#50 Mahmoud Sa'id(マフムード・サイード)形から出る光

はじめに
マフムード・サイード(Mahmoud Said、1897-1964)は、エジプトのアレクサンドリアに生まれました。父は首相を務めたモハメド・サイード・パシャ。法律家として裁判官まで勤め上げ、1947年に辞職して以後、画業に専念しました。ヨーロッパへの留学でアカデミック・ジュリアンに学び、ルネサンス絵画、フランドル絵画の古典に深く触れました。しかし彼が生涯描き続けたのは、ナイル川の岸辺であり、上エジプトの砂漠であり、アレクサンドリアの運河でした。
はじめてサイードの風景画を見たとき、私は奇妙な安定感を覚えました。太い筆一本で引いたような線が、岩を、建物を、水面を、ためらいなく区切っています。それでいて遠近感は正確です。
セザンヌを思い浮かべた方もいるかもしれません。しかしセザンヌの単純化とサイードのそれは、出発点がまったく異なります。セザンヌはもともと遠近感の把握が苦手でした。だからこそ、物の形を球・円錐・円柱という基本形に還元することで、空間を別の方法で再構築しようとしました。単純化は、いわば彼にとっての補助輪でした。
サイードにはその補助輪が必要ありませんでした。彼はもともと形を的確に捉える能力を持っていました。それでも彼が画面を単純化したのは、見えているものの表面を描くためではなく、そのものが本来持っている純粋な形の本質を取り出そうとしたからではないでしょうか。形の本質だけを残したとき、そこに宿るのは静けさではなく、圧倒的な存在感です。
そしてその存在感の中に、光が生まれます。

作者と作品の背景
画法の変遷
マフムード・サイード(Mahmoud Said、1897-1964)は、エジプト近代絵画の父と呼ばれています。父はエジプト首相を務めたモハメド・サイード・パシャ、姪はファルーク王の王妃ファリダという名門の出身です。カイロのフランス法学校で法律を学び、裁判官として長年勤務しながら絵を描き続け、1947年に辞職して以後、画業に専念しました。
修業の順序は通常と逆でした。最初の師はアレクサンドリアのイタリア人画家アメリア・カソナート・ダ・フォルノで、印象派的な感覚から絵に入りました。その後1919年から1921年にかけてパリに渡り、アカデミックな訓練を積みます。多くの画家がアカデミックから印象派へと「解放」されていったのとは、まったく逆の道筋です。
なぜアカデミックに向かったのか。彼が敬愛する画家としてコロー、セザンヌ、ルノワールを挙げていることが手がかりになります。サイードはアカデミックなスタイルを踏襲しようとしたのではなく、形をどう捉えるかという原理だけを抽出しようとしたのではないでしょうか。バイエルンの教則本で指の独立を鍛えながら、バイエルンを弾き続けるピアニストにはならないように。
その原理を携えてエジプトに戻ったサイードが向かったのは、ナイル川の岸辺であり、上エジプトの砂漠でした。1919年の民族蜂起、1922年の独立——エジプト人としてのアイデンティティが問われた時代に、ヨーロッパで学んだ技法を自分の大地に向けた。借りた言語で、自分の物語を語る。それがサイードの生涯の仕事でした。
サイードの描いた色


この2枚の写真があります、エジプトの大地と水の色です。
一枚目は砂漠です。砂丘の黄金色、石灰岩の白、日陰の深い暗褐色、そして頭上に広がる深い青空。光と影が鮮烈に分かれ、中間色がほとんどありません。二枚目は水です。ターコイズブルーから深い青灰色へ、水中に沈む礁の形。ここでも色は混濁せず、鮮明なまま存在しています。
この二枚が示すのは、エジプトという土地の色彩の本質です。砂の黄金色と水のターコイズブルー「エジプトらしい色」を選んだのではなく、エジプトの物理的現実をそのままキャンバスに置いきました。
ただし一つ注記が必要です。ナイル川といえば泥の色——そのイメージは正しい。毎年の氾濫が上流から泥を運び、デルタを潤す。現在でこそハイダム以降、透明度を増したナイルが各地で見られますが、サイードの時代、あのターコイズブルーはアスワン周辺にしか現れなかった色でした。花崗岩の岩盤地帯を流れるアスワンのナイルは堆積物が少なく、水が透明度を保ちます。サイードが繰り返しアスワンに向かった理由は、そこにあったのかもしれません。
作品の解説

