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背番号44 このゾロメ数のMLBにおける意義 ハンク・アーロン

【ジャッキー・ロビンソン・デーと背番号42】
日本では時差で4月16日も重なる
米国の4月15日は 毎年
Jackie Robinson Day
ジャッキー・ロビンソン・デー
という
MLB(メイジャー・リーグ・ベイスボール)
記念日です これは
近代野球になってから
初めて白人以外がメジャーリーガーとして
デビューした1947年の 4月15日 に
ちなんで記念されたものです
その黒人選手 ジャッキー・ロビンソン の
当時の ブルックリン・ドジャーズ での
ユニフォーム・ナンバー(背番号)
42 だったことから 現在では
この4月15日のゲイムでは 全選手が
42番をつけてプレイする ことになっています
この42番はロビンソンが望んだ番号でなく
球団が空いている番号の中から
与えたものでした でも それがのちには
MLB にとって重要な番号になった
というわけです

昨日 丸の内で
ちょうど ドジャーズの大谷投手が
42番をつけて好投をしていたころ
家庭教師のバイトをしていたときの
教え子とランチをしてきました
母の友人の知り合いの家の男子で
現在はここでは書けない重要な
国家的仕事をしていますが
当時小6でした が 彼は
私の従兄弟と同じく 小学校の
通知表がオール5の超秀才で 私より
知能指数も上 ただ 受験塾が嫌いで
そういう勉強をしていなかったので
親御さんが念にはねんを ということで
だったらしいのです でもやはり ことさら
教えることなど何もありませんでした
彼も野球好きな少年だったので
私が教えることができたのは
メジャーリーグの知識くらいだった
という感じです もちろん
志望校には難なく受かりました
彼は見た目もよく 長じては
背も高くなり 私とは大違いですが
今でも私のことを 師匠 と
言ってくれています

【野球と背番号】
野球の背番号というのは
1929年 NY・ヤンキーズ
ホームベースから遠い座席の
観客に 誰が打席かわかるようにと
つけたのが始まりとされています
もっと現実的には 当時(今でも)
スコアカードが球場で売られていて
そこに選手の番号を振って
球場のスコアボードにその選手の
番号が掲示されているので
スコアカードを買えば
打席の打者を照合しやすい
という収益のため ということが
あったようです ですから
打順がそのまま背番号に
なっていました だから
ルース 3
ゲーリッグ 4

なわけです ちなみに
投手は11番以降に
割り当てられました 当時の
ままの伝統で いまも 
ヤンキーズ は 背番号の上に 
名前を綴っていません 

1936年デビューの
ジョウ・ディマッジョ は
9 でしたが
それまで先頭打者だった
カール・コームズ(背番号1)が
1934年にフェンスにぶつかり
頭蓋骨骨折 復帰した
1935年に外野手どうしで
衝突して引退し
5をつけていた
フランキー・クロセッティ が
1936年から1番打者になって
1をつけました そして
5月からレギュラーになって
3番を打つ ディマジオ
をつけたので この頃には
もう 打順に関係なく
レギュラー格の選手に
一桁番が振られるように
なっていたのかもしれません

ちなみに 当時の
ヤンキー・スタジアム 
デス・ヴァリー(死の谷)
いわれるほど……
改善(狭められ)たとはいえ……
左中間が深く 140mもあり
右打ちのディマジオは
本塁打王になったことも
ありますが その体格のわりに
(とくにホームゲームで)
本塁打が少ない選手でした
そんなディマジオも
56試合連続安打 では
現在でも知られているように
大選手ではあります が
その大記録の絶頂期の
翌年からの3シーズンを
第二次大戦の兵役で
棒に振ったうえ
1948年シーズンオフに踵の骨棘の
手術を受けたものの翌1949年の
前半も出場できませんでした

話が逸れますが ついでに
マリリン・モンロー
夜寝るとき身に着けるのは
シャネルのNo. 5だけよ
と記者の質問に答えた という
都市伝説がありますが
その”深い”意味は
身に着けるものはなく全裸で
背番号5の男だけを纏っている
と当意即妙の返しをした
モンロウが 低学歴ながら
ものすごい知能だったという
ことを裏づけるものです
さらに ちなみに
ジョンとロバートのケネディ兄弟を
相次いで暗殺した黒幕団の一人に
モンローを殺害した汚いやつらと
根に持っていたディマジオが
いたのではと 私は考えています
ルーツはシチリア島です 同じく
シチリア・ルーツのシナトラも
ディマジオを怒らせたらマジ
怖いことを承知していて
モンローの葬儀に手を出すことが
できなかったくらいですから

