
フォスター は ペンスィルヴェイニャ州
現在は ピッツバーグ市に吸収されている
アレゲイニー市のローレンスヴィルという町で
スコットランド系アイルランド人の
家庭に200年前 生まれました
現在も プロ・フットボールのチームに
ピッツバーグ・スティーラーズ というのが
あるように 当時は
鉄鋼の町 として栄えていました
あのカーネギーも父親が職を求めて
移り住み 少年時代を
アレゲイニーで過ごしています
フォスターの父ウィリアムは 事業家で
ペンシルヴェイニア州議会議員
アレゲイニー市長も務めました ちなみに
二期あとの市長は のちに
印象派の女性画家となる
メアリー・カサット の父親です ともあれ
フォスターは「貧乏」作曲家の代表的な
ひとり として記憶されていますが それは
成人してからのことであり 幼少期は
白人上流家庭で育っています
ここで重要なことは つまり フォスターは
かなりな教養を身につけていた
ということです
二十歳のときにシンシナティで兄の
会社の簿記係となり そこで
ミンストレル・ショー のための
「おおスザンナ」を作曲しています
【ソング・ライターとして】
そこからは プロのソング・ライターとして
生きていくようになったとのことです
ピッツバーグに帰り
「草競馬」「ネリー・ブライ」を作曲
医師の娘「ジェニー」と
1850年7月に結婚
翌1851年4月には 唯一の子となる
娘のマリオンが生まれ
「故郷の人々(スワニー河)」
「あるじは冷たい土の中に」
「ケンタッキーの我が家」
「オールド・ブラック・ジョー」
「金髪のジェニー」
などが相次いで作曲されました
この間 ニューヨークに進出しますが
うまくいかず ピッツバーグに戻ります
しかし 1855年に父と兄が相次いで
亡くなり フォスター家は貧困に陥ります
フォスターは単身でまたNYに出ます
「夢見る人」
を作曲しますが 生活は楽にならず
【悲惨な死】
1864年1月10日 マンハッタンの
バウアリー(ソーホーの東)のホテルで
血まみれになっているのを
ソング・ライトの相方である詩人
ジョージ・クーパーに発見されました
まだ生きていて ベルヴィュー
医療センターに運ばれましたが
3日後の1月13日に亡くなりました
37歳でした 発見されたとき
フォスターは粉々に壊れた洗面台の
脇に横たわっていましたが
頭部と頸部から大量に出血していて
高熱のためによろけたはずみで
割れた洗面台の破片で首を切った
と推定されています が いっぽうで
フォスターが頭突きして洗面台を割り
その破片で自傷したのだ
という説もあるようです いずれにしても
財布の中には
Dear friends and gentle hearts
大切な友 思いやりのある人たち
と書かれた紙きれ そして 37セントの
北軍グリーンバック(戦時不換緑紙幣
この名残りが現在の紙幣の裏側の
色で グリーン は現金の符牒)と
硬貨3セント だけしかありませんでした
独立記念日 というめでたい日に
生まれたのに 悲しい最期でした
【黒人奴隷と南北戦争の時代】
ミンストレル・ショー という
白人が顔を黒塗りして黒人を
道化のようにいじった格好で歌う
ミンストレル・ソング に始まった
フォスターのプロとしての
作曲家人生ですが その
思想や 奴隷制 南北戦争 などへの
スタンスは 一言では断じることは
できません 黒人蔑視 のような
レイシストではもちろんありませんが
現在の コンプラ ポリコレ などからすれば
「差別的な社会の中でぬくぬくと
育ち その恩恵にどっぷり浸かっていた
白人」ということにもされてしまいます
たしかに とくに初期の歌には
白人にウケることをねらったかのような
黒人特有の言葉を多用しています
しかし 途中から フォスターは
人道的に目覚めたような芸風に
変わっていきました それには一つには
1852年 ストウ夫人によって書かれ
大ベストセラーになった 反奴隷制小説
「アンクル・トムズ・キャビン」に
感化されたということもあったでしょう
「ケンタッキーの我が家」を当初は
Poor Uncle Tom, Good Night
「可哀想なアンクル・トム おやすみ」
としていたそうです なので
darkies その他 現在では忌避される
言葉も フォスターは悪意でなく
あくまで現実的な表現で用いて
いたのです いずれにせよ この
「ケンタッキー・ソング」も
「アンクル・トム小説」とともに
反奴隷制の気運を高める後押し
となりました ちなみに ストウ夫人の
小説は リンカーンによっても 南部を
叩く利用価値を見いだされて
南北戦争が引き起こされたといっても
過言ではありません 当時は
独立から85年ほども経っていても
南部はその綿花栽培の労働力として
英国からの三角貿易で黒人奴隷が
送られてきた場所 つまり 南部はまだ
経済を英国が牛耳っていたのです
フォスターも北部出身の白人でもあり
We Are Coming, Father Abra'am
今向かっているところであります、父上殿
(エイブラ(ハ)ムという名はもちろん
リンカーンのファーストネイムですが また
強い独裁指導者を望む一神教の男の
祖としてのアブラハムと掛けています)
という リンカーンが北軍の兵を募った際の
キャンペイン・ソングに共同作曲者として
フォスターも名を連ねています
「スワニー河」「ケンタッキーの我が家」
など 南部の情景を美しく歌った曲が
広く知られているため フォスターは
南部贔屓だと誤解されるかもしれませんが
フォスター自身は生涯でたった一度だけ
数週間の新婚旅行で ニューオーリンズ
という”南部”を訪れたことがあるだけで
基本的にはずっと北部の都市しか知らない
白人です フォスターにとっての「南部」は
美化された郷愁のシンボル の域は
出ないものでした とはいえ 幕末
日本では奉公人に労働の対価
賃金が支払われ 休暇や休憩時間も
与えられていたのと同じ時代に まだ
「奴隷」などという形態が現実に存在し
差別などという生易しいものでない
待遇を受けていた黒人に 絵空事とはいえ
暖かい目を向けていたことに違いはなく
その美しくも悲しい数々の歌には
強く心惹かれてしまいます
「ケンタッキーの我が家」は個人的には
昔の ロジェ・ワグナー合唱団 の
アレンジ と歌唱が大好きです
