桜襲(さくらがさね)の比翼 第16回
※挿絵はAIによるイメージ画像です。登場人物・背景・衣装・風俗等は原作の描写と一致しない場合があります。
前回までのあらすじ
平安時代末期。父の無念を晴らすため、母の仇・平時忠のもとで密偵として働く白拍子・真鶴御前。かむろの頭目・コノリとは、敵とも味方とも定まらぬまま、互いに惹かれ合う。
真鶴の舞姫としての評判は上々であったが、コノリを慕う弟分の白狐、典侍の蘇芳の君は、それを冷ややかに見つめていた。
ついに、真鶴への危機感を募らせた白狐は、真鶴の抹消へと動くーー
第16回
白狐は、流れ込んできた雨水ごと、ごくりと唾を飲み込んだ。
それは、仲間たちとて同じだった。皆が固唾を飲んで、真鶴の出方を伺っていた。
その身のこなしは、まさに舞であった。
美しいのに、あまりにむごたらしいー
このような闘い方を、未だかつて見たことがあったろうか。
真鶴は、たった今斬ったかむろを静かに見下ろしていた。雨と返り血でしとどに濡れた顔を、ぐい、と手の甲で拭きー現れたその口元には、笑みさえ浮かんでいたのだ。
「何をしている、さっさとかかれ!」
檄を飛ばす。
しかし誰も、最初の一歩を踏み出そうとしなかった。
「白狐の兄者……」
誰かが震え声で言った。
「皆が言ってました、この女の舞は、神の乱舞だって」
「こいつ、やはり……」
「馬鹿言うな!」
怒鳴りつけた。それは、少しでも恐れを抱いてしまった己への叱咤でもあった。
「ただの……遊び女だ!」
この女を生かしてはならない。
兄者のためにも。
都のためにも。
そして何より――
自分が恐れを抱いてしまった、この瞬間を消し去るためにも。
真鶴が、弾かれたように地を蹴った。こちらにひらりと背を向ける。
「逃がすか!」
及び腰の雑魚どもは、もはや使い物にならない。それならば自分がやるしかないーー
大きく二、三歩踏み込み、その無防備な背に、袈裟懸けに刃を振るった。
真鶴がとっさに左袖を大きく払ったせいで、刃先が思ったところに達しなかった。
それでも、手ごたえはあった。
まだまだーー!
再び刃を振りかぶった時、大きく翻った左袖が蜻蛉返りし、目前に迫ってきた。袖の中で、刃の切先が光っていた。
間一髪でのけ反ったが、涙袋のすぐ下に、熱線で焼かれたような痛みがつっと走った。
目を守り切った安堵も束の間、手傷を負わされたことへの憎悪が瞬時に燃え上がった。
こいつーー!
しかし、一度受け身を取ったことで、はからずも敵が時を稼ぐのを許してしまった。
そしてーー気付いた時には、真鶴の背は雨夜の靄の中に消えていた。
どれほど走っただろう。
気付けば追手の足音は聞こえなくなっていた。
肩口から流れ出た血は雨に洗われ、いつしかどこまでが血でどこからが雨なのかも分からなくなっていた。
真鶴は、路傍の木にぐったりと身を預け、肩で大きく息をした。
少し上向けた額に、容赦なく雨が降り注ぐ。
頬を伝い、顎から雫が絶え間なく滴り落ちる。
そして冷え切った身体の中で、肩の傷だけが熱を持って疼き、皮肉にもまだ自分が生きていることを主張していた。
目を閉じる。
すると、瞼の裏に浮かぶのは闇ではなかった。酒宴の灯。管弦の音。人々の歓声。
そして――
「初めて本気で、失いたくないと思ったのだ」
不意に蘇った声に、真鶴は目を開いた。
都に夢を見ていたわけではない。
父の無念を晴らすためにここにいる。
ただ、それだけだった。
なのにーーどうしたことだろう。
思い返せば返すほど、それらはただの記憶ではなく、どこか甘く熱を帯びたものとして蘇ってくる。
過去の苦しみに向き合うどころか、いつしかこの場所で、甘美な夢に酔いしれていたのかもしれない。
「馬鹿だ……」
誰にともなくそう呟く。
雨が唇を濡らした。
今更何を考えているのだろう。夢は終わった。そう、終わったはずだ。今あるのは、逃れえぬ現実だけ――私は白拍子・真鶴御前などではない。謀反人の一族の残党、季子なのだ。
それなのに、手のひらは、まだあの夜の温みを忘れていなかった。
二人で生き延びんと、必死で掴んだ手。
離れぬようにと、絡めた指先ーー
その感触を握りつぶすように、ぐっと手を結んだ。
もう、よそう。無駄な感傷に流されるのはーー
肩の傷をそっと押さえ直すと、また血が溢れ出した。目の前がかすむ。ぐずぐずしている暇はなかった。
鉛のような身体を引きずるようにして、真鶴は先を急いだ。
血の痕も、轍のような足跡も、豪雨がたちまち消し去った。さらにはその姿も、雨の帷がまたたく間に覆い隠していった。
激しく、そして優しくーー
つづく