【ハンク・アーロンと背番号44】
現在ではもう 通算本塁打数 も
バリー・ボンズ が最高記録者となって
久しいこともあり また
アーロン といえば いまは
アーロン・ジャッジ となってしまいますが
私の世代だと 5年前に亡くなった
ハンク・アーロン をまず思い浮かべます
ハンクはヘンリーの
ニックネームのひとつです
(ミルウォーキー そしてアトランタ移転前の)
ボストン・ブレイヴズのトライ・アウトを
1952年に受けたとき
右打ちであるにもかかわらず 
cross-handed (クロス・ハンディド) といって 
右手をグリップ・エンドに 左手をその上に
という”左打ちの握り”で右打席に入って
ボンボンかっとばしたのだそうです のちの
大打者はバットの握りかたも
知らなかったのです 三年めくらいに
それではまずいと気づき 
きちんとした握りに直したそうですが 
箸をテコの原理を使った効率的な持ちかた
(いわゆる 正しい持ちかた)ができないのに
食レポをしているアナウンサーさんとか
タレントさんにも見習ってほしいですね 
それでも シーズン50本以上
本塁打を放ったことがなく また
大打者のわりに 敬遠四球 が少ない
などという地味さで けっして
大人気だった選手 とはいえませんが
ルースの通算記録に迫るころは
日本でもかなり報道されました
このアーロンがルースの記録
714本に並んだのは 1974年
【4月4日】
シンシナティ の
リヴァーフロント・スタジアムでの
対レッズ戦 相手投手は
ジャック・ビリンガムで このシーズン
19勝11敗することになる実力投手で
背番号は「43」でした (表紙の写真です) 
4日後の4月8日 アトランタ の
フルトン郡球場 での地元開幕戦
相手はLAドジャーズの左腕
アル・ダウニング こちらもかつて
20勝したことがある投手です
そして 背番号は奇しくもアーロンの
栄光の背番号【44】とおんなじでした
ちなみに ルースの記録を抜いた
この年の前年に ブレイヴズ は
エディ・マシューズ三塁手
そして 巨人に来ることになる あの
デイヴィー(デイヴ)・ジョンソン二塁手
とともに 三選手が40本以上
本塁打を記録しています

アーロンは上述のとおり
生涯に1度たりとも1シーズン
50本以上のホームランを打ったことは
ありませんでした(それだけ 大谷選手の
複数回50本以上本塁打 というのは
ものすごい記録なのです)が
40本以上は8度も記録していて
そのうち【44】本を【4】度打っています
後続の黒人スラッガーの外野手
ウィリー・マコウヴィー
(スプラッシュ・ヒット で知られる
サン・フランシスコ湾に落ちる
オラクル・パーク の
場外本塁打が落ちる入江は
マッコヴィー・コーヴ と呼ばれています)
今年80歳になる レジー・ジャクソン
(バリー・ボンズとは縁戚らしい)などが
アーロンにあやかって44番を着けました
それからだんだんと 白人選手でも
44番を着けるようになり さらには
バート・フートン とか 斉藤隆 とか
投手でもつけるようになりました
現在ではその威光もまったく薄れ
特段に44番が好まれることも
なくなりました

Hank Aaron (1934-2021)
Willie McCovey (1938-2018)
Reggie Jackson (1946-)
上掲のアーロンの写真でもおわかりのように
1970年代 1980年代は こうした クロウズド・スタンス が普通でした

さて
アーロンは1954年 レギュラー予定の
外野手が開幕前に二塁への
スライディングで足首を骨折したことで
出場機会を得て そのまま
メジャーに定着しました このとき
背番号は 5 でした が
シーズン終了後 アーロンは
二桁番号を球団に所望して
44に替わった のだそうです
その理由は詳細に言及した資料は
ありませんが 私の推量では
おなじく 5 を着けていた ディマジオ が
36歳という若い年齢で引退せざるを
えかなった故障問題に対するため
元就の三本矢 伝説のごとく
シングルではなくダブルで支えあう
ゾロメ数を強靭な身体に という
意味合いがあったのではないかと
考えています 当時
ブレイヴズには 11 22 33 は
すでに着けている選手らがいたので
空いていた 44 だったのかもしれません
が ひょっとしたら 当時 開発が
されていると評判になっていて
アーロンが 44 に替えた1955年の
シーズンオフに正式発表された
拳銃用として圧倒的な威力を誇る
.44マグナム弾 をアーロンは
想定していたのではないでしょうか
翌1956年には スミス&ウェッソンから
.44マグナム弾 を想定した 
M29リヴォルヴァーが発売され
銃弾と併せて大ヒットとなりました あの
クリント・イーストウッド演じる
ハリー・キャラハン
メイク・マイ・デイ の拳銃です
まあ これは私の想像にすぎませんが
アーロンが.44マグナム弾を意識して
いなかったとしても 結果的に
アーロン背番号44 に替えた年に
.44マグナム弾が開発された発表があり
のちに アーロン は シーズン本塁打
【44本】
【4】度放ち そのうち
3回が本塁打王 1回が次点でした
その次点だった1969年 本塁打王を
1本差の45本で勝ち取ったのは SFの
ウィリー・マッコーヴィー外野手
(背番号【44】 左打ち)でした


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