《ル・ニル・ア・アスワン》1947年 油彩・カンヴァス 55×72cm 個人蔵
アスワンのナイル川を描いた1947年の作品です。画面を支配するのは砂丘の黄金色と水面のターコイズブルー、その二つの形の対話です。川面に浮かぶ岩礁は塊として、遠景の白い建物は直方体として、ヤシの木は垂直の線として、それぞれが形の本質だけを持って画面に立っています。光はどこにも直接描かれていません。しかしこの絵は光に満ちています。形と形の間に、エジプトの強烈な光が自然に宿っているのです。

《ル・カナル・ド・マフムーディエ》1922年 油彩・パネル 個人蔵
アレクサンドリアのマフムーディエ運河を描いた初期作品です。まだ25歳、法律家として働きながら描いていた時代です。白い建物群、水たまりの反射、点在する人物たち。それぞれが形として等価に扱われています。後年の作品に比べると筆はやや細かいですが、形を単純化することで光を生み出そうとする姿勢はすでにここに明確に現れています。運河の水面が空の形を映し、地上と空が一枚の画面の中で静かに呼応しています。

《ヴュ・ダスワン》1940年代頃 油彩・紙 10×17cm 個人蔵
わずか10×17センチの小品です。神殿の塔門と思われる黄土色の巨大な構造物が、画面の中心に堂々と立っています。塔門は塊として、ヤシの木は線として、右手の白帆は三角形として描かれています。光を描こうとした痕跡はどこにもありません。しかしこの小さな紙の上には、アスワンの午後の光が満ちています。形を突き詰めた先に、光は自然に姿を現しています。

《ナイル川の風景》 油彩・カンヴァス 個人蔵 Image source: © Mahmoud Said Estate
ヤシの木が画面左に垂直の線として立ち、その奥に砂漠の山が水平の塊として広がり、手前に水面がターコイズブルーの帯として横たわっています。三つの形——垂直・水平・帯——が画面を明快に構成しています。
光はどこにも直接描かれていません。しかしヤシの木の緑、砂漠の黄土色、水面の青が互いに対話することで、エジプトの午後の光が形と形の間から自然に滲み出ています。
サイードにとって光とは描くものではなく、形を描いた結果として現れるものでした。この小品がそのことを静かに、しかし確実に証明しています。
形から出る光
印象派の画家たちがエジプトを訪れたとき、あの灼熱の光に圧倒されたでしょう。その光をどう描くか——それが彼らの問いでした。サイードはその問いを立てませんでした。彼が向き合ったのは、光ではなく、光の中に立つ岩であり、建物であり、水面でした。
サイードはセザンヌと同様に、形を主題として絵に向かいました。形を捉えるとき、光を描くのではなく、影を描く。山も岩も、異なる光の反射を受けた複数の面として捉えられ、面と面の境界が形を浮き上がらせます。そこには質量が生まれます。岩は岩として、砂丘は砂丘として、確かな重みを持って画面に立ちます。

しかしセザンヌの形が持つあの重さ——地中海の湿った大気の中で、形が大地に押しつけられるような密度——はサイードの絵にはありません。エジプトの乾いた空気がそうさせるのでしょう。水蒸気の少ない大気は影の輪郭を鮮明にし、面と面の対比を明快にする。形は立ち上がりながら、どこか軽い。質量はあるが、重力に引きずられていない。
形を描き切ったとき、光はおのずと画面に現れました。光を描こうとして光を失った画家は数多くいます。形を描くことで光を手に入れたサイードの絵が持つ独特の明るさは、エジプトという土地の物理的条件と、形への徹底した向き合い方が生んだ必然でした。
生成AIによる比較検証:もしナイルが泥の色だったら
ナイルが氾濫し泥の色を呈したらサイードの絵はどのようになっていたか、生成AIを使って試してみましょう。


変えたのは水の色だけです。ターコイズブルーを泥色に置き換えた。それだけで何が起きたでしょうか。
岩が埋もれたのではありません。それよりはるかに大きなことが起きました。水面と砂丘が同じ色調になり、川と大地の境界が消えた。手前の岩礁はまだ形を保っています。しかし絵の空間構造そのものが崩壊しています。
ターコイズブルーは単に「水の色」ではなかったのです。砂丘の黄金色と水面の青——この二色の対比が、画面の空間を成立させていた。その対比が失われた瞬間、形は残っても、形が立ち上がる場所がなくなりました。
サイードがアスワンのナイルに繰り返し向かった理由が、ここに見えます。あの色でなければ、空間が生まれない。空間がなければ、形は宿れない。形が宿れなければ、光は生まれない。アスワンのターコイズブルーは、サイードの絵画論が成立するための、物理的な条件でした。
